恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.9.4「夜明け前が一番暗い」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』22章31-34、54-62節 

序.

 私は19歳のときに洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、そのときの感動は今も忘れることができません。

とはいえ洗礼を受けてからの26年間のあいだで、信仰につまずいて教会から離れてしまった時期がありました。

しかしそのときも、教会のみなさんが私のために祈り続けてくださっていたことを、後になって知りました。

そして何よりも、イエスさまは今日のペテロへのことばと同じように、私の信仰がなくならないように、私のために祈ってくださっていたのです。

だから私は、教会形成の中で、とくに信仰につまずいた兄弟姉妹のために祈るということを、大切にしてきました。

私たちは自分が強いと思っていても、実際には弱いものです。

ちょうどこのペテロのように、自分はそのときになれば、イエスさまのために命を捨てることができる、と心の中で豪語してしまいます。

「あなたのために祈りました」というイエスさまのことばを、ペテロはもっと真剣な思いをもって顧みるべきでした。

しかし彼はそのようなものは必要ないとばかりに、鼻息を荒げて「どんなところにでも覚悟はできています」と言い放ちます。

それは、私たち自身の姿です。聖書という鏡を見つめながら、心砕かれていきたいと願います。

1.

 さて、今日のメッセージは、後半の54節以降を中心として語っています。

捕らえられたイエス・キリストは大祭司の家へと引き回されていきました。捕らえられたイエスを見捨て、弟子たちはみな逃げてしまいました。

しかしその中でただひとり、ペテロだけは遠く離れて、連行されるイエスを追いかけていきました。

おそらくペテロは、隙を見てイエスを取り返すか、それが叶わぬようであればせめて彼が言ったとおりに、いっしょに死のうと思っていたのでしょう。

しかし彼は遠く大祭司の庭に消えていくイエスさまは見えていても、自分自身が見えていないのです。

自分が見えていないからこそ、状況も見えていません。イエスを連行していった者たちが、暖まるために火をたいて座り込みました。

なんとそこにペテロは自分から近づいていって、一緒に腰を下ろした、というのです。

あまりにも大胆、しかしその大胆さは、自分自身が見えておらず、まわりが見えていない証しでした。

そこからの出来事は、イエスさまが警告していたとおりでした。

三度、あなたはイエスの仲間だと指摘されて、そのたびにペテロは知らない、と答え続けます。

そして最後に鶏が鳴いたとき、イエスさまが振り向いてペテロを見つめられました。

彼はそこでようやく、主のことばを思い出したのです。

逆から言えば、今まで何度も何度も人々からイエスと一緒にいたと言われても、彼は主のことばをまったく思わなかったということです。

ペテロの失敗は、神のことばをあまりにも軽々しく聞き逃していたということでした。

誰よりもイエスを愛しているというプライドが、そのイエスのことばが心に入るのを妨げていたのです。

2.

 ペテロは外に出て、激しく泣きました。このとき、彼はその人生でいまだかつて経験したことがなかったような、どん底に落ちました。

自分自身がいかにみじめな存在なのかをただ痛感するしかありませんでした。しかし鶏が鳴くのは、朝が近づいている証しです。

彼がこのとき、自分に絶望したからこそ、彼はその後の人生の中で、ただ神だけに頼る者となったのです。

 このとき外に出て泣いたペテロと、イエスを売った罪を恥じて自殺したユダが比べられることがあります。

イエスを裏切ったという点では、ペテロもユダも、違いはありません。

しかしペテロが自分に絶望して、この失敗を神にお任せするしかないと考えたのに対し、

ユダは自分に絶望して、この失敗のけりを自分でつけなければならないと考えました。

そのわずかな違いが、永遠のいのちと、永遠の滅びという二つの道へ分かれていったのです。

私たちがどんなに大きな失敗をしたとしても、決して救われるのに手遅れということはありません。

むしろ失敗と見えるものが、そこで目線を変えるときに、私たちを信仰の決断へと踏み出せるための、神からの特別な機会になるのです。

だからパウロはこう言いました。私は、自分の弱さを大いに誇りましょう、と。

私も自分の人生を振り返るとき、心からそう思います。

3.

 私は、26年前に洗礼を受けたとき、本当の意味で自分に絶望するという経験をしていませんでした。

だから、神さまにすべてをお任せすることができませんでした。

教会の奉仕を一生懸命にすることだけが、私と神を結ぶ、一本のか細い糸でした。

しかし学生時代は、教会奉仕に時間をかけることができても、社会人になるとそういうわけにはいきません。

何のために自分は教会に通っているのだろうか。何もできなくなってしまった私を、神はどう見ておられるのだろうか。

私の生活は、平日には体面を保っていても、土日はとても目を当てられない、荒れ果てたものになり、心は疲れ果てていました。

 転機は洗礼を受けて七年目、教会生活から離れがちになってから1年あまりがすぎたときのことでした。

自分の心がめちゃくちゃになるような出来事の中で、クリスチャンにならなければよかった、とトイレの中で壁を叩きながら叫びました。

それは、たとえ教会から離れていても、決して口にしてはならない、と自分に禁じていた言葉でした。

なぜなら、それは今までの数年間の人生が無駄な寄り道だったと認めてしまうことだからです。

しかしじつはそれが、自分に絶望していないことの証明だったのです。

私は自分の人生が、神さまのものであって、私たちが主導権を握るものではないことがわかっていませんでした。

ところが、とても不思議なことですが、クリスチャンになんかならなきゃよかった、と言ってしまった次の瞬間に、みことばが聞こえてきたのです。

それはまさに、このときのペテロのように、それまで忘れていた神さまの言葉が思い起こされるような経験でした。

私の心に、いつ聞いたかもわからない、しかし一言一句はっきりと、ガラテヤ書2章20節のみことばが聞こえてきました。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」。

それは、クリスチャンはこうあるべき、という自分で作り上げた姿から解放された瞬間でした。

そして、あっさりと、心が軽くなりました。信仰生活は、自分の人生を舞台として、キリストご自身が歩んでくださるものなのだとわかったからです。

本当のクリスチャンライフは、私が思いこんでいたものよりもはるかに自由なものなのだということを教えられたのです。

その延長線に、今の私がいます。そしてこれからの私も、そこにとどまり続けます。

結.

 鶏が鳴くときは、夜が明けて朝がやってくるときです。

ペテロは、外で涙を流しながらも、少しずつあたりが明るくなってくるのを見たことでしょう。

誰の言葉かわかりませんが、「夜明け前が一番暗い」という、よく知られている言葉を、今日の説教題に選びました。

人生の最も過酷なときこそが、永遠のいのちを選び取る瞬間の直前なのです。

ペテロが経験したことが、私たちの人生にも起こります。

ひとり一人が今日の聖書の物語を心に刻みつけましょう。本当に喜びに満ちた人生が、そこから始まります。