恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.1.1「私だけの『主の祈り』」

あけましておめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。今年もよろしくお願いいたします。

新年早々、録画に失敗してしまい(説教前に自分でリモコンを押して録画しています)、今回はビデオはありません。

ちなみに今回の説教題は、昔『特捜最前線』という刑事ドラマのエンディングで流れていた「私だけの十字架」から思いつきました。

今はYoutubeでそんな昔の曲も自由に聴くことができます。今聞いてもよくわからない歌詞ですが、インパクトはありますね。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』6章5-15節 

1.

 「一年の計は元旦にあり」という言葉がありますが、これからの一年間をどのように用いて、自らを成長させていくか。

確かに元旦はそれを決意するにはふさわしい日であります。

しかし私の場合、元旦に決意したことを正月休みが終わるまでにはいつのまにか忘れてしまいます。

これを三日坊主ならぬ三日牧師というべきでしょうか。

 私が洗礼を受けたのは、高校三年生のクリスマスでした。ちょうどそれから一週間後に翌年の元旦がやってまいりました。

この一年で、せっかく頂いた信仰を成長させたい。そこで私は、一つの目標を立てました。

それまでは、教会の週報の裏表紙をめくりながら唱えていた、「主の祈り」と「使徒信条」を、見ないでも言えるように、ちゃんと覚えよう、と。

元旦の決意にしては低いハードルに思われるかもしれませんが、当時はこれでも大きなことだったのです。

 しかし今になって振り返ってみると、この決意の根元には、ある種の信仰のゆがみというものがあったのだなあと思います。

私は、信仰の成長というものを、神様との関係を強めるというよりは、他の教会員のようになりたいという目で見ておりました。

あの兄弟のように献金の時に流暢に祈りたい、あの姉妹のように聖書の言葉がすらすらと出てくるようになりたい、

そして他の教会員のように、礼拝で主の祈りを唱えるときに、いちいち週報を裏返さなくても口から出て来るようになりたい、と。

 「主の祈り」、おぼえました。「使徒信条」、おぼえました。

大学生になって、教会学校で教師を務めるようになって、子どもたちに「まず主の祈りをおぼえようね」と教えました。

献金の時に自分でお祈りができない子どもには、「じゃあ代わりに主の祈りを先生と一緒に祈ろうね」と言いました。

ところが、一番わかっていなかったのは私自身でした。「主の祈り」は覚えても、「主の祈り」が出てくる前後の聖書箇所を読んでいませんでした。

ちょうど今日の箇所です。読んだとき、愕然としました。

イエス様は主の祈りを覚えなさいと言われたでしょうか。主の祈りのとおりにそのまま祈りなさいと言われたでしょうか。

まったく逆なのです。異邦人は、すでに決められた祈りのことばを朗々と読み上げて、それで聞かれると勘違いしている。

そのような祈りに弟子たちが陥らないために、イエス様は「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と言われたのです。

「こう祈りなさい」とは、私が教える一言一句そのままに祈りなさいではありません。

私が教える祈りを模範として、あなたの言葉で祈りなさいということです。主の祈りは、暗記するものではなく、祈りの模範とするためのものです。自分自身のことばで真剣な思いで祈ることを放棄して、まるでお経やかけ声のように主の祈りを使ってはならないのです。

2.

 私が今日、この元旦にぜひみなさんに求めたいことは、主の祈りを模範として、あなただけの祈りをこの一年で成長させてほしいということです。

祈りに必要なのは、ルーチンワークではなく、祈るたびに、生まれて初めて言葉を紡ぎ出していくような、真剣な思いです。

同輩に聞かせるための祈りではなく、先輩のまねに過ぎない祈りではなく、さりとて言葉数が多いだけで内容の乱雑な祈りでもありません。

「主の祈り」の中に模範として示された祈りの精神を、あなたが通ってきた人生の中からしか出てこない言葉を使って、紡ぎ出していくのです。

 『主の祈り』は、完璧な内容と構成をもった、究極の祈りです。

しかしイエス様が「こう祈りなさい」と言われたのは、その完璧な内容に乗っかって、ただこれを繰り返せばよいということでは決してありません。

自分にはうまく祈れないから、代わりに主の祈りを祈りますというようなことは、まったくイエス様の求めたおこころと反します。

完璧な『主の祈り』を私が紡ぐ祈りの模範として、たとえそれに及ばないとしても、私と父なる神様とのあいだに祈りの会話を積み上げていくこと。

覚えなければならないのは、『主の祈り』の一言一句ではなく、『主の祈り』が全体として教えている大原則です。

先に、神様の御名と御心がなるように祈るのです。自分のことはその後です。この順序は決して変えてはなりません。

御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころがなされますように。

私たちの想像をはるかに超えた、無限なる方を思い巡らし、汚れた唇でも自分自身の言葉で、永遠のご計画をほめたたえてください。

私たちの抱えている生活上の、具体的な求めは、すべてこの方のご計画の中に含まれており、何ももれていないことが心に迫ってきます。

 イエス様は、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」と言われました。

それでも『主の祈り』の後半に、日ごとの糧、人間関係の中での負い目、また試みや悪からの解放を祈れと言っておられるのはなぜでしょうか。

すべては神が備えてくださるとあるにもかかわらず。それは、手に入れるためではなくて、備えるためなのです。

たとえ神様からの答えと助けを受け取ったとしても、何も心に備えがないのであれば、それらは私たちの手から容易にこぼれていきます。

救いは薄れ、恵みはかすれ、感謝も偶然だとか人の計画の中にうずもれていきます。

しかしあらかじめ心の中に備えたなかで受け取るとき、それらは私たちの生活の中で力を発揮します。

必要な衣食住、人間関係の修復、己の情欲への勝利、それを自分の言葉で祈っていくとき、十分に備え、受け止め、生かしていけるのです。

救いも恵みも、決して「棚からぼた餅」ではありません。確かに救いも、恵みも、受ける資格がない者に与えられます。

しかし受け取る資格はなくても受け取る備えをしている者は、救いも恵みも消えない感謝をもって生かしていくことができます。

それが祈りの力です。『主の祈り』を模範にして、人の祈りのコピーではなく、あなただけの祈りを、神様との間に交わしていってください。

どのように祈ればよいかわからないときは、聖霊が私たちを助けてくださいます。

3.

 今日の説教を閉じるにあたり、イエス様の最後の言葉についての誤解を取り除いておきたいと思います。

14・15節、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」。

あなたがあの人を赦さないのであれば、父なる神様もあなたを赦さない。

もしこの言葉がそういう意味だとしたら、私たちの救いは恵みによるのではない、ということになります。

もし赦す赦さないという人間の感情あるいは行動が、罪からの赦しを左右するということであれば、それは福音ではありません。

私たちが赦されたのは、十字架のイエスを信じたからであり、だれかを赦したからではないことは、聖書そのものが明らかに示しています。

 では、一見矛盾するように見えるイエス様のことばは、どういう意味なのでしょうか。

多くのクリスチャンは、救いというのは「私」がイエス・キリストを救い主として信じることだと考えます。しかしそれだけではありません。

私が神を信じただけではなく、神もまた私たちを信じてくださった、それが救いであり神の子どもとされたということです。

赦された者は、赦します。今は赦せなくても、いつかは赦します。

皆さんは、クリスチャンとして「あの人だけは赦せない」という感情に押しつぶされそうになったことはありませんか。

なければそれは幸いですが、もしあれば、その負の感情に押しつぶされそうになること自体が、聖霊なる神が心の中におられる証明です。

聖霊がいなければ、押しつぶされることはなく、何も感じないからです。

今は赦せなくてもよいのです。しかし必ず、いつかは赦せるようになります。それは罪ではありません。

むしろ罪として認めるべきは、あの人を赦せないから自分は赦されていないのだと自分を責めて、恵みによる、罪の赦しを疑うことです。

15節最後の、「父をあなたがたもおゆるしになりません」は、原文のギリシャ語では、はっきりと未来形が使われています。

今、赦されていないということではありません。今は赦せなくても、いつか必ずお互いに赦せるときがやってきます。

私たち、とくにこの豊栄キリスト教会は、それを信じて歩んできたし、これからもそう信じて歩んでいきます。

どうやったら赦せるようになるんだろう、と悩む必要はありません。神は私たちに必要なものを知っているからです。

むしろ赦せるようになったとき、その人と何をしようか。

赦せなかった時間のすべてを取り返すくらいのことを、あの人としよう。一緒にあれをしよう、これをしよう。

そんな青臭く、ばかばかしいと思われるようなことさえも、私たち神の子どもの間ではれっきとした現実となるのです。

祈りは、その恵みの洪水に浸ることのできる、すばらしい特権です。ぜひひとり一人が、この祈りの世界での喜びにおぼれましょう。