恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.5.21「罪はどこから始まった」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 私は自他共に認める事務用品おたくですが、最近手痛い失敗をいたしました。 ゆうちょ銀行から届く「振替受払通知証」をきれいに綴りたいと思い、近所のコメリで「振替伝票用」とあるバインダーを買ってきました。 はじめまして、コクヨのフ-DF30Nです!まるで新入社員のような透明感と清潔感。期待が高まります。 教会に戻り、さっそく一年分たまりにたまった、振替受払通知証の束に、同じコクヨ製の2穴パンチでどんどんどんどん穴を開けました。 ところが何ということでしょう(加藤みどり風に)。せっかく開けた穴がまるでずれており、フ君にまったく入りません。 どうやらパンチの穴間隔は8センチ、フ君のそれは6センチのようです。よく見たらフ君の背表紙にちゃんと「60mmピッチ」と書いてありました。 同じコクヨ製品なのに。パンチとバインダーの相性が最悪とは。しょうがない、6センチ間隔の2穴パンチでも捜してみっか。 ところが6センチ間隔の2穴パンチは日本のどこを捜しても売っていないということがわかりました。 JIS(日本工業規格)でパンチの穴間隔は8センチと決められているということです。 フ-DF30Nはやはりコクヨが出している、様々な伝票を専用に綴るためのものだそう。それならそうと書いておけば良いのに。 あ、「振替伝票用」と確かに書いてありますね。同じ「振替」だから伝票も通知票も同じようなものだと思っていました。 週報はこちらです。 自由にピッチを変えられるこんなパンチもありますが、なんと5000円。あとこんなに穴いりません。 聖書箇所 『創世記』3章1-24節  1.  今日の聖書箇所は、人間の中に罪が入ってきた出来事について語っています。それは蛇がエバに問いかけた言葉から始まりました。 リビングバイブルという、ややくだけた翻訳では、蛇の言葉をまるで再現ドラマのようにこう訳しています。 「本当にそのとおりなんですかねえ?いえね、ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。 なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか」。 神様がそんなケチなことを言うはずがないよね。男だったらドーンと行ってみなさいよ。エバは女ですが。  エバはどう答えたでしょうか。今度はこの新改訳を使いましょう。 2節、「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました」。 罪とは何でしょうか。エバの言葉こそが、罪とは何かを教えています。罪は、神のことばを取り違えるところから始まります。 よりわかりやすくするために、もともと神が語られていたのはどういう言葉であったのかを見てみましょう。 ページを前に戻り、創世記2章16、17節で、神はアダムにこのように語っておられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」  神様のオリジナルの言葉と、エバの言葉とを比べてみて、違いがわかるでしょうか。 「思いのまま」を取り除き、「それに触れてもいけない」と勝手に付け加え、さらに「必ず死ぬ」という警告を「死ぬかもしれない」と薄めています。 エバは、神の愛を疑っていました。彼女にとって、神はすべての所有者なのに肝心なものは独り占めする、恐ろしい方です。 「それに触れてもいけない」と付け加え、「思いのまま食べてもよい」を取り除いているのは、彼女の心の中の疑いを表しています。 じつはこれこそが、罪の本質です。罪とは、何かを盗んだとか誰かを傷つけた、ではありません。 神のことばを軽んじて、神のみこころよりも自分の考えを優先しようとするとき、そこに悲劇が起こります。 私たちにおいてもそうです。聖書の中には、私たちがどう生きていくべきか、何を避けていくべきかが確かに書かれています。 しかし神のことばよりも、自分自身の考えや損得を優先することから、罪は始まります。 盗みや傷害という行いの罪も、もとをただせば神の視線と神のことばを忘れ、自分を神とするところから始まっているのです。 神を正しく恐れなければなりません。神のことばを踏みつけるならば、あなたがたは必ず死ぬと警告されているのです。 2.  「あなたがたが神のようになり」というこのサタンの偽りの約束に乗せられて、エバは善悪の知識の実に手を伸ばして食べました。 アダムはこのときどこにいたのでしょうか。聖書にははっきりとこう書いてあります。いっしょにいたのです。 エバは神の言葉を軽んじました。それは、アダムもまた神のことばを軽んじ、助け手である彼女に適当に伝えていたからです。 夫婦の問題を専門的に扱ってきたあるカウンセラーが、愛の反対は憎しみではなくて無関心だと言っています。 人間の堕落の責任は蛇、すなわち悪魔にあるのではありません。 神のことばを分かち合うことにまるで無関心だった彼ら人間に100%責任があります。 悪魔がそそのかさなくても、神のことばを軽んじていた夫婦はいずれ神のことばを破っていたことでしょう。 人間の罪の出発点は、神のことばを軽んじて、そこに込められた愛、そして信頼を疑ったことにあります。 神の言葉は真実です。力があります。このことばにとどまるならば、勝利を得るのです。 しかし神の言葉を軽んじて、己の目に移るものや成功体験により頼むならば、そこに救いはありません。 このことを心の中に堅く刻みつけてください。  7節、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」。 確かに蛇の言ったとおり、彼らの目は開かれました。しかし開かれた目に飛び込んできたものは、神と並ぶ者になった喜びではありません。 自分がいかに恥ずかしいものであるかという自覚でした。 この3章の直前では、人とその妻は二人とも裸だったが、互いに恥ずかしいとは思わなかったと書かれています。 神様は、彼らがどんな格好をしていようが、彼らを無条件に受け入れてくださっていました。 だから彼らは自分を受け入れて、お互いをも受け入れることができました。 しかし神との絆が切れたとき、人間は自分を受け入れることができなくなり、そしてほかの者も受け入れることができなくなったのです。 3.  そのとき神様の声が園の中に響きました。「あなたは、どこにいるのか」。 すべてを知っておられる神は、人がどこに隠れているかを知っておられます。「あなたは、どこにいるのか」。 それは神様の招きの言葉でした。このとき、人間が神の招きに答えたらよかったのに。 繁みから神の前に飛び出して、ごめんなさい、私たちはあなたとの約束を破ってしまいました。どうかお許しください、と悔い改めればよかったのに。 だれもがそう思うでしょう。しかしそれは不可能でした。 神の命令を破ってしまったとき、人間の中には罪が入りました。そして罪は、神を見えなくさせてしまったのです。  罪が人間にもたらしたのは、どんなに神様を求めても、人はもう神がわからない、という悲劇です。 すべての人は、今も心の奥底では「あなたはどこにいるのか」という声が聞こえています。そして神様のもとに戻りたいと無意識に願っています。 人がしばしば示す、他人への愛の行動はその証明です。しかし人は神がわかりません。だから自分で神を作って拝みます。 偽物の神にすぎないのに、ある者は木や金属を刻んで神を作ります。 ある者は家族愛や祖国愛を神の代わりとし、またある者は無神論という人間が作った神を拝んでいます。 しかし何を拝んでも、何を求めても、本当の神に出会うことができません。 すべての人がこのアダムとエバから生まれた以上、人はどうやっても自分からは神との絆を取り戻すことができないのです。 結.  しかし自分自身の力によっては罪の力から逃れることができない私たち人間のために、神は救いの約束を残してくださいました。 15節で、神は蛇に対してこう宣言しました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。  これは別名、原福音と呼ばれます。イエス・キリストの十字架の原点がここにあるという意味です。 アダムとエバの子孫であるすべての人類は、罪の支配下にあります。その行き着く先は例外なく、永遠の滅びです。 しかし神は私たちをあわれみ、神が私たちと同じ人間の姿をとって、私たちの罪のさばきの身代わりとなってくださいました。 蛇の頭は踏み砕くとは、キリストが十字架の死によって罪に完全に勝利されるということ、 そして蛇がかかとにかみつくとは、十字架の死はキリストにとって致命傷にはなり得ないということです。 イエス・キリストは確かに私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、信じる者たちを完全に救ってくださいます。 きょう、私たちがイエス・キリストを信じるならば、私たちは永遠のいのちをいただくことができるのです。 信じましょう。あなたを罪のさばきから完全に救ってくださるお方が、あなたが決心するのを待っておられます。