恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.11.6「ただ信じ続けなさい」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』5章21-24、35-43節 

1.

 22節、「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。

「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

ヤイロは会堂管理者でした。会堂管理者とは何でしょうか。

読んで字のごとく、ユダヤ教の会堂、通称シナゴーグの管理を任せられていた人です。

会堂の管理を任せられていた、というと、何か寺男のような、戸締まりや掃除をしたりする人を連想するかもしれません。

しかしユダヤ人の社会においては、会堂は単に礼拝をするところではなく、社会生活の中心そのものです。

日本では、檀家という言葉がありますが、あれはもともと江戸時代、人々が村から勝手に出て行かないように、幕府が始めたものだそうです。

同じように、ユダヤ人の会堂もまた、宗教的・政治的・社会的にユダヤ人たちをまとめるためのものでした。

会堂管理者とは、その意味で大きな権威を持っていた人であったと言えます。

 しかしすでにこのとき、エルサレムの宗教指導者たちは、イエス・キリストとその弟子たちを敵とみなしていました。

イエスに協力する者は、だれであっても会堂から追放せよという命令書が、国中の会堂管理者のところにも回っていたことでしょう。

ヤイロは、会堂管理者として、中央の方針に従い、イエス・キリストと距離を置かなければなりませんでした。

しかしヤイロの心は揺れていました。たった今、自分の娘が死にかけている。

そして人々が救い主と噂している、イエス・キリストだけが、娘をこの病からいやすことができるのではないだろうか。

会堂管理者という立場で、イエスに敵対するか、それとも病気の娘の父親という立場で、イエスの前にひれ伏してお願いするか。

彼は悩んだに違いありません。そして悩んだ末、後のほうを選びました。

聖書は、彼の葛藤には一切触れず、彼が決断した行動だけを語っています。それが、この22節です。

「会堂管理者ヤイロは、イエスの足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。

「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」と。

2.

 イエス・キリストは、会堂管理者だからということで、ヤイロの願いを退けるようなことはありませんでした。

ヤイロの娘をいやすために、ヤイロとともに、ヤイロの家に向かってくださいました。

しかしイエスを求めていたのは、ヤイロだけではありません。イエスにいやしを求める群衆たちが、娘の所に急ぐヤイロの道をふさぎました。

ここからもうひとりのいやしの物語も始まるのですが、今日はそれについては省略します。

しかし時間切れは突然やってきました。35節、イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

 ヤイロは膝をつき、涙を流したことでしょう。そしてイエス様の顔を見上げたことでしょう。

しかしイエス様は、こう言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」。そうです、ヤイロは恐れていました。

このままイエス様に来ていただいたところで、さすがのイエス様でも死人をよみがえらせることはできないのではないか。

またこうも恐れていました。会堂管理者である自分が、ここまでイエス様と一緒に行動している姿は、すぐに人々の噂になるだろう。

娘は死に、自分も会堂管理者の立場を失い、結局の所、すべてを自分は失ってしまうのだ、と。

 ヤイロの「恐れ」は、彼の弱さそのものです。しかしその弱さは、神を信じる者たちに共通する弱さとも言えます。

信仰者が人生の試練に会うとき、ふたつのまったく異なった反応が生まれます。

ひとつは、今、これだけの苦しみを経験しているのだから、天で私に用意されている報いは計り知れず大きい、と忍耐を生み出していく信仰。

しかしその一方で、どうしてこんなに苦しい目に会わなければならないのだろう、救われたというのは私の思い込みに過ぎないのではないか。

そんな、次々と恐れと疑いを生み出していく不信仰も、私たちはしばしば抱いてしまうことがある、それが私たちの弱さであり、罪そのものです。

 そんなとき、私たちは、イエス様のおことばをかみしめましょう。「恐れないで、ただ信じ続けなさい」、と。

ヤイロは、娘の亡骸が待つ自分の家に向かうあいだ、「イエス様、もういいです」と、途中で帰っていただく誘惑と戦い続けました。

その勝利の秘訣は、イエス様が我が家に来て頂ければ、死んだ娘もよみがえるかもしれない、という一抹の希望です。

たとえ「これ以上、先生を煩わす必要はありません」と言われても、イエス様に来て頂けたら、もしかしたら。

ある人々にとって、それは中途半端な信仰に見えるかもしれません。

しかし中途半端で大いに結構。どんなに中途半端であろうとも、それとゼロとの違いは、宇宙の大きさ以上にあるのです。

恐れてはいけません。不信仰に陥ってはいけません。ただ信じ続けなさい。そのみことばを、私たちは心に刻みつけていきましょう。

3.

 ヤイロが家に着くと、そこには娘の死を聞いて集まって来た人々であふれていました。

あらゆる現実が、ヤイロの心を打ちのめしていました。しかし40節での、ヤイロの呼び方に注目しましょう。

そこでは、彼はヤイロと呼ばれず、会堂管理者という肩書きでも呼ばれず、ただ「その子どもの父」と呼ばれています。

ヤイロは、わが子が死からよみがえることをひたすら求めました。

そこには、会堂管理者ヤイロという特別な人間ではなく、死の淵をさまよう、ひとりの女の子の、たった一人の父親の姿があります。

そして彼の姿は、私たちがイエス・キリストによって、神の子どもとされた、神の家族の姿そのものです。

たとえあなたが自分はひとりぼっちだと思っていても、信仰によって霊の家族である教会に入れられた家族のひとりなのです。

 子育てに苦労しているお母さんは、この神の家族の中で決して一人ではありません。

この世での親子関係に苦しんでいる方は、この神の家族の中で、互いに愛し合う親子関係を学びます。

それを本来の家庭に持ち帰る中で、必ずいつか、家族との関係が修復されていくことでしょう。

私たちは、神の家族と呼ぶにはあまりにも頼りないように見えるかもしれません。しかし、かけがえのない家族です。

イエス様が私たちの罪の身代わりに死んでくださらなければ決して生まれなかった、かけがえのない家族です。

何があっても、何が待っていても、「恐れないで、ただ信じ続ける」教会の家族であり続けましょう。