恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.3.20「絶望はすでに叫ばれた」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』27章27-56節 

序.

 「保育園落ちた日本死ね」という言葉が日本中を駆け巡っています。

「死ね」という言葉にはどうしても抵抗を感じますが、それだけ発言者の必死な思いが現れているとも言えましょう。

この言葉を受けて、「安心して子どもを産める社会をつくろう」という政府のスローガンも改めて繰り返されています。

しかし私はここで、あるクリスチャン作家の残した、「信仰は安心して絶望できる世界」という言葉を思い出しました。

その作家とは、今はなき三浦綾子氏です。

彼女の生涯は、病気で何度も寝たきりになり、良くなったかと思えばまた悪化するという繰り返しでした。

しかし彼女が以前にこう言ったことがあるそうです。

「私が絶望して、もうここまで落ちたと思ったときに、その下にはすでにキリストの絶望が見える。

どこまで落ちても、すでにキリストの絶望が先回りしている」。

それが「信仰は安心して絶望できる世界」ということなのです。私たちのすべてがその言葉に納得できるというわけではないでしょう。

しかし私たちが絶望を感じるとき、神にのろわれた者となったイエスがすでにもっと深みで絶望している、それが十字架であります。

だからこそ私たちにとって、絶望は希望です。

そしてキリストが十字架の上で絶望の叫びを挙げられたからこそ、私たちは希望をもって「落ちていく」ことができるとさえ言えるのです。

1.

 イエスは、その気になれば、天の御使いたちを呼び寄せて十字架から逃れることもできました。

いや、もしその気になれば、手足を貫いていた五寸釘が不思議な力で引き抜かれ、十字架から降りることもイエスはできました。

そうすれば、十字架から降りたら信じてやろうと嘲る人々は泡を食ってひれ伏したでしょう。

しかしもしそれをイエスが選んだならば、神の救いの計画は頓挫し、サタンは高笑いを挙げていたでしょう。

 人間の罪を永遠に葬り去る方法は一つしかありません。

神のひとり子が人の身代わりとして十字架でのろわれた者となる以外、罪に対する神の怒りを満足させる方法はない。これが福音です。

サタンはそれを知っているからこそ、荒野の誘惑から始まり、この時に至るまで、何とかしてイエスを十字架へと近づけまいとしてきたのです。

イエスの十字架は、神の勝利でありサタンの敗北です。だから何とかして十字架への道をあきらめさせなければなりませんでした。

多くの人が誤解しておりますが、ユダの裏切りは、イエスを十字架にかけさせるためではありません。

むしろ弟子にさえ裏切られる、自称救い主というあわれな姿を人々に刻みつけさせ、十字架への道を頓挫させることにありました。

2.

 長老、祭司長、道行く人々は、神の計画など考えることもなくこうけしかけました。

「もし神の子なら、十字架から降りてみよ。そうすれば信じてやろう。」

しかし私たちはむしろ、イエスが十字架から降りなかったがゆえに、信じるのです。

イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架の苦しみから決して逃げ出さなかったゆえに、それを信じる私たちは必ず救われるのです。

その証拠は、このマタイ福音書で唯一、イエスが十字架の上で叫ばれた言葉として記録されている一言にあります。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と。

神の子であるイエスがなぜこのような叫びを挙げたのか。

十字架から逃げ出さず、完全にサタンの誘惑に勝利したにも関わらず、このイエスの悲しい叫び声は一体何なのか。

先週の説教でも話しましたが、イエス・キリストにとって、十字架は肉体の苦痛と死の恐怖ではありません。

それは、常に父なる神と一つであったイエスが、私たちの代わりに父にのろわれ、引き裂かれる、という恐怖です。

すれ違いが当たり前の世界に生きている私たち人間には、交わりが引き裂かれることが神にとってどれほど苦しいことか、想像できないでしょう。

しかしいつも一つであった三位一体の神が、たとえ十字架上の数時間であったとしても完全に引き裂かれた、その苦しみ。

父なる神が、人の身代わりとして子を完全に見捨てた、その痛み。ひとり子なるイエスが父なる神にのろわれるという、その苦痛。

私たちはそれがわからない限り、十字架そのものがわからないのです。

しかし完全なる神にしかわからない、その痛みが、どうして不完全な人間にわかるでしょうか。

だからこそ、救いは人のことばや知恵でわかるものではなくて、信仰によらなければ決してわからないものであるのです。

3.

 「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」は、本来すべての人間が叫ばなければならない叫びでした。

それは、現に神を捨て、神から引き離されているすべての罪ある人々が、叫ぶべき叫びです。

しかしイエスは、私たちの代わりにそれを叫んでくださいました。

だから私たちは、もはやどうして神は私を見捨てたのかと叫ぶ必要はありません。

イエスの十字架の犠牲によって、あらゆる罪人は神と完全に和解することができました。

エリ・エリ・ラマ・サバクタニ、このイエスの絶望の叫びは、私たちにとっては逆に喜びの福音を伝えています。

十字架でイエスが私たちのために死なれたのを信じるならば、私たちはもはや何があっても神から捨てられることはありません。

なぜなら代わりにイエスが捨てられたからです。神の怒りは、イエスの十字架によって完全になだめられました。

だから私たちはイエスを信じるならば、何にもおびえる必要はないのです。

生きることそのものが痛く、苦しくk、口をつぐむしかないような人生であっても、十字架を見上げるならば、沈黙が賛美へと変わっていきます。

私たちは、自分自身の抱えている問題に神が答えてくださらない時、神は私を無視されていると思うかもしれません。

しかし決してそんなことはありません。神の怒りはすべて十字架の上で清算されたからです。

神のみこころがわからないと嘆く時、どうしようもない孤独感に震えるとき、イエス・キリストの叫びと共に、すでに私は勝利していると信じましょう。

神から見放されたと思い込んで、神に信頼することから手を離してしまうならば、私たちは自分の十字架から降りてしまったことになります。

あきらめてはなりません。この受難週、私たちはもう一度十字架の前に立ちましょう。

様々な問題が立ちふさがる中で、私たちが十字架の恵みを今一度かみしめ、キリストが私たちのために死んでくださったことをおぼえましょう。