恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.10.30「約束の虹」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』9章12-17節 

序.

 個人的な発表で恐縮ですが、先日、私は45歳の誕生日を迎えました。

いや、講壇からプレゼントをおねだりしているわけではありません。

先日、教会の45周年をお祝いしたのを思い出して、ちょうど自分が生まれた頃に、教会はここにできたのだなあと感慨を深めたのです。

教会の45周年記念会では、たくさんの方が来てくださいました。だからもし最初に挨拶をする場があれば、

「今日は私の誕生会にお集まりいただいてありがとうございます」と言って笑わせようと思っていたのですが、

あいにく出番は最後のお祈りだけでした。

 45年前、正確には、46年と7ヶ月前ですが、この教会の献堂式が行われました。

しかしすぐに専任牧師を招いて教会として始めることはかなわず、恵み園という幼稚園として始められたそうです。

当初から、幼稚園ではなく教会としていくべきだ、と豊栄伝道を支援してきた他の教会から大きなプレッシャーを受けていたようです。

恵み園は二年で閉園となり、初代牧師を迎えて教会として歩み始めました。

しかしそれで教会を出て行った方もおられ、産みの苦しみは並大抵のことではありませんでした。

 しかし、私たちの目の前には、いつも虹があります。

たとえ母の胎を傷つけながら生まれてきた子どもであろうとも、わたしは決してあなたを捨てないという神の約束が、私たちには与えられています。

確かに教会は救われた罪人の集まりであるがゆえに、ぶつかることもあります。

事実、45年以上の教会の歴史の中で、教会を去って行かれた方も多くおられます。

祈祷会で、それらの方々の信仰回復のために祈っておりますが、しかし私たちには、永遠の虹の約束が与えられています。

私たちは、ただの罪人の集まりではありません。同時に、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖なる者とされた者たちの集まりです。

だからこそ、決して失望することなく、たがいに赦し合って、天の約束を見上げていきましょう。

1.

 今日の聖書箇所を通して、神は私たちに対する愛を示しておられます。12節で神はノアにこう仰せられました。

わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、

これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

 「契約のしるし」は、担保とか保証ということです。人間の契約においては、契約が破られた場合の保証として、担保を設定します。

しかし考えてみてください。神は真実な方であり、決して契約を破ることのないお方です。

それなのにどうして虹を契約の担保とする、と語られたのでしょうか。

それは、神は、保証がなければ不安になってしまう人間の弱さも知り尽くしておられるからです。

神は、約束を信頼することのできない、私たちの弱さというものもすべてご存じです。

虹は、雨の後でなければ起こりません。洪水を経験したノアたちにとって、大雨は一種のトラウマでした。

天から大雨が降るたびに、この雨はやむのだろうか、まさかまた同じことが起こるのではないかとおびえました。

しかしその雨が必ずやみ、そのやんだ後には美しい虹がかかる。

それは、神は決してあなたがたを見捨てることはない、という確かな約束となったのです。

 どんなにバケツをひっくり返したような大雨であろうとも、必ずそれはやむ。

そしてその後には太陽の光をうけて虹が輝くと、神は約束してくださいました。

大事なことなので繰り返します。どんな大雨であろうと、必ずやむ、と神は約束してくださったのです。

それは、ノアだけではなく、私たちの人生についても約束されたものです。

どのような悲しみの豪雨であろうとも、苦しみの嵐であろうとも、それは必ずやむ。

むしろ、そのような雨、嵐がなければ虹は決して生まれません。

悲しみ、苦しみがあるからこそ、その後に虹という神の恵みのしるしが生まれます。

コリント教会にあてた手紙の中でパウロはこう言っています。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(2コリ1:4)と。

2.

 16節で、神はこう約束してくださいました。

虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう」。

しかしこの言葉は、虹を見るまでは神様は忘れている、虹を見たら思い出す、という意味では断じてありません。

私たちが虹を見るとき、その同じ虹を神も確かに見ておられるのだ、と私たちは確信します。

神がその約束のとおりに、雨をとどめ、この世界で生きよと励ましていてくださることのだ、と確信することができます。

そして、ノア以来、あらゆるクリスチャンたちが、どんな苦しみの中にあっても、虹を通して慰めと励ましを与えられてきました。

たとえば旧約時代の預言者エゼキエル。

イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされたとき、彼もまたバビロンへと連れて行かれ、そこで神から預言者としての召しを受けます。

エゼキエル書にはその時の、神の御姿がこう描かれています。

その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した」(エゼ1:28)と。

新約時代の使徒ヨハネも、パトモスという絶海の孤島に島流しの刑にあい、そこで同じように神に出会い、そのことばを書き記しました。

ヨハネの黙示録には、そのときの神の御姿がこう記されています。

天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった」(黙4:2-3)と。

エゼキエルは、バビロン捕囚という嵐のただ中で虹を見ました。

ヨハネは、やがて来る大いなるさばきという嵐の前に、虹を見ました。

そしてノアたちは全人類を押し流した嵐の後に、虹を見ました。

しかしどのような場合であっても、神は嵐を通してみこころを示され、虹を通して、確かな約束を与えてくださるのです。

どんなに悲しみの雨が途絶える事のない人生のように見えても、どんなに苦しみの嵐が吹きすさぶ生活のように見えても、

必ずそこには虹が現れます。

結.

 そして虹は、キリストを信じて新しく生まれ変わるクリスチャンの生き方を象徴しています。

D.L.ムーディーという、19世紀のアメリカに霊的覚醒をもたらした、大伝道者がいました。

彼は救われたときのことを、次のように語っています。

キリストを受け入れた翌朝、私はまったく新しい世界にいた。日の光は昨日よりも明るく輝き、梢の鳥たちも昨日より甘く歌っていた。

木の枝は喜びで震え、自然のすべてが平和を楽しんでいた。それは私が今まで経験した事も、聞いた事もない、甘美な世界だった。

 私たちも、ムーディーが見たものを今見ています。

イエス・キリストを信じるとき、この世界は私たちにとって初めて意味のある世界になります。

嵐を恐れて生きる世界ではなく、嵐の中でも、襲いかかる水滴一つ一つに虹の約束を見ます。

「わたしはどんなときにも決してあなたを捨てない、あなたが水の中を通るときにも、わたしはあなたと共にいる」という神の約束を確信します。

心の底から、人生を喜び、神に感謝して生きていく、今までとは似ているようで、まったく違っている、新しい世界に生きることができるのです。

暗闇の中を一歩一歩進んでいるようなこの世界であっても、キリストに贖われた者にとっては、いつも虹が差し込んでいます。

この一週間も、ひとり一人がイエス・キリストにある喜びをかみしめながら歩んでいきましょう。