こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週、聖書考古学の講演会が県内の2教会(同盟・新津、伝福・高田)で行われます。
案内チラシを私が作成しましたので、ここに改めて案内させていただきます。最寄の方はどうぞご出席ください。


私も当日、新津教会にて録音録画の奉仕に励みます。週報は
こちらです。
聖書箇所 『創世記』1章1-31節
1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。13 夕があり、朝があった。第三日。
14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。19 夕があり、朝があった。第四日。
20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」23 夕があり、朝があった。第五日。
24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
序.
宅配便で届く段ボール箱に「天地無用」というラベルが貼ってあることがあります。
「天地」、つまり箱の上下を逆にしてはいけないという意味ですが、「無用」とあるから「上下を気にしなくても良い」と誤解する方もいるそうです。
「初めに、神が天と地を創造した」。この単刀直入な切り出しは、まさに聖書という宝箱に貼ってある「天地無用」のラベルだと言えます。
先に天が造られ、次に地が造られました。この順番は決して逆にしてはなりません。
「天」と「地」の関係は、「神」と「私」という関係にあてはめることができます。
青春時代、こんな悩みを持つことがあるでしょう。「私がこの世界に生きる目的は何だろう」「何のために私は生きているのだろう」。
人生に問いを持つことはすばらしいことですが、「私が」「私は」から始まる問いは、いわば「地」を先に、上に、考えることです。
しかし私たちはむしろ「天」を上にしてこう問いかけてみるべきでしょう。
「
神が、この世界に私を生みだしてくださった目的は何だろう」「
神は、何のために私を生かしているのだろう」。
それは、人生というドラマの主役を、私から神に移すことだと言えます。
もちろんはじめからこんな風に考えることのできる人はいません。人生に問いを持つにしても、「私が」「私は」というところから始めます。
しかし人生のどこかで「私が生まれた意味」から「神が私を造ってくださった意味」と考え方を変えるとき、見えてくるものがあります。
「私の人生の目的」という問いから「神が私の人生を通して表そうとしておられること」へと考え方を変えるとき、物事が新しい光を放ちます。
1.
2節ではこう語られます。「
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」。
「動いていた」は「覆っていた」とも訳されます。
「地」が私と私の生きている世の象徴だとすれば、混沌しか見あたらない世界の中でも、神の御霊がそこを覆っています。
さらに4節から5節にはこのようにあります。
「
神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」。
人々は自分の人生の目的を見失っています。私自身の心も、神を信じると言いながら、しょっちゅう不信仰の中へと引き込まれます。
しかし神の霊は確かに私とこの世界を覆っています。神のことば、聖書を受け取るとき、聖霊は私たちの心を開いてくださいます。
さらに人はやみを恐れます。そして夜はやみが支配するところであり、人類は数千年かけて夜を昼のように光で覆うことを求めてきました。
しかし聖書は、やみさえも神が造られたものなのだと教えています。
光が神の領域、闇が悪魔の領域というようには教えません。光と闇、昼と夜、それぞれが神の御手によって造られたものなのだ、と。
詩人でもあった王ダビデは、暁の果てに住んでも、闇が覆うよみに逃げ込んでも、私のたましいは神から決して逃げられないと告白しています。
だから私たちは、目の前に起きた幸せなできごとを光、逆に不幸なできごとを闇、と自分勝手に仕分けすることはやめましょう。
人の目から見て光と闇に色分けされていたとしても、神の目にはどちらもご自身の領域なのですから。
2.
さて、今日の創世記一章は、六日間かけて神が世界のすべてを造られたことを記しています。
その中の大事なキーワードとして、「区別」という言葉が何度も繰り返されていることをおぼえていただきたいと思います。
「区別」という言葉は、常に目的とワンセットです。
「区別された」とは、神が混沌の中に秩序を生み出そうとされていたという目的を表す言葉です。
何もなかったところに神の秩序を生み出すために、まず「光よ。あれ」というみことばが語られました。
天にも地にも水があふれている中で、神のことばがそれぞれの領域の水を分けて、そこにも秩序が生まれました。
地においても陸地と海がみことばによって区別され、かわいたところとそうでないところという秩序が生み出されていきました。
さらに動植物も、「種類にしたがって」という言葉によって、それぞれの生き物がふさわしいかたちでふさわしい場所に生み出されました。
このように、神はこの世界のあらゆるものが、神の定めた目的にしたがって歩んでいくようにと定められました。
その目的とは何でしょうか。
それは、神につくられたあらゆるものが、その有り様、あるいは生き様を通して、神の愛と喜びを表すということです。
自然や動植物だけではありません。人間社会の夫婦、親子、社会の姿の中にもこの創造の秩序が一貫して流れています。
夫と妻が互いに助け合って生きること、親と子が心通い合わせて生きること、社会の中で互いの弱さを担い合い、仕え合って生きること。
それもまた、この天地創造から始まり、今日に至るまで、神が私たちに与えられた、創造の秩序の一つです。
3.
しかしながらこの世はすでに神が造られた秩序を見失い、おのおのが自分のやりたいように生きています。
モラルや道徳という言葉さえも死語になっているようなそんな時代、そんな世界です。
しかしそんな混沌の時代だからこそ、私たちは今一度この天地創造の物語の中に込められた、神のみこころを心に刻みつけるべきです。
私たちは偶然この世界に生まれたアメーバーのなれの果てではありません。
神の永遠の計画に基づいて、神のみこころによって生み出されたものです。
パウロはエペソ教会にあてた手紙の中でこう書いています。「この世の基がおかれる前からあなたがたはキリストにあって選ばれていたのだ」と。
そこには目的がありました。混沌と混乱の中に生きるためではなくて、秩序と平安の中に私たちが生きるために、私たちは造られました。
しかし数週間後に学びますが、人は罪によって堕落してしまい、秩序も平安も失ってしまいました。
それを取り戻すために、イエス・キリストが私たちの罪のさばきの身代わりとなってくださったのです。そして私たちは救われました。
与えられた命は、与えてくださった方イエスのために用いるべきです。
生きること、死ぬことすべてが、私のためにではなくキリストのためにある、と心ではっきりと信じる者は、秩序と平安を回復します。
夫婦の関係、親子の関係、またあらゆる人と人との繋がりの中に私たちはイエスを見いだし、愛おしく思えてくるのです。
ひとり一人が、この天地創造の背後に込められている、神の愛と期待を見つめながら、歩んでいきましょう。