恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.6.26「困難を分け合う人生」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

今週から、USTREAMを使ってリアルタイムに礼拝を中継する試みを始めたのですが、途中で映像が止まったり、あまりうまくいきません。

何よりストレスがたまるのは、見ようとするたびに長めの広告が流れること。

かといって広告を外すために有料にすると月何千円もかかるようで、なかなか頭の痛いところです。

週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』27章1-44節 

序.

 二年前に起きた、韓国の旅客船セウォル号沈没事故は、まだ私たちの記憶にも残っていることでしょう。

乗員乗客のうち、約300名が亡くなり、そのうちの250人が修学旅行で乗っていた高校生でした。

そして遺族の怒りを最も駆り立てたのが、船長はじめ乗員のほとんどが、事故発生後に船から真っ先に逃げ出していたということでした。

しかし韓国の社会だけが特別ということではないでしょう。

今日の聖書箇所に出てくる船員たちも、やはり乗客を見捨てて逃げ出そうとしました。

ある評論家が、こんなことばを残しています。「苦しみが人を作るのではない。だが苦しみはその人の本当の姿をあぶり出す」。

ベストセラーになった自己啓発本のタイトルに、「ピンチはチャンス」というのがありました。危機のときこそ、その人が成長する機会である、と。

しかし危機を通して人は成長するのではありません。危機のときに、その人が平時の時に粛々と培ってきた成長が試されるのです。

1.

私たちが、事故でも、事件でも、災害でも、あるいはもっと小さな、好ましくない出来事でも、そのときに、普段と同じようにどう対応できるか。

普段は冷静に見えるし、ことばも重みのある人が、危機の時にはどのような姿を表すか。

セウォル号事件も、それがさらけ出されたひとつです。

パウロが乗った船が難破したときには、船長や航海士たちの真の姿がさらけ出されました。

百人隊長も、兵士たちも、普段のようなリーダーシップを発揮することができず、ただ運を天に任せることしかできませんでした。

しかしパウロは違います。彼は運を天に任せるのではなく、天の意志を人々に伝えたのです。

それは、彼がピンチの時も、そうでないときも、いつも神との確かな関係を築いていたからでした。

平常の時に、いつも祈りの中で彼はみこころを示されていました。

危機のときにも、神はいつものように祈りの中で、天ですでに決められているご計画を示してくださったのです。

この船は失われるが、あなたがた全員のいのちは、決して一人として失われることはない、と。

クリスチャンは、このパウロの姿から、私たちが人々のあいだでどう生きるべきかを学ばなければなりません。

天候は嵐でなくても、人々の人生には嵐が吹き荒れています。

舵を失った船で漂うことはなくても、人々は人生の舵を見失っています。

そのような、世の人々に、クリスチャンは神のご計画を伝えることができます。

御使いに夢枕に立ってもらう必要はありません。

私たちには、決して変わることのない、この聖書66巻が与えられているのです。

人々は聖書を聞きたがっています。しかし手に取りたくはありません。クリスチャンであるあなたから聞きたがっているのです。

あなたの信じている聖書とイエス・キリストが、信じるにふさわしいものであるかどうか。

あなたがピンチの時にも、平常の時にも、同じように変わることなく生きているかを知りたがっているのです。

2.

 日本には、伝統的宗教の他に、いわゆる新宗教、新々宗教が、信者が一千人以上のものだけでも300はあると言われています。

これらの新宗教に属している信者の数は約一千万人、伝統的宗教を含めると、宗教全体で約二億人。

日本の総人口よりも多いのは、いくつかの宗教を掛け持ちしている人もたくさんいるからです。

これらの宗教のほとんどが、信仰を持つことによって苦しみや問題から解放されると教えます。

しかし誤解を恐れずに申します。クリスチャンは信仰を持っても、苦しみや問題と縁のない生活を送ることはできません。

なぜなら、クリスチャンは、他の人の困難を背負って生きていく道を選んだからです。

もし私たちが自分の人生だけを背負えばよいのならば、信じたらどんな苦しみとも縁を切れますよ、と言えるでしょう。

しかしイエス・キリストを信じるというのは、自分の人生だけでなく、他の人の人生も背負うことです。

イエス・キリストが十字架の上で、人々の罪のために死なれたのなら、その弟子であるクリスチャンは言うまでもありません。

私たちは、他の人々の苦しみをも、時には自分の命を投げ出して背負っていくのです。

 旧約聖書に、ヨナという預言者が登場します。彼が神の命令に従わなかったとき、彼が逃げ込んだ船も、ひどい嵐に出会いました。

私たちが神のみこころに従わないとき、神は雨雲と波風に命じて、私たちの人生に嵐を呼び起こします。

しかしパウロは神のみこころに従っていたのに、なぜヨナのように嵐に見舞われたのでしょうか。

パウロは従っていても、他の人々が従っていなかったのです。百人隊長は、パウロのことばよりも船長や航海士のことばを信じました。

それは、神の権威を帯びて、神のみこころを伝えたパウロよりも、人間の経験や、希望的観測を信じたということに他なりません。

パウロは、神のみこころに従い通しました。しかしそうであっても、神を信じていない人々が受けるべき困難を、共に味わったのです。

そしてこれが、今もすべてのクリスチャンが経験していることです。私たちクリスチャンは、人々の受けるべき苦しみを共有して生きていきます。

それが寄り添うということであり、そのために命を捨てた、数え切れないクリスチャンがいます。

その中の一人は、私たちの財布の中に今も生きておられます。福沢諭吉もそうですが、だいたいの人は、野口英世でしょう。

彼は留学費用のために、好きでもない資産家の女性と結婚したような人でした。

しかし留学先のアメリカで、誠実なクリスチャンたちに出会ったことで、彼の人生は変わりました。

彼が自分の命を犠牲にして扉を開いた、黄熱病の治療法は、別の医師に引き継がれて、数え切れない人々の命を救いました。

これが他の人々の苦しみを背負って生き抜いたクリスチャンの姿です。そしてパウロもまた人々の苦しみを嵐の中で背負い通したのです。

結.

 人生の嵐を経験しないで歩むことができたら、確かに平和かもしれません。しかし平和であっても、平安ではありません。

分厚い雨雲に取り囲まれていても、神の目はそれを突き抜けて私を見つめ、守り、港まで導いてくださるという確信、それが本当の平安です。

それはあなたの人生に何が起ころうとも、決して奪い去られることはありません。

ピリピの牢獄で起きたのと同じように、パウロと一緒に乗っていた囚人たちはひとりも逃げ出そうとしませんでした。

そして神の約束されたとおり、髪の毛一本失われることなく、彼らは無事に陸に上がりました。

それは、どんな状況でも決して変わることのないパウロの信仰が、この百人隊長を変えていったことも関係しています。

私たちが神さまの前に真実に歩むとき、そして他の人のために十字架を背負って歩むとき、必ず神は、人を変えてくださるのです。

そんな人生を歩みたいと思いませんか。

どうかひとり一人がいま自分の心を静かに見つめることができますように。

幸いな人生の始まりであり源である、イエス・キリストを救い主としてお迎えしましょう。

※説教の中での、新宗教のデータはこの本を参考にしました。