恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.6.19「信じたとき、聖霊を受けましたか」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』19章1-20節 

序.

 今、アメリカでは第45代大統領を選ぶための激しい戦いが続いております。

共和党はすでにトランプ氏に一本化、対する民主党も、ヒラリー氏でいよいよ決まりかという状況ですが、そこからがようやく本番です。

新しく選ばれた大統領が、聖書の前で宣誓を行うのは来年の1月20日、まだ半年以上、アメリカではお祭りが続きそうです。

さて、アメリカの歴代大統領の中で、あなたの最も尊敬する人物は誰ですかと聞くと、多くの人がリンカーン大統領と答えます。

彼の偉業のなかで最も有名なのは、なんといっても奴隷解放宣言でしょう。

しかしある本で読みましたが、奴隷解放宣言が出されても、黒人奴隷の中には自分たちが自由にされたことを信じない者もいたそうです。

彼らはあまりにも長いあいだ奴隷として苦しんできたがゆえに、こんな自分たちが自由になれるはずがない、と決めつけてしまっていたのです。

 今日の多くのクリスチャンも、「信じたときに聖霊を受ける」ということについて、彼らと同じようにはじめから決めつけてしまっています。

もちろん自分が初めてイエスを救い主として信じたときのことは覚えています。そのときの感動は、決して忘れはしないでしょう。

しかし「信じたときに聖霊を受けましたか」と聞かれたら、「はい、確かに受けました!」と答えることができるでしょうか。

むしろ、聖書は信じたときに聖霊を受けると約束しているのに、自分は例外のように受け止めてしまっています。

1.

インターネットでは、様々なキリスト教のメッセージを聞くことができますが、気をつけないととんでもない主張を丸呑みしてしまうこともあります。

ある牧師のネット説教で、水で洗礼を受けても不十分で、聖霊のバプテスマを受けなければ救われていないと聞き、驚いたことがあります。

そもそもバプテスマそのものは、救われる条件ではありません。バプテスマは救いの表明であって、救いの条件ではありません。

パウロは「信じたときに聖霊を受けましたか」と聞いているのであって、「バプテスマを受けたときに聖霊を受けましたか」とは聞いていないのです。

同じパウロが、別の聖書の手紙の中でこう言っています。「聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主ですと言うことはできません」と。

私たちは、自分で決断して、信じると考えがちです。しかしその決断ということそのものの背後に、聖霊を受けるという事実が働いているのです。

そしてひとたびイエスは主ですと告白したそのときから、聖霊は私たちの心に永遠にとどまり、いつも人生を導いてくださるのです。

2.

 聖霊を連想して、真っ先に伝道する力とか証する力と考えがちな人は、自分の信仰を点検しなければなりません。

聖霊を力として受け止め、求める前に、まず聖霊は慰め主として今この心に住んでいるお方なのだということを忘れてはならないのです。

確かにイエス様は弟子たちに対して、「聖霊があなたがたに臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われました。

しかしそれよりも前に言われたのは、「この聖霊は、父なる神があなたがたに与えてくださるもうひとりの助け主なのだ、と言われたのです」。

聖霊は、力である前に、人格をもったお方です。私たちと共に喜び、悲しみ、痛みをおぼえ、共にうめいてくださるお方です。

私たちが元気なときは聖霊の臨在を感じ、失望しているときにはどこかへ行ってしまっている、ということではありません。

クリスチャンが自分のことをどう見ていようが関わりなく、イエス・キリストを救い主と信じ告白したことそのものが、聖霊を受けたという証しです。

そして聖霊はそれ以来、何があろうとも決して私たちの心から離れることはないお方です。

私たちが自分の中に聖霊が生きておられることを忘れても、聖霊は私たちを忘れないし、見捨てません。

 パウロがエペソで出会った12人の弟子たちは、確かに熱心な人たちでしたが、彼らはヨハネのバプテスマしか知りませんでした。

ヨハネのバプテスマは、救い主にお会いするために、罪の悔い改めを勧めるバプテスマです。

彼らは、救い主を求めて、罪を悔い改めて、ヨハネのバプテスマを受けました。

しかしその救い主が誰なのか、もう来ておられるのか、やがて来るのか、わからないままで歩んでいたのです。

3.

この病気をいやしてくれたら信じる。この困難から解放してくれたら信じる。

それは、信仰の入口としてはよくても、信仰の成熟のためにはむしろ足かせとなります。

今がどうであろうと、状況が何も変わっていなくても、イエスを救い主として信じ、慰め主である聖霊が共におられることを信じるのです。

しかし信じるならば、そこに私たちの人生を管として、神のみこころがこの世界へと広がっていくのです。

魔除け祈祷師であった七人の息子たちが、イエスの御名を使って悪霊を追い出そうとし、逆に襲われたという笑い話は何でしょうか。

悪霊の追い出しという目に見えるものだけに注目し、そこにまったく信仰のなかった者たちがどういう結果をたどるのか、という教訓です。

それがエペソに住むすべての者に知れ渡ったとき、何が起こったでしょうか。18節にはこうあります。

「信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した」と。

信仰に入った人、つまりパウロの奇跡を見て信じて信仰をもったが、その後も隠れて罪を行っていた者たちに、真の悔い改めが起こったのです。

人が信仰に入るきっかけは奇跡を見てに限りません。

ある人は人間関係に疲れて教会に来られます。経済的困窮の中で教会に導かれた人もいます。どんな理由であってよいのです。

しかし信仰への入口は広くても、そのままではだんだんときつくなります。どこかで神の取り扱いを受けて、信仰が練り直される時が来ます。

ある人はそれが聖霊のバプテスマだと言います。しかしそうではありません。バプテスマはひとつです。

むしろ成熟へと向かって歩むために、信仰の補助輪を外されると言ったほうがよいでしょう。

何度も転んで、傷だらけになり、ある人はそこで神を捨てたい、教会から離れたいと思う人もいます。私自身もそんな経験をしました。

しかし私たちが神を捨てたいと思っても、聖霊は決して私たちを離さず、捨てません。そして私たちを信仰の大人へと導いてくださるのです。