恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.11.13「嵐の中で見失ったもの」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章22-25節 

序.

 免許と名がつくものは、運転免許でも、調理師免許でも、学科と実技の二種類をこなさなければなりません。

どんなに学科試験がよくても、実技が未熟であれば免許はもらえません。信仰も同じです。

私たちは、恵みによって、信仰をいただいて救われます。しかし救いに至る信仰は、実際の試練を通して試されなければなりません。

神は、試練を通して、私たちが頭でっかちの信仰者で終わらないように、訓練されるのです。

誤解してはなりませんが、それは救いの免許を失わせるためではなく、むしろ救いに至る信仰を強めるためのものです。

昨日までは何もなかった、私たちの平和な生活に今日、突然起こった苦しみ。

そして二千年前、岸を離れる時には落ち着いていたガリラヤ湖に突然起こった大嵐。

それは、同じく神さまが愛する者たちに与えたもうた試練でした。その試練の中であなたは何と叫ぶのでしょうか。

「主よ、助けてください」とイエスさまにしがみつくのか、それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨み節を垂れ流すのか。

 それまでの弟子たちは、自分たちは他の人々とは違う、イエス様の直弟子なのだ、という誇りを持っていました。

しかしそんな形だけの信仰は、いわばタンスの中のゴールド免許みたいなものです。実際には運転しないから、事故も起こさない。

試練を経験していないから、いざとなると信仰をいかに働かせたらよいかわからず、パニックに陥る。

彼らが嵐の中で見失ったものが何か、それは三つありました。

ひとつ、彼らはイエス様のみことばの約束を見失いました。

ふたつ、彼らはイエス様がいっしょに舟に乗っているという事実を見失いました。

そしてみっつ、彼らは嵐の中でさえ眠っておられる、主が与えてくださる平安を見失いました。

私たちが彼らの失敗を学び、自分自身への戒めとするために、この三つを順に見ていきましょう。

1.

 まず彼らは、主の約束の言葉を見失いました。イエス様は、彼らを湖に連れ出すときに、何と言われたでしょうか。

「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。

それは、わたしが一緒なら、途中に何が起ころうともあなたがたは必ずたどり着くことができるという確かな約束でした。

私たちが試練の中で主を見失ってしまうとき、まず最初に陥るのはみことばの約束を忘れてしまうということです。

私は何があってもあなたを見捨てない、と、神は聖書を通して約束してくださっています。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。その胎の子をあわれまないだろうか。たとい女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない」とも。

主の約束を見失うことがないように、どんなに短い時間から始めてもよいから、毎日、必ず聖書を読むという習慣をつけることが大切です。

そして聖書を読む、とは、神のことばを心に刻みつける、ということです。

これは、自動車学校で実技に対して学科もなおざりにしないのと同じことです。

神は今日、あなたに何を約束してくださったか。主の約束のことばを忘れない、ということが大切です。

2.

 弟子たちの失敗の第二は、主が共におられるという事実を見失ってしまったことです。

彼らは、嵐を乗り切ることに夢中になってしまい、イエスさまがこの船に乗っていることをすっかり忘れしまっていたのです。

勇気のいることですが、嵐の中だからこそ、波をかくオールや、水を汲み出すバケツから手を離さなければなりません。

それを掴んでいるかぎり、私たちは神さまの奇跡を経験することができないのです。

奇跡って何でしょうか。人間には想像もつかないことを、神さまがしてくださることを奇跡っていうのです。

私たちが容易に結果を予想できるような、自分の努力や行動で何とかなると思っているあいだは、奇跡は起こりません。

お金があれば、時間があれば、とか言っているうちは、私たちの目はお金や時間に向いてしまっています。

そうではなく、神が予想外のことをしてくださる期待を抱かなければなりません。

そうしなければ、私たちも、弟子たちと同じように、舟の中のイエス様を忘れてしまうだけでなく、自分自身をも見失ってしまうのです。

3.

 弟子たちの失敗の第三は、大嵐の中でも眠っておられる主の平安を見失ってしまったことです。

イエス様にとって、嵐に揺れる小舟さえ、神のゆりかごのようなものでした。

イエス様の眠りは、弟子たちなんかどうでもよいというしるしではありません。父なる神にすべてをゆだねることができる、幸いのしるしです。

神さまが答えてくださらないとき、神は自分のようなちっぽけなものを見ておられない、と落ち込んでしまうことがあります。

しかし神さまは、あなたから一瞬たりとも目を離すことのないお方です。

あなたが試練の中でもがいているとき、一緒に脂汗をかき、拳を握りしめて、共に苦しんでくださる方です。

あなたの目にも、神が眠りこけてしまっているように見えるときがあるかもしれません。

しかし私たちと共にいてくださる方は、何があっても私たちの手を離すことのない、そういうお方です。

試練に押しつぶされそうなとき、キリストが私たちを握りしめる手の大きさを思いましょう。

人々の心ないことばに心が凍てついてしまいそうなとき、キリストが私たちを見つめるまなざしの暖かさを感じましょう。

そのとき、私たちのたましいは、主が与えてくださった平安を取り戻すことができるのです。

結.

 弟子たちが、この信仰の試練の中でやったことは何だったでしょうか。キリストをたたき起こすことでした。

ほかの福音書では、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と言い放ったことまでが書かれています。

しかし私たちも試練の中で、彼らと同じ行動をとってしまいます。主にゆだねることができずに、主をたたき起こします。

聖書が教えている人生の勝利への道は、そのような方法ではありません。主をたたき起こすことではなく、主に信頼することです。

私が死にそうでも、何とも思われないのですか。そんなわけがありません。

私たちを救うために、十字架で死んでくださったほどの方が、どうして私たちのいのちに無関心なことがあるでしょうか。

 私たちは今日、次の三つのことを確信したいものです。ひとつ、イエスがこの世界をすべて治めておられるということ。

ふたつ、あなたを決して見捨てないという約束。みっつ、イエス様が最も関心をもっておられるのは、あなたのいのちのことだ、ということ。

だからこそ、私たちの罪のさばきを十字架で代わりに引き受けてくださって、永遠のいのちを与えてくださったのです。

どのような試練の中でも、この方を見失ってはいけません。この一週間も、イエス・キリストから目を離さずに歩んでいきましょう。