恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.5.7「創造の秩序」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 今週、聖書考古学の講演会が県内の2教会(同盟・新津、伝福・高田)で行われます。 案内チラシを私が作成しましたので、ここに改めて案内させていただきます。最寄の方はどうぞご出席ください。 2017tcu1.jpg2017tcu2.jpg 私も当日、新津教会にて録音録画の奉仕に励みます。週報はこちらです。 聖書箇所 『創世記』1章1-31節  序.  宅配便で届く段ボール箱に「天地無用」というラベルが貼ってあることがあります。 「天地」、つまり箱の上下を逆にしてはいけないという意味ですが、「無用」とあるから「上下を気にしなくても良い」と誤解する方もいるそうです。 「初めに、神が天と地を創造した」。この単刀直入な切り出しは、まさに聖書という宝箱に貼ってある「天地無用」のラベルだと言えます。 先に天が造られ、次に地が造られました。この順番は決して逆にしてはなりません。 「天」と「地」の関係は、「神」と「私」という関係にあてはめることができます。 青春時代、こんな悩みを持つことがあるでしょう。「私がこの世界に生きる目的は何だろう」「何のために私は生きているのだろう」。 人生に問いを持つことはすばらしいことですが、「私が」「私は」から始まる問いは、いわば「地」を先に、上に、考えることです。 しかし私たちはむしろ「天」を上にしてこう問いかけてみるべきでしょう。 「神が、この世界に私を生みだしてくださった目的は何だろう」「神は、何のために私を生かしているのだろう」。 それは、人生というドラマの主役を、私から神に移すことだと言えます。 もちろんはじめからこんな風に考えることのできる人はいません。人生に問いを持つにしても、「私が」「私は」というところから始めます。 しかし人生のどこかで「私が生まれた意味」から「神が私を造ってくださった意味」と考え方を変えるとき、見えてくるものがあります。 「私の人生の目的」という問いから「神が私の人生を通して表そうとしておられること」へと考え方を変えるとき、物事が新しい光を放ちます。 1.  2節ではこう語られます。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」。 「動いていた」は「覆っていた」とも訳されます。 「地」が私と私の生きている世の象徴だとすれば、混沌しか見あたらない世界の中でも、神の御霊がそこを覆っています。 さらに4節から5節にはこのようにあります。 「神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」。 人々は自分の人生の目的を見失っています。私自身の心も、神を信じると言いながら、しょっちゅう不信仰の中へと引き込まれます。 しかし神の霊は確かに私とこの世界を覆っています。神のことば、聖書を受け取るとき、聖霊は私たちの心を開いてくださいます。 さらに人はやみを恐れます。そして夜はやみが支配するところであり、人類は数千年かけて夜を昼のように光で覆うことを求めてきました。 しかし聖書は、やみさえも神が造られたものなのだと教えています。 光が神の領域、闇が悪魔の領域というようには教えません。光と闇、昼と夜、それぞれが神の御手によって造られたものなのだ、と。 詩人でもあった王ダビデは、暁の果てに住んでも、闇が覆うよみに逃げ込んでも、私のたましいは神から決して逃げられないと告白しています。 だから私たちは、目の前に起きた幸せなできごとを光、逆に不幸なできごとを闇、と自分勝手に仕分けすることはやめましょう。 人の目から見て光と闇に色分けされていたとしても、神の目にはどちらもご自身の領域なのですから。 2.  さて、今日の創世記一章は、六日間かけて神が世界のすべてを造られたことを記しています。 その中の大事なキーワードとして、「区別」という言葉が何度も繰り返されていることをおぼえていただきたいと思います。 「区別」という言葉は、常に目的とワンセットです。 「区別された」とは、神が混沌の中に秩序を生み出そうとされていたという目的を表す言葉です。  何もなかったところに神の秩序を生み出すために、まず「光よ。あれ」というみことばが語られました。 天にも地にも水があふれている中で、神のことばがそれぞれの領域の水を分けて、そこにも秩序が生まれました。 地においても陸地と海がみことばによって区別され、かわいたところとそうでないところという秩序が生み出されていきました。 さらに動植物も、「種類にしたがって」という言葉によって、それぞれの生き物がふさわしいかたちでふさわしい場所に生み出されました。 このように、神はこの世界のあらゆるものが、神の定めた目的にしたがって歩んでいくようにと定められました。 その目的とは何でしょうか。 それは、神につくられたあらゆるものが、その有り様、あるいは生き様を通して、神の愛と喜びを表すということです。 自然や動植物だけではありません。人間社会の夫婦、親子、社会の姿の中にもこの創造の秩序が一貫して流れています。 夫と妻が互いに助け合って生きること、親と子が心通い合わせて生きること、社会の中で互いの弱さを担い合い、仕え合って生きること。 それもまた、この天地創造から始まり、今日に至るまで、神が私たちに与えられた、創造の秩序の一つです。 3.  しかしながらこの世はすでに神が造られた秩序を見失い、おのおのが自分のやりたいように生きています。 モラルや道徳という言葉さえも死語になっているようなそんな時代、そんな世界です。 しかしそんな混沌の時代だからこそ、私たちは今一度この天地創造の物語の中に込められた、神のみこころを心に刻みつけるべきです。 私たちは偶然この世界に生まれたアメーバーのなれの果てではありません。 神の永遠の計画に基づいて、神のみこころによって生み出されたものです。 パウロはエペソ教会にあてた手紙の中でこう書いています。「この世の基がおかれる前からあなたがたはキリストにあって選ばれていたのだ」と。 そこには目的がありました。混沌と混乱の中に生きるためではなくて、秩序と平安の中に私たちが生きるために、私たちは造られました。 しかし数週間後に学びますが、人は罪によって堕落してしまい、秩序も平安も失ってしまいました。 それを取り戻すために、イエス・キリストが私たちの罪のさばきの身代わりとなってくださったのです。そして私たちは救われました。 与えられた命は、与えてくださった方イエスのために用いるべきです。 生きること、死ぬことすべてが、私のためにではなくキリストのためにある、と心ではっきりと信じる者は、秩序と平安を回復します。 夫婦の関係、親子の関係、またあらゆる人と人との繋がりの中に私たちはイエスを見いだし、愛おしく思えてくるのです。 ひとり一人が、この天地創造の背後に込められている、神の愛と期待を見つめながら、歩んでいきましょう。