恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.2.12「バアルか、キリストか」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第一』18章15-40節 

序.

 今から90年前の1927年、中近東にあるシリヤのラス・シャムラという町で、古い粘土板が発見されました。

考古学者が何年もかけて調査したところ、これはモーセと同じ頃かそれよりも古い時代にまで遡るものだとわかりました。

しかし人々が驚いたのはそこからです。

その粘土板からは、聖書に繰り返して登場する異教の神バアルが他の神々と戦う物語が解読されたからです。

 バアルはそれまで旧約聖書以外の資料がほとんど残っておらず、その実態についてはほとんどわかっておりませんでした。

しかしこのラス・シャムラ文書の発見によって、断片的だったバアル神話の全体像が明らかになったのです。

バアルは豊かな収穫を約束する神でした。しかしその収穫は、バアルが牛の姿をとって自分の妹である別の神を犯すことから始まります。

バアル神話は、男女の性行為を通して収穫が約束されるという禍々しい営みで満ちておりました。

神が自分の妹を犯すという近親相姦、また神が獣に姿を変えて人間と交わるという獣姦。

旧約聖書には、バアルを信じる者たちが高い丘の上や青々とした木々の下で口にするのも憚られるような淫らな行ないにふけったこと、

またバアル神殿では巫女による売春や、同性同士の性交が営まれていたことが記されています。

それがバアル礼拝であり、神がカナン人を絶滅させてでも決して取り入れてはならないと厳しく命じられたことでした。

預言者エリヤが自分の命をかけて戦ったのは、いま国中にはびこっている、この偶像バアルとその教えに対してであったのです。

1.

 聖書では、カナンの地、つまり現代のパレスチナは、もともとイスラエルの先祖アブラハムに与えられた相続地であったことが語られています。

そしてアブラハムから何百年か後、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人はモーセに率いられて、約束の地カナンへ帰って来ました。

アブラハムの時代には、バアル礼拝はまだ生まれていなかったか、あるいは影響の少ないものでしかありませんでした。

しかしモーセの時代にはすでにカナン人のあいだに深く広まっており、真の神を知っているイスラエルをも飲み込もうとしておりました。

バアル礼拝は、人間の邪な欲情を解放し、むしろ欲情のままに生きることをほめたたえていくような宗教でした。

それゆえ神は、カナン人に嫁いだり、めとったりしてはならないと、モーセを通してイスラエル人に命じました。

しかしエリヤの時代、北イスラエル王国の王妃となったイゼベルは、カナン礼拝の総本山と言ってもよい、ツロ・フェニキア出身の女性でした。

イゼベルはバアル、そしてその妻として信仰されていたアシェラを信じる者たちを保護し、逆にまことの神の預言者たちを殺害しました。

アハブ王も、イゼベルに影響されて、まことの神を捨ててバアル礼拝に走るようになりました。

しかしイゼベルの迫害から一人だけ残ったエリヤが、いま神から遣われたまことの預言者として王と王妃の前に姿を表しました。

そしてバアルの預言者450名、アシェラの預言者400名を集め、互いの神の名によって対決することを宣言したのです。

 20節でエリヤは民によびかけます。

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」。

民は、主を完全に捨てていたわけではありません。自分たちは主の民であると信じ、神のことばである旧約聖書も学んでいました。

彼らの問題点は、まことの神である主を信じながら、おぞましいバアル礼拝も受け入れて、それが自然だと考えていたことです。

私たちの目を聖書の世界から、現代へと転じてみると、民の姿は今日の多くのクリスチャンの姿にも似ているのではないでしょうか。

日曜日には棚から聖書を取り出してほこりを払い、教会の礼拝に出かけます。

しかし礼拝で頭の中に浮かんでくるのは神や聖書ではなく、家に帰ってやりたいこと、

ある教会の牧師に聞いたら、礼拝が終わると人々は挨拶もそこそこに教会を後にして、愛餐や交わりなどほとんどできないということでした。

だとすれば、いつまでどっちつかずによろめいているのか、と言われても仕方ありません。

確かに、どんなクリスチャンも、数千前にバアル信者がやっていたような不埒な行いからは一線を引き、自分を律してはいることでしょう。

しかし常に罪というものは、これくらいたいしたことない、と思われるところから始まります。

やがてじわじわと私たちの生活を締め上げて、気づいたときには私たちから神への信頼を引きはがしてしまっているのです。

2.

 ところでなぞなぞの本に、こんな問題が載っていました。

「アフリカのある村に伝説の雨乞いの踊りがあります。村人がこの踊りを踊ると必ず雨が降ってくるのですが それはなぜでしょうか」

答えは、「雨が降るまで熱心に踊り続けるから」だそうです。

 人は、信仰の熱心さには興味を持っても、信じているものが本物かということについてはほとんど気にかけません。

古来より日本人は、至る所に神を認めてきました。台所にはかまどの神、便所には厠の神、それは人が作り出した神にすぎません。

私たちの先祖は、数え切れないほどたくさんの神を作り出し、名前を与え、熱心に信仰を続けてきました。

 しかし大切なのは、どれだけ熱心に信じるかということではなく、何を信じるかということです。

バアルの預言者たちは、半日中バアルに叫び、いよいよ自分の体を剣や槍で傷つけて血を流してまで、バアルを呼び求めました。

しかし彼らの熱心さはバアルを動かすことはありませんでした。はじめから存在しない、ただ人間の作り上げた偶像にすぎなかったからです。

私たちがどんなに熱心に信じていても、信じているものが偽物であれば、その信仰はむなしいものでしかありません。

 しかし私たちは、まことの神を知っています。人の作り出した神ではなく、すべての人を造られたまことの神を知っています。

それが、天から火を降らしていけにえを焼き尽くした神であり、私たちにご自分のいのちまでも与えてくださったイエス・キリストです。

この方を信じるとき、私たちの人生は変わります。

頼りにならないものに望みを置いていた生活から、このお方だけがおられれば、他には何も必要ないという生活に変わります。

 バアルの預言者たちは、結局何時間たっても火をつけることができませんでした。

しかしエリヤは、神に祈る前に、祭壇を建て直し、イスラエル12部族を表す12の石を並べました。

民に命じて、いけにえ、たきぎの木、祭壇、祭壇のまわり、あらゆるところに水を注ぎました。

それはこれから起こることが決して自然発火でも、人の小細工によるものではないことを示すためです。そしてこう祈りました。

「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」

結.

 エリヤは、同じ信仰を持った仲間であるオバデヤの前では「私の仕えている万軍の主は生きておられます」とはっきりと語りました。

この祈りの中では「私はあなたのしもべであり、あなたのみことばによって行いました」と神に呼びかけています。

私たちは、主のしもべです。ひとり一人のクリスチャンは、まことの神である主だけに仕えています。

そして私たちの主人が、私たちしもべに恥をかかせることがありません。

エリヤが祈ったとき、天から火が下り、いけにえも祭壇もすべてのものを焼き尽くしました。

これは決しておとぎ話ではありません。ヤコブは手紙の中で、「義人の祈りは働くと大きな力があります」と証言しています。

エリヤは、確かに神の命令にことごとく従った義人でした。

しかし私たちひとり一人も、イエス・キリストを救い主として信じるならば、神はその人を義と認めてくださると約束しています。

私たちは、天から火を降らすような奇跡は必要としていません。しかしそれ以上の奇跡を、神は起こしてくださいました。

それは、石のように頑なだった私たちの心を神が砕いてくださり、イエス・キリストを信じる思いを与えてくださったということです。

私たちの生活には、さまざまな誘惑が満ちています。現代でもバアル礼拝は手を変え、品を変え、神の民を神から引き離そうとしています。

しかし私たちはこう叫びましょう。「私の仕えている万軍の主は生きておられます」と。

ひとり一人が今改めて、主イエス・キリストを救い主として告白し、この方のみこころを行うことを心に決断して歩んでいきましょう。