恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.3.12「MOTTAINAIを乗り越えて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章1-8節 

1.

 私は子どもの頃、シイタケが苦手でした。食卓に出ても、いつも手をつけないで残していました。

母親は最初の頃は「シイタケを食べると頭がよくなるんだよ」とか言っていましたが、そのうちにこう言い出すようになりました。

「伸之、食べ物を残すなんてもったいないだろう!アフリカには、食べたくても食べられない人たちがたくさんいるんだよ!」

私は半べそをかきながら、心の中で(きっとアフリカの人たちだって、シイタケは嫌いだよ)とつぶやいていたことを思い出します。

しかしそのアフリカのケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイさんという女性をご存じでしょうか。

彼女は来日した際に「もったいない」という日本語を知り、「MOTTAINAI」精神を世界に広める活動を続けておられます。

彼女曰く、「MOTTAINAI」は究極の環境保護であると持ち上げてくださり、日本人としては誇らしい限りです。

しかし「もったいない」という日本語が、いつも良い意味で使われるわけではありません。

大切な人のために、損得を考えずに犠牲を払った、その行動を他人から「もったいない」と言われてしまうこともあります。

それがイエス様の葬りのために、300デナリもするナルドの香油をささげたマリヤが経験したことでした。

 今日の聖書箇所ではイスカリオテ・ユダのことばだけが強調されていますが、同じできごとを描いているマタイ福音書ではそうではありません。

ユダだけではなく弟子たち全員が憤慨して、こう言ってマリヤを責めたのです。

「何のためにこんな無駄なことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。

「何のためにこんな無駄なことをするのか」。日本語に直せば、まさに「なんともったいない」です。

クリスチャンは、神の愛に答えたいと願い、自分の持っているものを神様にお返しします。

しかしそれは、神を知らない人々にとっては、常識外れの行動として目に映ります。そして「もったいない」という言葉が矢のように突き刺さります。

私が大学生の頃、「日曜日は教会で一日過ごしているんだよ」と友人に話すと、「何やってんだ、時間がもったいない」と言われました。

社会人になって、「月給のうち、○○○を神さまにささげている」と同僚に話すと、「何やってんだ、お金がもったいない」と言われました。

マリヤの行動は、イスカリオテのユダはもちろん、ほかのイエスの弟子たちにとっても、理解できない行動でした。

しかしイエス・キリストだけは、彼女の行動に現れている思いをご存じでした。

イエス様は、神を愛し、自分にできることを神にささげたいと願う者たちの心を知っておられます。

今日私たちは、マリヤの姿を通して、私たち罪人の心を変えていく神様の愛を味わっていきたいと願います。

2.

まずはじめに、神の愛が私たちの心に迫ってくるとき、私たちは惜しみなく与える者となるということをおぼえましょう。

300デナリという金額は、当時の一般労働者の給料一年分にあたると言われます。今日の額に直せば、三百万円以上です。

ナルドの香油は、上流階級の貴婦人でさえ数グラムずつ使うものでした。ところがマリヤは、300グラムを一気にどばっと使ってしまうのです。

「もったいない」。そこにいた弟子たちの誰もがそう思いました。

しかしマリヤの心の中はどんな思いで占められていたのでしょうか。それはこういう思いではなかったでしょうか。

イエス・キリストは私の兄弟ラザロをよみがえらせてくださった。そして私も、終わりの日には死からよみがえらせてくださる。

その愛に何をもって答えることができるだろうか、と。その答えが300デナリのナルドの香油でした。

世の人々から見ると、クリスチャンが神様にささげる時間やお金は愚かに見えるかもしれません。

しかしイエス様が私のために命を捨ててくださった犠牲は、私たちを惜しみなく神様に与える者へと変えていくのです。

 神は私たちに示してくださった愛をひたすら思い起こすとき、マリヤと同じように、今自分は何をすべきなのかがわかります。

ユダは筆頭として、弟子たちはマリヤを辛辣に批判しました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」。

しかしマリヤが今ここでイエス様のためにささげたのは、彼女がいつもイエス様の言葉を熱心に聞いていたからです。

いつも神のことばをひたすら乞い求め、イエス様の御前に座って聞き入っていたマリヤだからこそ、

今、イエス様がご自分のいのちを捨てようとしておられる、その時なのだということがわかりました。

イエス様だけは、マリヤのの心を理解してくださいました。

だからこそ、目をつり上げる弟子たちをいさめ、「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」と言われました。

 イースターの朝、イエス様の墓へ油を塗りに行った女性たちがいました。

その中に含まれている、マグダラのマリヤと、このベタニヤ村のマリヤは、名前は同じでも別人であると言われています。

マグダラのマリヤは、イエス様が死んだ後であふれる愛を示しました。

しかしベタニヤのマリヤは、今イエス様が生きているうちに、愛し尽くすことを選んだのです。

今、私たちはどのようにイエス様を愛し、どのようにイエス様の愛に答えるか、それぞれが思い巡らしていきましょう。

3.

 今からど二年前、新潟の諸教会のために長年労してくださったマクダニエル元宣教師が天に召されました。

マク先生の死に際して、この宣教区でどのように感謝を示そうか、という話し合いの中で、まず追悼文集にとりかかりました。

成り行き上、私が有志から原稿を集めて、妻がワープロ打ちして、思い出を文集にまとめることになりました。

編集作業そのものは、私たち夫婦は慣れておりますので、別にどうってことはありませんでしたが、問題はそのあとです。

追悼文集をそのまま送っても、マク先生の奥様、ペギー先生は日本語がもう読めません。

原稿を日本語から英語に翻訳する作業が必要です。

諸教会にはあらかじめ翻訳への協力者を要請していたのですが、こんな大変な作業、誰だって尻込みします。

人に頼むのは諦め、こちらでほとんどやりました。しかし「カマボコ型の教会堂」なんてどうやって翻訳したらよいのでしょうか。

とはいえ苦労した甲斐があり、奥様に送りましたらたいへん喜んでいただき、それからも時々メールをいただいております。

しかし、マリヤの姿を思い描きながら、こう思わされました。

確かに追悼文集を送って喜んでいただけた、しかし天に召されたマクダニエル先生ご本人は、当たり前ながらそれを読むことができない。

亡くなってからではなく、まだ生きておられる間に、感謝を伝えるべきだった。

マクダニエル先生のよき相棒であったリース先生は、体調を崩しがちだと聞いている。

リース先生はじめ、新潟に関わってくださった宣教師家族がご存命なうちに、何とか感謝を伝えたい。そんな願いを改めて与えられました。

 イエス様が十字架にかかられる前に、マリヤがあらかじめ葬りの香油を塗ったことは、決して奇跡ではありません。

イエス様の言葉をいつも熱心に聞いていたマリヤだからこそ、十字架で身代わりとなって命を捨てるイエス様の覚悟を感じ取っていたのです。

今日、ひとり一人がこのマリヤのように、イエス・キリストのみことばをいつも耳を傾けていく者となりましょう。

朝に、夕に、いつもみことばを心にかみしめて、神のみこころは何かを探り求めていきましょう。

みことばは、神の愛を私たちに明らかに示してくれます。

そして神の愛がわかるとき、私たちは神様のために喜んでささげることができます。喜んで仕える者となれるのです。

どうか、ひとり一人が、今日のマリヤの姿を心に刻みつけ、さらにイエス・キリストを深く愛する者となりますように。