恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.1.15「罪のかたまりからの解放」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

先週の今頃まで、新潟は雪がほとんど積もらなかったのですが、後半に入ってからまるで今まで天の窓が詰まっていたかのように、

雪、雪、雪・・・・度重なる雪かきで体力を使い果たし、今週はダウンしていました。

今日は珍しく、朝から青空が広がっています。少し元気が出て来ました。

みなさまもくれぐれもご自愛ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』18章9-14節 

序.

 私たち夫婦は、自他共に認めるおしどり夫婦ではないか、と勝手に思っておりますが、車の中だけは別です。

車を走らせて十分くらい経つと、もう妻の機嫌が悪くなっています。

私がハンドルを握ると性格が豹変し、というより素の自分が出てしまい、他のドライバーのマナーの悪さを批判してしまうからです。

「どうしてもうこんなに暗くなっているのに、あの対向車はライトをつけないんだよう」とか、

「どうしてウインカーも出さないで、いきなり隣から割り込んでくるんだよう」とか、

「どうしてBABY IN CARとかいうステッカーを貼っているくせにあんなに急ブレーキばかりかけるんだよう」とか、とにかくうるさいと言われます。

教会員や他の牧師を乗せるときにはそんなことはまったく言いません。しかし妻と乗るときには、なぜかお口に歯止めがきかないのです。

とはいえ、どうしてそんなに他のドライバーの批判をしてしまうのか、ははっきりと原因がわかっています。

自分の運転スキルは他人よりうまい、そして自分のように運転しないドライバーは間違っている、と考えてしまうからです。

まさに今日のみことばのとおりです。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者」とは、私自身のことです。

しかしここで決して見落としてはならない、大切なことばがあります。「者たち」って書いてます。みなさんも同類です

ある人は言うでしょう。いやいや、わたしは車を運転しませんし、そんな、他人の文句を言いながら走ったりしません、と。

しかし車の運転について語ったのは、それこそひとつのたとえ話です。

自分の生活、言葉、心、そういうものを振り返ってみてください。

私たちは例外なく、取税人よりもパリサイ人のほうに属する者ではありませんか。

すでに救われた者たちがこの取税人で、そうでない人たちがパリサイ人、ということではありません。

私たちは100%、このパリサイ人の側にいる者なのだと受け止めるべきなのです。

1.

 パリサイ人と取税人の祈りは、いくつかの違いがありますが、最も大きな違いは何でしょうか。

どちらも神様に向かって呼びかけています。しかし心の目は、パリサイ人は他人を見ており、取税人は自分を見ています。

パリサイ人の祈りは、心からの祈りではなく、頭で考えている祈りです。自分とほかの人を比較して勝ち誇っている言葉ばかりが出て来ます。

「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではない」、そして「ことにこの取税人のようではない」と胸を張っています。

それに対して取税人の祈りには、パリサイ人のパの字も出てきません。「こんな罪人の私をあわれんでください」と、自分自身を見つめています。

そして、もうひとつ、ぜひ注目してほしい違いがあります。

パリサイ人は、「私はあんなこと、こんなことをしております」と、断食や施しを具体的に挙げて自分を誇っていますが、

取税人は「こんな罪人の私を」という言葉だけで、いったいどんな具体的な罪を犯しているのか、ということは出てきません。

「こんな罪人の私をあわれんでください」。「こんな」って、いったいどんななのでしょうか。

断食していないことでしょうか。不正に利をむさぼっていることでしょうか。それともパリサイ人が批判したように、ゆすりや姦淫でしょうか。

おそらく、そのどれでもありません。罪とは、あれをやった、これをやった、という具体的な行いを指すものではないことを彼は知っていました。

自分がやった、あのことは罪だ、このことは罪ではない、とかではなく、私そのものが、神の目から見たら罪のかたまりそのものなのだ、と。

2.

 聖書では、ひとつひとつの具体的な悪い行いを指して、罪とは呼びません。

むしろ私たちの内側にあって、決して切り離すことのできないもの、神様に対して真っ向から逆らう、認めたくない原理、それが罪です。

断食していなくてごめんなさい、とか人を傷つけてごめんなさい、という風には取税人は祈りませんでした。

自分の胸をたたいて、どうかあわれんでください、と叫びました。

胸の中に、何かがあるのです。切り離したくても、決して切り離すことのできない、私たちの力を越えて私たちを苦しめるものがあるのです。

 それが罪の原理です。この罪を取り除くために、どうすればよいでしょうか。

隣のパリサイ人にとって、それは断食や祈りでした。旧約聖書では、断食が命じられているのは年に一回、大贖罪日と呼ばれる日だけです。

しかし彼は、それを週二回行っていますと誇りました。断食や施しや社会貢献が、自分の罪を消せると思っています。

これは多くの日本人が抱いているものと同じです。よい行いをすれば、たくさん賽銭を投げ入れれば、悪いことが消えると思っています。

そして自分はほかの人よりもまともな人間なのだと自分に思いこませることで、神のさばきを免れようとしています。

 しかし取税人は、そのようなもので自分の罪はごまかしようがないことを知っていました。だから、彼はこんな悪いことをしました、とは祈りません。

ただ「主よ、あわれんでください、あわれんでください」。彼はひたすら神のあわれみにすがります。そして義と認められて家に帰りました。

たとえ話はそこで終わりますが、しかし実際にはそこからまだ続いています。

今日、彼は義と認められて家に帰ることができても、明日はどうでしょうか。明後日はどうでしょうか。

取税人は、その日、彼を苦しめていた罪の重荷からは解放されました。しかし罪そのものから完全に解き放たれてはいないのです。

3.

 しかし神は、罪から完全に解き放たれる道を用意してくださいました。

それこそが二千年前にイエス・キリストが完成してくださった、十字架の救いなのです。

神であるお方が、ご自分のいのちを捨てて、私たちの身代わりとなって死んでくださいました。

私たちすべての人間は、神の永遠のさばきを知らずに、汚れの中をうごめくしかない罪人でした。

しかしこのイエス・キリストが、私の身代わりとなってあらゆる罪のさばきを引き受けてくださったことを信じるならば。

神の子どもとされて、さばきを免れるばかりか、永遠のいのちを持つのです。

キリストの救いは完全です。過去に犯した罪は、すべて赦されました。

今犯している罪も、それをすべて神に告白して悔い改めるならば、必ず赦していただけます。

将来犯してしまうかもしれない罪も、私たちが神の子どもとされた特権を取り去ることはありません。

十字架は、完全です。何も付け加える必要がなく、何も欠けておりません。決して消えることのない平安を私たちに与えます。

 私たちは最後に、この聖書箇所のはじめに書かれていることばにもう一度注目しましょう。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された」とあります。

そのような者たちにこそ、いや、そのような者たちだからこそ、イエスのことばを聞いて救われる必要があるのだ、ということなのです。

私は自称義人です。ふだんは謙遜をふるまいながら、じつは他の人々を見下さずにはいられない者です。

しかしそんな者だからこそ、救いを必要とし、そして高ぶることがないように、今もみことばを必要としている者です。

あなたはどうでしょうか。イエス様は、自分の罪を認め、救いを求めている者を決して拒むことはありません。

イエス・キリストを心に迎え入れるお祈りをいたしましょう。