恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.11.20「恐れつつイエスに近づけ」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』13章53-58節 

1.

 今日の聖書箇所には、イエス・キリストのふるさと、ナザレの人々が登場します。

彼らは、イエス・キリストが幼い頃からよく知っておりました。イエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちのこともよく知っておりました。

しかしよく知っていたからこそ、彼らはイエスをまっすぐに見ることができず、救われる機会を失ってしまったということができます。

そこまでイエス様と親しく、極めて近いところにまでいながら、人々はどうしてイエス様につまずいたのでしょうか。

それは、自分たちが知っている人間イエスが、イエス・キリストのすべてだと考えたことにありました。

30年間、大工として汗にまみれ、家族と共に暮らしていた、人としてのイエス。それが彼らの知るイエス・キリストでした。

しかしそれがイエス・キリストのすべてではありません。

郷里の人々は、人としてのイエスは知っていても、神としてのイエスについてはまるで知りませんでした。いや、知ろうとしませんでした。

今、目の前の言葉や行動からにじみ出る、キリストの神性を受け入れようとしませんでした。

そこに人々の高ぶりがあり、彼らはイエスを見つけることに失敗したのです。

2.

 イソップ物語に、あるキツネの話が出てきます。あるところに、ライオンを一度も見たことがないキツネがいました。

このキツネが初めてライオンを目にしたとき、恐ろしさに気を失いかけました。

二度目に出会ったとき、こわいが気絶するほどではありませんでした。

三度目は、ライオンに話しかけてみよう、と思うようにさえなりました。

しかしその次はありませんでした。警戒せずに近づいていったキツネを、ライオンが食べてしまったからです。

イエス・キリストは私たちをとって食うような方ではありません。しかしこの童話は、逆の意味で真です。

私たちが人間イエスにだけ目をとめて、神であるイエスを見ようとしないならば、私たちはいのちを失います。

人としてのイエスは、あなたをあわれみ、共に泣いてくださるお方です。

しかし神としてのイエスを見ないならば、それは一時的な慰めで終わってしまい、私たちを救うことはないのです。

 どうか忘れないでください。キリストは、神であるということを。

キリストは神を父なる神と呼び、ご自身を神のひとり子と呼ばれました。

しかし永遠無限の神において、父、子というのは、人間のように単純な血縁関係を指す言葉ではありません。

父なる神も、イエス・キリストも、三位一体の神としておひとりのお方です。

イエス・キリストは、たくさんの宗教の教祖のように、人が神になったのではありません。神が人としてこの地上に来てくださったのです。

イエス・キリストは、神としてこの世界を造られました。今も、神として、この世界を保っておられる方です。

私たちが今こうして生きているのも、イエス・キリストが私たちを保っておられるからに他なりません。

またイエス・キリストは、やがてこの世界をさばくために地上に再臨されます。

そのとき、キリストを受け入れなかった人々は永遠の死に定められ、信じた者たちは永遠のいのちの中に生きると聖書は約束しています。

どんなに人としてのキリストを知っていたとしても、神であり人であるお方としてキリストを信じないかぎり、それは救いをもたらしません。

私たちは、イエス・キリストを信じ、愛します。

その愛は、人間の世界の愛とも違います。イエス・キリストが神であられ、恐るべきお方なのだという緊張も忘れてはならないのです。

3.

 もちろん、キリストは私たちの友となってくださるお方です。

ナザレの村で大工として貧しさをなめ、人としてあらゆる苦しみを受けられたゆえに私たちのどんな苦しみをも受け止めてくださるお方です。

しかしそれがすべてではありません。もしこれがすべてなら、キリストの慰めは、単なる傷の舐め合いのようなものになってしまいます。

決してそうであってはなりません。人として愛してくださった、だけではない。

神として十字架ですべての人の罪を背負い、神としてよみがえられ、罪の代償である死を打ち破りました。

神としてすべての人の心を知り、災いを益と変えてくださる、そういうお方でもあるからこそ、私たちには望みがある。救いがある。

ナザレの人々には、それが理解できなかったのです。人としてのイエスにこだわり、神としてのキリストを受け入れることができませんでした。

彼らは言います。「”この人”は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。・・・”この人”は大工の息子ではありませんか。・・・いったい”この人”は、これらのものをどこから得たのでしょう」。

 人、人、人!彼らは、あくまで人としてのイエスにこだわります。

その知恵や力をどこで手に入れてきたのかという、いかにも人間的なところにしか目をとめません。

これほどイエス様に近いところにいながら、結局はイエスを神と認めなかった彼らは、まさに現代の人々の姿ではないでしょうか。

この日本の中で、クリスチャンの数は人口の1%未満であると言われます。

では、イエス・キリストのことを知っている人も1%かというと、決してそんなに少なくはありません。

イエス・キリストのことば、聖書の教え、キリスト教の歴史、そういうものを自分で学び、知っている人は、この日本にはたくさんいるのです。

しかし彼らは、初めから自分の常識にこだわって、ただ知識としてイエスや信仰について学んでみているだけです。

しかしそのままでは、それはナザレの町の人々と同じようにつまずいてしまいます。

頭ではなくて信仰によって、私たちはイエス・キリストを救い主として信じることができるのです。

神である方が、私たちのために人としてお生まれになりました。神である方が、私たちと同じ肉体を取り、私たちと同じように苦しまれました。

神である方が、私の罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。

聖書に書かれているあらゆる出来事が、私たちの理性では理解できないことです。しかしだからこそ聖書を読むときにはこう祈りましょう。

神さま、どうか私のかたくなな心を砕いてください、イエス・キリストを知識ではなく、信仰をもって示してください、と。

神さまは救いを求める者をないがしろにはいたしません。ひとり一人が、イエス・キリストを信仰の目で見つめ、信じ、救われますように祈ります。