恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.9.11「神の召しは消えず」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』21章1-19節 

序.

 イエスさまはすべてを知っておられます。「食べるものがありませんね」「はい、ありません」。なんとすがすがしい会話でしょうか。

「何か食べるものがありますか」と、イエスさまは聞きません。「食べるものがありませんよね」。

弟子たちが、夜通し働いても何もとれずに意気消沈していることを、初めからご存じでした。

しかしイエスさまがすべてを知っておられるというのは、私たちの苦しい状況を知っているということだけではありません。

そこからどうすればよいのかを、確かに知っておられるということです。

そしてさっそくこう仰ってくださいました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」。

その言葉に弟子たちが従って網をおろすと、今までの苦労がうそのように、おびただしい魚が網にかかりました。

このとき、弟子たちのある者たちは思い出したのです。

かつてイエスさまが漁をしていた自分たちに、同じように声をかけて、そのときも大漁の奇跡が起きたことを。

それを最も早く思い出したのが、ヨハネでした。そして彼はおそらくすぐ隣にいたのであろうペテロに、「主です」と呼びかけます。

するとペテロは、上着をまとって湖に飛び込みました。

1.

 多くの人は、ペテロが舟を岸につけるのはまだるっこしく、泳いで一目散にイエスのもとへと近づいたのだろう、と考えているようです。

確かにペテロの性格からすると、それが自然なように思われます。

しかし聖書は、ペテロが泳いでイエスさまのところに近づいていったとは書いていません。

書いてあるのは、ペテロが主と聞いて裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ、ということだけです。

私は、ペテロは主に向かって一目散に泳いでいけるような、わだかまりのない心ではなかったのではないかと思います。

彼は、イエスを三度も知らないと言ってしまった、自分自身を責める心からいまだ解放されていません。

だからこそ、彼は漁に出た、いや、出ざるを得なかった。

もはやキリストの弟子を名乗ることができないほど、彼の心は傷ついているにもかかわらず、弟子たちは彼をリーダーとして見続けています。

その重荷と葛藤から逃れるため、彼は漁に出ました。

一度捨てたはずの網を再び棚の奥から引っ張り出して、何度も何度も湖へと投げ入れました。

しかし、網には一匹もかかりません。なぜなら、神はすでに彼を魚をとる漁師ではなく、人をとる漁師として召していたからです。

 たとえペテロが自分はもうキリストの弟子と呼ばれる資格はないと思っていても、彼は確かに弟子でした。

一度主によって召された者は、たとえ何があったとしても、その弟子としての特権を取り上げられることはありません。

救われた後でも犯してしまう、罪や失敗が、神の召しをだいなしにしてしまうと考えている人はいませんか。

その人は、そのような思い込みは、イエス・キリストの十字架にけちをつけることなのだということを知らなければなりません。

神がご自分のいのちを犠牲にしてまで私たちに得させてくださった救いは、人の失敗でおじゃんになってしまうほど脆くはありません。

私たちはどうしても罪を犯したり、失敗を重ねてしまうものです。

しかしそれを悔い改めるときに、十字架の救いだけが私に必要なのだということがわかってきます。

2.

 ペテロの心には、いまだにイエス・キリストの前にわだかまりを捨てきれません。

そしてイエスもまた、腫れ物を触るように彼を取り扱うことはせず、彼の心の傷をまるで逆撫でするかのような質問を次々になさります。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」。

「この人たち以上に」とは、「他の弟子たちがわたしを愛する以上に、あなたはわたしを愛するか」ということです。

かつてペテロは、「他の弟子たちがあなたを見捨てても、決して私だけはあなたを見捨てません」と言いました。

彼はあのときの独りよがりの自分を思い出したことでしょう。

でも彼はこう答えました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」。

三度イエスを知らないと言ったペテロの行動を繰り返すかのように、イエスさまも三度わたしを愛するかと聞かれました。

ペテロがその三度という数字に心を痛めた、ということをはっきりとヨハネは記録しています。

しかし今度は、ペテロは外に出て泣き出すことはしません。

おそらくイエスさまの目を見つめ、「私があなたを愛することはあなたがご存じです」と、ただ主のみこころだけにしがみつく信仰を告白しました。

 元柔道選手の谷亮子さんは、金メダル確実と言われていた、1992年のバルセロナオリンピックで銀メダルに終わりました。

それは自分のメンタルの弱さだと反省した谷さんは次の4年後、アトランタオリンピックでは雪辱を果たすため、ひたすら試合を重ねていきました。

4年間のあいだの連勝記録はなんと84回。しかし今度こそ確実と言われて臨んだアトランタで、なんとまた決勝戦で敗れてしまったのです。

このとき、彼女はもう何も考えられなくなり、柔道の道を自ら閉ざすことも頭に浮かんだそうです。

しかしそのとき、女子柔道の尊敬する先輩が、彼女に手紙を渡してきた。

そしてその中に、「神さまは乗り越えられない人には試練を与えない」ということばがあり、そこで立ち直るきっかけをつかんだということです。

3.

 ペテロの上に起こったすべては、情熱的ではあるが感情に流されやすいペテロが、謙遜な羊飼いとなるための試練でした。

彼がその試練を乗り越えたと認めてくださったイエス様だからこそ、ペテロがどんな死に様を迎えるかということも躊躇なく予告されたのです。

かつてペテロはこう言いました。「あなたのためならば、牢であろうが、死であろうが、どこでもご一緒する覚悟はできております」。

しかしそのときの彼は、その言葉の舌の根も乾かぬうちに、イエスなど知らないと三度言ってしまいました。

でも、その大失敗をイエスさまは、この死の予告を通して、確かな約束へと塗り替えてくださったのです。

ペテロは、当時キリスト教の布教を禁じていたローマ帝国に捕らえられて殺されたと言います。

しかしそのとき彼は、イエスさまと同じ刑罰を受けるのは恐れ多いと語り、逆さ十字架の刑を希望して、そのとおりに死んでいったそうです。

たとえ地上の人生では栄光に満ちた終わりではなかったとしても、彼は確かに永遠のいのちを手に入れ、その喜びに満たされた人生でした。

 ペテロの物語を終えるにあたり、私たちは三週にわたって追いかけてきたペテロの歩みを思い起こしましょう。

第一週は、水の上を歩くイエス様のところへ近づいていったが、つい風と波を見てこわくなってしまい、イエスから目を離して沈んでしまったペテロ。

第二週は、イエスなど知らないと三度も言ってしまった後で、振り向いたイエスさまの目から逃れるように外へ飛び出して、号泣したペテロ。

しかしそんな失敗を繰り返してきた彼は、いまイエスさまの目を見つめ、「主よ、私があなたを愛することはあなたがご存じです」と告白しました。

そしてイエスさまもまた、彼の目を見つめながら「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。

私たちも、罪を犯すけれども悔い改めへと導かれ、しょっちゅう失敗するけれどもそれを通して神さまだけにしがみつくことを学ばされています。

信仰生活は、罪や失敗に出会わないように危険を避けていく無難な日々ではありません。今日も、これからも、私たちはそこから学び続けます。

主は、ペテロ以上に未完成な、私たちに、今日呼びかけておられます。「わたしに従いなさい」と。

ただ主の瞳をしっかりと見つめ、そのことばに従い続けるものでありましょう。