恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.3.13「父に忘れられたイエス」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

先週から、「クリックすると開閉する」という仕掛けをブログに取り入れました。

今までは、聖書箇所が長いとページもそれだけ長くなってしまい、見づらかったのですが、一気に問題解決。

一書説教だってこわくありません。 やるかどうかは別問題ですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』26章36-46節 

序.

 私たち人間にとって、忘れるということは日常茶飯事です。

子どもは学校の宿題を忘れます。大人は子どもとの約束を忘れます。老人は最近のことを忘れます。

そんな私たちにとって、イエス様が父なる神から忘れられることの恐怖はぴんとこないかもしれません。しかし想像してみてください。

自分の父母が認知症にかかり、自分のこともすっかり忘れてしまうことがあるかもしれません。

あるいは自分自身が、家族や友人との楽しい思い出も忘れてしまう時がくるかもしれません。

そのとき家族に与えるであろう悲しみは、容易に想像がつくでしょう。

 聖書には、イエスが十字架にかけられたとき、こう叫んだと書かれています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。

じつのところ、神がイエスを「見捨てる」ということは、「イエスが神から完全に忘れ去られた」という意味に他なりません。

全知全能のお方であり、永遠に存在し続けるお方である父なる神には、「忘れる」ということはあり得ないことです。

しかしキリストは、十字架の上で、神に完全に忘れ去られたのです。

十字架をこのように考え直すことは、決して皆さんが持っている十字架のイメージを弱めるものではありません。

1.

 イエスは、この地上に来られる前も、来られた後も、常に父なる神と共におられました。

私と父は一つですと人々に語り、いつも朝早いうちから父なる神に祈りました。

ヨハネからバプテスマを受けたときには「これはわたしの愛する子」という声が天から響きました。

最後の晩餐でイエスは父なる神に「あなたと共にいたときの栄光をもう一度輝かせてください」と願いました。

その父なる神から忘れ去られてしまう!偶像にまみれていたイスラエルの民に対してさえ、

「母が自分の乳飲み子を忘れようとも、このわたしはあなたを忘れない」と言われた父なる神が、このイエス・キリストを忘れてしまう。

それが、十字架によって、神にのろわれた者となるということなのです。決して思い違いをしてはなりません。

キリストは死を恐れてなどいなかったのです。自分の手首足首を五寸釘で突き刺されることを怖がったのでもありません。

イエス・キリストが「悲しみのあまり死ぬほどです」と弟子たちに語ったもの。

それは、父なる神から忘れ去られることと、そしてそこまで犠牲を払わなければ救われない、私たちです。

 その私たちにはわからないかもしれません。神から忘れ去られることが死よりも恐ろしいなどということは。

しかしイエス・キリストは今ゲツセマネの園で、激しく叫び、何度も何度も祈りを繰り返します。

眠りこけている弟子たちにさえ祈りを求め、その恐怖と戦われました。「父よ、どうかこの盃を取りのけてください」と。

盃とは、十字架で待ち受けている苦しみです。

多くのクリスチャンは、この盃を、ぶどう酒と重ねて、十字架の苦しみイコールイエスが血を流されることのように考えます。

しかしイエスがいま飲み干そうとしている盃は、血の盃ではありません。それは、いうならば無の盃です。

イエスが父なる神と共に持っておられたあらゆる栄光が、すべて忘れられて、初めから何も存在しなかったかのように、みなされる。

その盃がいまキリストの前に差し出されています。

この盃こそ、すべての人間の罪への解決であり、イエス・キリストしか、この盃を飲み干せる者はおりません。

2.

 私たちは次のことを忘れてはなりません。人間が生まれながらに持っている罪は、このイエス・キリストしか身代わりになれる者はいないのです。

私たちの心の中には、神を悲しませ、怒らせている、無限の罪がひしめいています。

ねたみ、憎しみといった自分でも気づく負の感情だけではなく、自分では気づきもせず、言葉で説明できないようなもの。

しかし明らかに私たちを汚し、苦しめている罪の数々を。

この世で罪と呼ばれるものは、その心とたましいを覆う闇があふれ出て、行動として露わになったものにすぎません。

人は、罪が行動に表れないように必死で心の中に押しとどめていますが、それは暴走した原子炉をコンクリートで覆っているようなものです。

いつかはあふれることにおびえながら、ほかにどうすることもできないのです。

 神は、人間の心の中をすべて見ておられ、怒りを燃やしておられます。

もちろん神は愛なりという言葉を当然私は知っております。

しかし神の愛は、罪を見過ごすことのできない愛であり、人間の罪に激しく怒っておられます。

神は、人の心の中を見て、1%の善意があるから99%の罪もすべて赦してくださるということはありません。

もし仮に心の中に99%の善意があったとしても、1%の罪があれば、その罪は神を怒らせているのです。

ではどうすればその神の怒りから逃れることができるのでしょうか。

 人は、どんな努力をしても、自分の中の罪を0%にすることはできません。

だからこそ、愛の神は、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。

イエス様は、私たちが本来受けるべき罪のさばきをすべて引き受けるために十字架に向かわれました。

キリストの尊い犠牲によって、私たちの罪を神は完全に忘れてくださいました。しかしキリストは十字架で、神から完全に忘れ去られたのです。

ゲツセマネの園での祈りでは、御使いがイエスを励ましたということがルカの福音書の並行記事には書いてあります。

しかし十字架で、主は完全なる孤独でした。父なる神とのあらゆる交わりも、まるでなかったこととされ、天は闇に覆われ、沈黙しました。

それはイエス・キリストによって死よりもつらく、地獄の業火よりも恐ろしいものであった、ということに私たちは気づくべきです。

イエス様は、神から忘れ去られるという恐ろしい道を選ぶことで、私たちが受けるべきさばきをすべて引き受けてくださったのです。

3.

 最後に、よく考えてください。イエス・キリストにとって、神から忘れ去られることが、神ののろいそのものであったという事実を。

だとしたら、この世の多くの人々は、神に対して同じことをしているのではありませんか。

つまり、忘れてしまうことが最もおぞましいのろいだとすれば、まさに人々はそののろいを神に対してしているではありませんか。

神を忘れてしまっているではありませんか。

自分の人生は、自分が決める。神などいない。もし万が一神が存在したとしても、自分には関係ない。

そう考える人で、世の中は満ちています。私たちここにいる者たちも、かつてはみなそうでした。

神さまのことなど聞いたこともないし、ましてや救い主として信じるなど、考えることもありませんでした。

 人々は神を忘れています。

そしてもし神も人を忘れてしまったならば、神と人とは決して交わることがなく、すべての人間はみな神の怒りの中で滅んでいくしかない者でした。

しかしだからこそ、愛なる神は手をさしのべてくださったのです。

イエスが神に忘れられた者になったというのは、その代わりに私たちを決して忘れられない者として認めてくださったということです。

この方が、私の身代わりとなって十字架で死に、よみがえってくださったからこそ、私たちは生きるのです。

この方が、私の身代わりとなって神と引き離されたからこそ、私たちは神とひとつになることができたのです。

この方が、父なる神から永遠に忘れられた者になるという耐えがたき道を選ばれたからこそ、

私たちは何があっても、神さまから忘れ去られることがないのです。

ただ、神に感謝しましょう。

私たちの罪がどれだけおぞましいものであっても恐れる必要はないのですから。

このイエス・キリストの犠牲のゆえに、私たちはまったくきよい者として、大胆に神の御前に出て行くことができるのですから。