恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.4.9「十字架からの三つの言葉」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』19章23-30節 

1.

 私が洗礼を受けたのは高校三年生、1990年のクリスマス礼拝の時でした。その日、家に帰った私は、父親に向かってこう言ったそうです。

「お父さん、今日からぼくはお父さんの子どもではありません。生まれ変わって神様の子どもになりました」。

父親はよっぽど寂しい思いをしたのでしょう、毎年正月になると親戚の前でこの話を披露して、私が動揺するのを楽しんでいるようです。

私の記憶によれば、「今日からぼくは神様の子どもになったよ」とは確かに言いました。

しかしいくら何でも、「お父さんの子どもではありません」なんてひどいことは絶対に言っていないはずなのですが。

父親はともかく、親戚がキリスト教に悪い印象を持たないかどうか、心配しています。

 イエス・キリストが十字架の上から母マリヤにこう呼びかけたとき、彼女はどう思ったでしょうか。「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。

これが、この地上で息子から母親に送った最後の言葉となりました。

目の前で、手足を太い釘で十字架に打ち付けられ、息も絶え絶えのわが子から「お母さん」と呼びかけられるのではなく、「女の方」と。

太平洋戦争で九死に一生を得たというあるお年寄りがこう語っていました。

戦地で死んでいく仲間たちが最後に口にしたのは「天皇陛下万歳」ではなくて「お母さん」というたったひと言の言葉だった、と。

「女の方」という呼びかけは、いま母の前で死の苦しみにもだえている息子の言葉にしては、あまりにもよそよそしすぎるように思えます。

しかし息子イエスが十字架に打ち付けられていたとき、母マリヤもまた自分の十字架を背負っていました。

マリヤは、聖霊によってイエス様をお腹に宿して以来、イエス・キリストがすべての人の罪を背負いながら歩んでいる姿を見つめ続けてきました。

そしてこの最後の十字架の時に至っても、イエス様の口から出て来たのは「お母さん」ではなく、「女の方」という遠い言葉でした。

しかしそれでも彼女はひと言も叫ぶことなく、ひたすら食い入るように十字架のわが子を見つめていたに違いありません。

2.

 今も昔も、人の抱える悩みのトップは、家族との関係です。私は、少年時代、父親の財布からこっそりとお金を盗んでいたことがありました。

当時流行っていたプラモデルが欲しかったことは事実ですが、原因の根っこはもっと深いところにありました。

父親の前では今でも言えませんが、その頃の私はそれこそ、「お父さんの子ども」だという絶対的な感覚がなかったのです。

悪いことだとわかっていたはずです。しかしお父さんの子どもだということがわかる、手段としては歪んでいても、そんな願いがあったように思います。

決して罪を正当化するつもりはありません。

しかしたとえ私たちの家庭にどのような問題があろうと、そしてそれが今は出口の見えないトンネルのようであったとしても、

マリヤもまたその背中にわが子がどんどん遠くなっていく痛みを背負っていたのだということを思うとき、

キリストの十字架は二千年前のものではなく、今の私のためなのだということがわかるのです。

そしてそのうえで、私たちはもうひとつのイエス様の言葉に目をとめましょう。

27節、「それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」。

 十字架のすぐそばでは、兵士たちがイエス様の着物をくじで分け合うことに熱中していました。

彼らは目の前のイエス様が、自分たちのみにくさのために十字架にかかっておられるのだということを考えることもありません。

しかしそれと対照的に、十字架から離れて立っていた女性たちと、弟子ヨハネは、イエス様の言葉を通して、新しい家族へと召されていました。

そこにはヨハネの他に、四人の女性がいたと記録されています。イエスの母は言うまでもなくマリヤですが、「母の姉妹」とは誰のことでしょうか。

他の福音書を見ると、それはゼベダイの子らの母、すなわち、このヨハネのじつの母のことだと記されています。

ではイエス様とこの弟子ヨハネはもともといとこ同士ということなのでしょうか。そうではありません。

十字架の上でイエス様は弟子ヨハネに母マリヤを預け、こう言いました。「そこに、あなたの母がいます」。この言葉のとおりです。

つまり、そこに立っていたヨハネのじつの母は、このときまさにイエスの母マリヤと姉妹になった、ということなのです。

ここには、イエス・キリストを信じることを通して、この世の家族以上に愛し合い仕え合う関係となる、神の家族の姿があります。

私たちはこのイエス・キリストを信じるときに神の愛によって変えられます。本当の家族の愛に生かされるものとなります。

そして教会でキリストの愛に育まれてその愛を家庭に持ち帰るとき、私たちの本来の家族との関係も変えられていきます。

私もそれを経験しました。十字架は希望です。修復不可能に見えるほどの家族であっても、十字架の光に照らされるときに変わっていくのです。

3.

 今、十字架の前に家族が生まれました。今、十字架の前に神の国が到来しました。

イエス様は、全身を釘で突き刺された痛みを覚えながらも、すべてが完了したことを確信し、「わたしは渇く」と言われました。

そして発酵していないぶどう酒が浸された海綿がイエス様の口に突き出されました。

それはイエス様の痛みをいやすための、モルヒネの代わりでしたが、イエス様にとってはもっと大きな意味がありました。それは祝杯です。

イエス・キリストがこの世に来られた目的は、全人類の罪の身代わりとして、自らが十字架でさばきを受けること。それが今完了したのです。

イエス様を救い主として信じる者は、すべての罪が完全に赦され、永遠のいのちが与えられるという約束。それが今実現したのです。

だからイエス様は「乾杯」ならぬ、こう叫ばれました。「完了した」と。

 「完了した」。それはただ終わったという意味ではありません。

人間が救われるために必要なことはすべてイエス様が完成されました。もう救われるために人間がなし得ることは何も残っていないのです。

人々は救われるために、悪行から離れ、善行を積み重ねようとします。しかし完全に悪から離れることのできる人はいません。

良い行いもまた、自己満足で終わってしまうことがほとんどです。それでもまったくしないよりは、なにがしでもしたほうがまし。

そう考えて、人は努力します。しかしイエス様は宣言されました。「完了した」と。

イエス・キリストが私たちのすべての罪を背負い、身代わりになってくださいました。

「すべての」です。過去に犯した罪も、現在犯している罪も、将来に犯すかもしれない罪も、あらゆる罪へのさばきが完了したのです。

イエス・キリストは神のひとり子です。神のひとり子が、父なる神にのろわれる者となって十字架で死んでくださいました。

その完全ないけにえが、あらゆる罪のさばきを未来永劫、完了させたのです。

私たちは救われた後も、罪を犯し続けます。自ら望んで罪を犯すことはなくなっても、それでも罪を犯してしまうということがあります。

しかしイエス様の完全な犠牲は、すべてを終わらせたのです。何があっても、決して救いが取り去られることはありません。

そしてこの完全な犠牲に私たちが付け加えるものさえ、何もないのです。

私たちにできることは、イエス様が私の代わりに救いを成し遂げてくださったと信じることだけです。

私は何もできない。私は間違える。私は罪を犯す。でもイエス様が、私の代わりにすべてを完了してくださった。

どうかイエス様が十字架で成し遂げてくださったのは、私のためなのだ、私を救うためなのだと信じてください。