恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.7.2「救いは常識の斜め上」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

台風が列島を横断し、水害の被害に遭われた方々が多くおられます。

東日本大震災の時もそうでしたが、天地を造られ統べ治める主のみこころは、私たちにはわからないことがあります。

ただ、傷ついた人々にいやしと守りがありますように。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』3章1-16節 

1.

 将棋を指す人を棋士と言いますが、先日77歳で棋士を引退された、加藤一二三さんがテレビ番組に出演しておられました。

その中で、彼が羽生三冠名人と別の番組で共演されたとき、羽生三冠からこう聞かれました、と紹介しておられました。

「加藤先生、私も先生のようにいつまでも元気で現役を続けたいのですが、その答えを教えてください。」

そのとき、加藤名人が言いたかったのは、「それはね、自分が30歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになったからだよ」ということ。

しかし番組進行の手前、羽生名人に対して単刀直入に洗礼受けなさいよとも言えず、結局、「答えは言わなかった」と。

私の説明だとなかなかニュアンスが伝わらないかもしれませんが、たいへんそのやりとりをかわいくおっしゃるのですね。

司会者の芸人さんが「答え、ないんかい」とお約束の突っ込みで笑いをとっていましたが、答えがないのではなく、答えを言わなかったのです。

にこにこしている加藤名人の顔を見ていると、彼はカトリックで私たちプロテスタントと教派は違いますが、

ああ、信仰を持ったからこそ、この方はいつも平常心で戦ってこられたんだなあ、と感動しました。

彼は30歳で信仰を持ちました。日野原先生は牧師家庭に生まれて洗礼は受けていましたが、信仰に目覚めたのは60歳の時でした。

しかし信仰には手遅れという文字はありません。なぜならば、信仰は神からの賜物ですから、早すぎるとか遅すぎるということはないからです。

ニコデモはそのことを知っていたでしょうか。今日はこの求道者ニコデモについていっしょに考えてみましょう。

 ニコデモの年齢については聖書に書いてありませんが、彼は高齢者の仲間入りをしていたと思われます。

そして彼は年齢と共に築き上げてきた様々なものをたずさえて、イエス様のもとにやってきました。

そのひとつは社会的地位です。彼はユダヤ人の指導者であり、パリサイ人でした。年齢と地位は、時として人に過度のプライドをもたらします。

年齢的にも、社会的地位においてもずっと格下であるはずのイエス様に教えを請うことには、ためらいがあったことでしょう。

そのためらいは、人目につくことのない「夜」の訪問という行動に表れています。

しかし一番厄介で、そしてニコデモ自身気づいていなかった壁は「常識」でした。年齢は人生経験をもたらします。

しかし人生経験にばかりよりかかるならば、常識の範囲内に限り神を信じるといういびつな信仰になってしまいます。

イエス様はニコデモが抱えている闇を一瞬で見抜きました。そして長々とあいさつを始めたニコデモに、ずばりと一言こう言われました。

3節、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。

2.

 「新しく生まれる」とはどういうことだろう。ニコデモは、自らの年齢に応じた常識に基づいて、答えました。

4節、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」。

常識に照らしてみれば、「新しく生まれる?そんなの、無理!」という結論しか生まれません。

 しかし神の力は、常識の向こう側からやってくるのです。

イエス様が言われた「新しく生まれる」という言葉は、「上から新しく生まれる」という意味です。

私たち自身が生み出すのではありません。上から、天から、神から。

人の中からではなく、外からの圧倒的な力によって、人は新しく生まれます。

逆に言うと、人は内側の力によっては決して新しく生まれることはできないのです。

それは、すべての人が生まれつき罪を内側に抱えながら生まれてくるからです。

 どうすれば、自分では変われない罪人が救われて、新しい人生をやり直すことができるでしょうか。

死ぬ気になれば何でもできる、と人は言います。しかし死ぬ気になりたくても結局なれないで終わってしまう人のほうが多いのです。

罪人は自分で自分を変えることはできないのです。

だからこそ上からの力によって、新しく生まれなければならない、とイエス様は言われました。

 それは、人の出産にたとえることができます。出産において、胎児は完全に受け身です。

力むのも、涙を流すのも、歯を食いしばって耐えるのも、努力賞はすべて、お母さんが受け取るべきものです。

看護士さんが「よくがんばりましたね」と声をかけるのは生まれた子どもではなく、生んだお母さんのほうです。

私たちは洗礼式の時に、新しくクリスチャンになった方におめでとうとは言いますが、お疲れ様とは言いません。

救いは、人の努力ではなく神のみわざです。100%、神さまが主導権をもって私たちを生みだしてくださるのが救いです。

3.

 ニコデモにとって、イエスを信じるためには常識を突き破る必要がありました。

「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子も挙げられなければなりません」。これはユダヤ人であれば誰でも知っている物語です。

ニコデモにとって、救い主であるはずのイエスが、荒野で掲げられた青銅の蛇のようになるということも、まったく常識を突きぬけた言葉でした。

しかし覚えていただきたいことは、救いに至る信仰は、常に私たちの常識を突き破りながら、私たちの人生へとねじ込んでくるということです。

ある人はこう尋ねます。クリスチャンになったら、仏壇はどうするの。クリスチャンになったら、毎月献金しなくちゃいけないの。

クリスチャンになったら、お酒やたばこをやめなければいけないの。クリスチャンになったら、今までのように自由に生きられないの。

しかしこのように尋ねる人は、気に入った服や鞄が飾られているショーウインドウの前で、買おうか買うまいか行ったり来たりしているようです。

店の中に入って手に取ってみない限りは、答えは与えられません。救いを自分のものにするためには、救いを体験する勇気を持つことです。

勇気、というよりは信仰と呼ぶべきなのかもしれません。しかし信仰を受けとるためには、私たちが神様に心を開くことが必要です。

勇気を持ちましょう。「イエス・キリストを信じればすべての罪を赦され、永遠のいのちを与えられるのだ」という信仰を受け取るための勇気を。

結.

 ニコデモは、この時にははっきりとイエス・キリストを信じることができなかったようです。

しかしイエス様が死んで墓に納められるときには、彼は没薬を何十キロも抱えて、自分はイエスの弟子だということをはっきりと公に表しました。

イエス様の言葉は、この時にはニコデモは受け入れることはできなくても、やがて彼を静かに、しかし確かに変えていったのです。

イエス・キリストだけが、あなたの人生を変えることができます。

常識のレールの上だけを歩んでいたら、キリストが与えようとしておられる、常識を越えた喜びはわかりません。

しかしもし本当に神様がいるといたら、自分の常識を突き抜けた存在でなければ、私を変える力などありません。

まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストをひとり一人が心の中に受け入れて歩んでいきましょう。