恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.9.18「なりふり構わぬ愛」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』20章17-28節 

序.

 芥川龍之介という作家が、ある小説の中でこう書いています。「子供に対する母親の愛ほど、もっとも利己心のない愛はない」。

芥川自身は、母親のぬくもりを知りません。彼は事情があって、物心ついたときに実の母から引き離され、伯母に育てられました。

しかしこの伯母は、芥川を実母に負けない愛で包み、育て上げたといいます。

芥川が、まだ若くして自分の生涯を自ら閉じてしまったことは、彼にとっても、日本の文学界にとっても、不幸なことでした。

しかし彼の亡骸が発見されたとき、枕元には、赤鉛筆が至る所に引かれていたマタイの福音書が開かれていたと言います。

そして今日私たちが開いているのも、そのマタイの福音書です。

そしてそこに書かれている母の愛は、己の幸せへの執着はなくても、息子たちのためならば弟子たちの友情を破壊することも厭いません。

恐ろしいほどにまっすぐな、母の愛です。

1.

 イエス・キリストが、これから十字架にかけられて殺されてよみがえるということをはっきりと予告されたときのこと。

その言葉の衝撃をかき消してしまうような出来事が起こりました。

何の前触れもなく、ヤコブとヨハネ、そして彼らの母親がイエスさまの前に進み出てきました。

そしてイエスさまにこう願いました。主よ、やがてあなた様が神の国の王座に着かれるとき、この二人をその右と左の座につけてください、と。

ここで、ヤコブとヨハネの兄弟、そしてその母親のサロメについて説明する必要があるでしょう。

ヤコブとヨハネは、ゼベダイの子たちと言われています。彼らは、ガリラヤ湖で漁をしているとき、イエスさまの弟子として招かれ、従いました。

彼らの父ゼベダイは、ガリラヤ地方の漁師の中でも、いわゆる網元と言われるような、富裕層であったと言われています。

聖書の別のところには、ヨハネが大祭司の知り合いであったと書かれているのも、ゼベダイがいかに人脈が広かったかを伺わせます。

そしてヤコブとヨハネの母、つまりゼベダイの妻であるサロメは、ガリラヤからイエスに付き従ってきた女性たちのひとりでもありました。

つまり、彼女もまた、息子たちと同じように、網元の妻という豊かな生活を捨てて、イエスさまに従い通した弟子でした。

それは損得勘定抜きのものだったでしょう。しかしそれでもなお、彼女はイエスさまにこのように願い出ずにはいられませんでした。

それが、母の愛です。子どものためなら、それまで積み上げてきたものを容赦なく振り捨てることもいとわない、母の愛です。

2.

 母親の愛は、子どものためなら、手段を選ばない愛です。私も、母の一生を思うときにそれを感じることがたびたびありました。

およそ母親の愛とは、子どもの幸せのために、恥知らずと言われることでさえ、なりふり構わない、焦がすような愛です。

最近、ある若手俳優が起こした犯罪行為を巡って、彼とその母親のことが連日のようにマスコミに取り上げられました。

様々な中傷や憶測が乱れ飛ぶなか、それでも母の愛は、それが社会や一般の常識から外れてでも、子どもを守ろうとします。

それが愛と呼べるのか、という批判も受けることでしょう。しかし神が十字架の上で示された愛は、その母親の愛そのものなのです。

もし神の愛が、この世の一般常識に即したものであるならば、ひとりとして救われるものはおりません。

罪人のために正しい者が死ぬことなど、この世の常識ではあり得ません。

自分のたった一人の子どもを十字架につけて殺した者を、その子どもへの愛のゆえに許すなど、この世の常識ではあり得ません。

神の愛は、理屈抜きの愛です。いや、むしろ理屈に敵対する愛です。

すべての罪人を救うために、神の姿さえも捨てて人として来られたイエスの愛は、なりふり構わぬ愛です。

あまりにも意味不明、あまりにも愚か。ゆえに、十字架の救いは、この世の価値観では理解できず、むしろ嘲りしか起こりません。

しかし救いとは、まさに嘲りを恐れずに神が犠牲となられ、それによって救われた者たちも嘲りを恐れぬ者となることです。

主イエスは言われました。この世では、偉い者は支配する者、人の上に立つ者は権力を振るう者。しかし神の国では、それが逆転している。

あなたがたのあいだで偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になれ。人の先に立ちたいと思う者は、しもべになれ。

それは、ただボランティア精神で生きていけということではありません。あえて嘲りと屈従を受け入れる者として生きよ、ということです。

ただ己の利益を求めない、ということではありません。人々から侮蔑を受けても、それでも神に仕えるように、人々に仕えよ、ということです。

3.

 だからキリストの弟子になりたいと願う者は、覚悟しなければなりません。

神の国へ入るための門は、ただ小さく、狭く、見つけにくいということだけではないのです。

門の取っ手、扉の全面、ちょうつがいに至るまで、その門は、人々が吐きかけるつばきでまみれています。

その門の先から広がる、やはり狭い道には、ガラスの破片が至る所にちらばり、進む者たちの足の裏に食い込むほどです。

ヤコブも、ヨハネも、彼らの母親サロメも、そしてもしかしたら私たち自身が、それがわかりません。

あなたがたはわたしが飲む杯を飲むことができますか、というイエス様の問いかけに、兄弟は口をそろえて「できます」と言いました。

わからないからこそ、そう言えました。そしてイエスさまは、そこで小さなため息を漏らしたことでしょう。

彼らは十字架が何か、まったくわかっていない。神の国に至る道が、どれほど苦悩と苦痛に満ちたものかがわかっていない。

福音書によれば、サロメはイエスさまが十字架にかかられたとき、ヨハネや、イエスさまの母マリヤといっしょに、十字架の近くに立っていました。

彼女の瞳には、三本の十字架が見えました。イエスさまを真ん中に、その右、左の十字架にも、それぞれ強盗がかけられていました。

彼女は、「あなたの御国で、私の息子のうち、ひとりは右に、ひとりは左に」と願った彼女はそこでようやく気づいたはずです。

その願いが満たされるためには、自分の息子たちがこの右左の十字架にかけられなければならなかったのだ、と。

神の国に入るためには、抜け道はありません。ただ十字架の道だけです。イエスさまに従う者も、己を十字架につけなければならないのです。

たしかに私たちはイエス・キリストを信じることで、あらゆる罪が赦されます。そして永遠の命を与えられて、神の国に入ることができます。

しかしそれは、キリストがたどっていかれた十字架の苦しみを、私たちも同じように十字架を背負って、担っていくことに他なりません。

十字架を背負う者たちは、この地上の人生では、家族や友人からさえもつばきを吐きかけられるのです。

それでも神の国への扉に手をかけて、その先に進むと、それを決心できる人だけが、イエスさまの右の座、左の座に座ることができます。

結.

 ヤコブは、この数年後に、ヘロデ王が民を喜ばせるための出し物として剣で殺されました。彼は使徒のうち、最初の殉教者となりました。

ヨハネは、使徒のうち、もっとも長く生きたと思われますが、その人生は苦難に満ち、晩年はパトモス島に島流しにされました。

「飲めます」と言ったとき、彼ら兄弟にはまったく予想もしていなかった生涯が、彼らに待ち受けていたのです。

しかし確かにその言葉のとおりに、彼らは苦しみの杯を飲み干して、神のしもべである確信にほほえみながら死んでいったのです。

私たちが神の国へ入るためには、人々のつばがこびりついた門をくぐり、茨が素足を刺し通すような小道を歩んでいかなければなりません。

それでも、私のためにいのちを捨ててくださった主に従います、と告白する者こそ、イエスの弟子です。

そういうクリスチャンが職場に一人でもいればそこは神の国への入口になります。

そのような信徒が十人いる教会ならば、どんなに小さな教会でもその地域を変えることができます。

あなたがそのような人になることを私は願います。私もそのような人になれるように、あなたが祈ってくれるように願います。

どうか、キリストのために立ち上がってください。