恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.12.4「まことの光を求めて」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章6-13節 

序.

 小学生の頃、図書館に入るとまず最初に向かったのが、「まんがひみつシリーズ」という本が並んでいる棚でした。

「宇宙のひみつ」、「人体のひみつ」、「恐竜のひみつ」などが、まんがでわかりやすく説明されていて、

シリーズ物なのですが、競争が激しくて全部を読んだ人はなかなかいない、という、人気のある本だったと記憶しています。

その中で、ひとつだけ、今でもはっきりと覚えている話があります。それは「昆虫のひみつ」という本にあった、蛾の物語でした。

まんがですから蛾のキャラクターも擬人化されていて、ほっぺに傷のあるおっさんの顔です。

で、こんな感じで登場するわけです。「おうおう、おれたち蛾っつうのはな、まっくらな裏通りしか歩けねえんだよ。光になんて近づけますかい」。

そう言いながら、暗やみに向かって飛んでいこうとするのですが、なぜか自分の意思に関わりなく光のほうへ向かってしまう。

すると必死で抵抗する蛾のおっさんに、若い女性に描かれたメスの蛾が二、三匹飛んできて、こう話しかける。

「私たち蛾は、光を感じるとどうしても近づくようにできているの。あら、明るいところでみると意外といい男ね」

すると蛾のおっさんも「いやー、明るい方もまんざら悪くないねえ」と。

さすが昭和、いい時代ですね。こんなまんがが、全国PTA協議会推薦と書かれた本の中に、平気で載っておりました。

こちらは2006年に出た最新版。昭和のバージョンはこんなさわやかな感じではなかったです

1.

 40年近く経った今でも、ここまで話を鮮明に覚えているということは、この話の何かが私に強烈な印象を与えたに違いありません。

それは、蛾のような小さな虫でさえ、光をひとたび感じたら、光へ引き寄せられていくのだ、ということだと思うのです。

最近、この性質を辞書で調べたら、「光へ走る」と書いて走光性と呼ぶのだそうです。

蛾のように光に向かう性質を、正の走光性と呼びます。正は正しいという漢字で、プラスという意味です。

逆にモグラのように暗い所へと向かっていく性質を、負の走光性と言います。負は、負けるという漢字で、マイナスの意味ですね。

では人間はどちらでしょうか。

 辞書には、人間は暗やみを恐れるので、正の走光性だと書かれています。

しかし霊的な意味では、むしろ逆ではないかと思うのです。

私たちの生活にはたくさんの光であふれています。日光、月光、蛍光灯、町のネオン、最近ではLEDの光。

しかしそれだけの光に囲まれながらも、私たちの心は明るくなりません。

心の中をともすためには、コピーの光ではなく、本当の光が必要なのです。

太陽の光は、からだの成長には欠かせないものですが、たましいそのものを育む力はありません。

LEDは、いまや太陽光よりも明るい光を作り出しますが、人の心の闇を照らすことはできません。

 しかし、人のたましいをはぐくみ、心の闇さえも照らし出す本当の光がある、と聖書は言います。

波長の集合体でしかない光ではなく、人の心を奥底から燃やしてくれる、本物の光があると、聖書は語ります。

それは何でしょうか。それが、今日の聖書箇所に書かれている、イエス・キリストです。

まことの光、それは、どんな光を受けても決し奥底まで照らされることのできない私の心をすべて見通しておられるイエス・キリストです。

私の心のおぞましい罪をすべてご存じであるにもかかわらず、あらゆる罪を赦すために身代わりで死なれた、イエス・キリストです。

2.

 イエス・キリストは二千年前、今日のイスラエル、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。

キリストはこの世界を作られた、永遠の神ご自身です。その神自ら、人としてお生まれになってくださったのが、クリスマスです。

イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったのには、わけがあります。ユダヤ人は、神に選ばれた民でした。

彼らがまずイエス・キリストを信じ、ユダヤ人を通して全世界に福音が伝えられることを神は願っておられたということを意味します。

そしてそのために神は、光ではないが、光をあかしする人--すなわち、バプテスマのヨハネという預言者を立てられました。

私たちユダヤ人が待ち望んでいた救い主が来られたのだ、罪を悔い改めてイエスを受け入れる準備をしなさい、と伝えるためにです。

 しかし10節、11節で聖書はこう語ります。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」。

イエス・キリストにとって、ご自分のくにとは、ユダヤ、すなわちイスラエルでした。

しかし当時の宗教指導者たちは、自分たちの特権を奪う者として、イエス・キリストを迫害し、殺そうとしたのです。

一般民衆も、イエス・キリストが与えてくれるパンやいやしを求めはしても、霊的な救いを求める人はほとんどいませんでした。

まさに「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」のです。

彼らの心はかたくなで、イエス・キリストを救い主として受け入れることができませんでした。

しかしそれは、今日みことばを前にしている私たちも同様です。

3.

 先日、近所のお医者さんに行ったとき、待合室に「18歳と81歳」というプリントが貼ってありました。

たとえば、「東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳」。

「恋におぼれるのが18歳、風呂でおぼれるのが81歳」。

まだまだあるのですが、81歳の人が聞いたら怒りだしそうなものもありますので、このくらいでやめますが、

ひとつだけ、「髪型を頻繁に変えるのが18歳、変えようにも変えるものがないのが81歳」というのが心にとまりました。

髪型だとか、生活習慣だとか、考え方だとか、そういうものを変えることに人は一生懸命です。

しかし人生に最低限必要な改革は一つだけです。まことの光であるイエス・キリストを、自分の救い主として信じ、受け入れる、ということ。

それを迂回して、大して重要ではない部分だけを変えて、気分転換は起きても、人生の行き先は変わりません。

どんな人間も、そのままでは、やがて罪のさばきが待っています。

そこから逃れるすべは、ただひとつ、まことの光であるイエス・キリストを受け入れることしかありません。

だから、12節のことばをはっきりと心に刻みつけてください。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

イエス・キリストを心に受け入れるとき、神と私たちとの関係は、罪をさばき、さばかれるものから、罪をゆるし、ゆるされたものへと変わります。

そしてそれだけではなく、神の子どもとして、神のあらゆる祝福を受け取ることのできる人生へと変わります。

結.

 すべての人間は、かたくなな心を持っており、自分の意思の力では神を喜ばせることも、神を受け入れることもできません。

しかし、神はご自分が救いに定めておられる者たちをご存じです。

どんなに聖書を勉強しても、神が引き寄せられるのでなければ救われることはできません。

どんなによい人と言われていたとしても、人のあらゆる善は、神を喜ばせる基準には及びません。

しかし人が、ただイエス・キリストだけが私を救ってくださるのだ、私の努力や熱意ではなく、ただ神が恵みによって私を救ってくださるのだ、

と確信して救いを求めるならば、神への扉はすでに開かれています。

なぜなら、暗やみしか知らず、暗やみに向かってひたすら走っていた者が、光を求めるようになったこと、

そのこと自体が、神がその人を引き寄せようとしている証しであるからです。

光へと向かいましょう。まことの光へと向かいましょう。

そこには、暗やみしか知らなかった私たちが想像もできないような、永遠のいのちの喜びが待ち受けているのです。