恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.1.17「聞く耳のある友へ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

昨年、某オリンピックのロゴデザインが外国の既成のロゴを剽窃していたという事件がありました。

説教者も人間ですから、以前どこかで聞いた、人の説教を無意識にパクってしまうことがあり得ないというわけではありません。

今日の聖書箇所は、書き終わってから気づきましたが、二年前に語った礼拝説教と同じ所でした。

人のではなくて自分の説教だったのが幸いですが。

真逆のことを言っていてもつまずくし、同じことを繰り返しているのもまたつまずく。

ドキドキしながら前の説教を読み直しました。基本線は同じですが、細部では微妙に違っており、とりあえず一安心。

半年も経つと、どこから語ったか忘れてしまうことがあります。

説教は心に刻みつけるものですから、それではいけないとは思っているのですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章4-15節

 4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。

 9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」

1.

 今日の箇所は「種まきのたとえ」という名前で親しまれている、イエス様のメッセージです。

しかしじつのところ、「種まきのたとえ」と言われながらも、イエス様のメッセージの中心点は、種でも、種をまく人でもありません。

種は大麦か小麦かライ麦か、何の種かは明らかにされていません。ただ、種は神のことばです、と言われているだけです。

種をまく人は、おじさんかおばさんか、はたまた手伝いの子どもたちか、それも明らかではありません。「種をまく人」とあるだけです。

この箇所は「土のたとえ」と呼ぶべきでしょう。イエス様が四つも違うパターンを示しておられるのは、種でも人でもなく、土のほうだからです。

私たちが神の言葉を聞くのは、救われるためです。そしてその与えられた救いを、確かなものとして守り続けるためです。

確かに説教者が正しくみことばを語ることも大切でしょう。その日の説教で、聖書66巻のどこから語るかも、説教者は吟味して選んでいます。

しかしもっともっと大切なものはなんでしょうか。

 それは、聞く側の態度です。心づもりと言ってもよいでしょう。イエス様の言葉を借りるならば、「聞く耳を持って聞く」ということです。

説教者には、色々なタイプがあります。情熱的に、激しく語るタイプもいれば、用意した原稿を粛々と読み上げるようなタイプの先生もいます。

あるいは語られる聖書の言葉にも、この福音書のように取っつきやすいものもあれば、預言書のように難しく感じるものもあります。

しかし、そのいずれの場合であっても、聖霊が働かれるときに、人は救われます。

問題とされているのは、聞くひとり一人の態度です。そして今ここで上からの目線で語っているわけではないこともご理解ください。

説教者はだれでも、講壇で語る前に、自分の机の上で説教原稿を作るときに、自分に対してその説教を語りながら、準備をしています。

自分がまず聞いて、心を刺されないような説教が、どうして人の心の深みを突き刺すことができるでしょうか。

私は、まず自分がみことばを聞く態度を示されて、そして今ここで語っています。

皆さんが私と同じように、神のことばを通して、自分の聞く態度、姿勢を今一度問い直していかれることを信じながら。

あなたの心を、神のことばの前に注ぎ出してください。真剣に聞くことなしに、どんな神のことばもあなたを救うことはできません。

飢え渇いた鹿のように、乳を求める幼子のように、みことばを求めることなしには、昨日までの私たちは今日も昨日のまま、変わりません。

イエス様は、私たちの人生を変えるために、このたとえを語られました。

それは、本当に求めている者だけがそれを理解し、己の人生の糧としていくためです。私たちは、目を開いて、その恵みを受け取りましょう。

2.

 このたとえ話の中で、人の心は四つの土の姿として描かれています。

第一に、みことばを聞いても、心が道路のように踏みしめられて、つまりこちんこちんに固まっていて、芽を出せずに終わってしまう心。

以前、経験則という言葉を説教で語ったことがあります。昔こうやって失敗したからそれは避ける。昔こうやって成功したからそれを繰り返す。

経験を人生の規準としている人は、自分が経験した以上のことを、自分の人生の中で作り出すことができません。

神があなたに永遠のいのちを与えると約束していても、経験則に縛られた心は、世間の常識で踏みしめられて、固まってしまっています。

そんな人生で終わらないでください。私の力を越えた主よ、あなたが私の人生を変えてくださいと叫ぶ者になってください。

 四つの心のふたつめは、みことばを喜んで受け入れても、土が浅すぎて、試練が起こるとすぐに挫折してしまう心です。

イエス様のことばをもう一度注意深く振り返ってみましょう。こう言っておられます。

「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです」。

この人たちが、喜んでみことばを受け入れるのはなぜでしょうか。それは、聞いたみことばが自分のプライドを満足させてくれるものだからです。

あなたは誰よりも尊い存在、ナンバーワンよりオンリーワン、・・・・もちろん、神の愛はそのとおりです。

しかし、そこで自分だけの神のイメージができてしまう。

そして試練が起こったとき、どうして神さまは私を愛しているはずなのにこんな苦しみを与えるの、と。

神さまはどうして私を試練に遭わせるのか、という質問の答えは一つしかありません。「だって、神さまだから」。

人間が作った偶像の神は、人間の思い通りに動いてくれます。しかし本当の神は、人間が作ったのではなく、人間を作ってくださったお方です。

創造主は、被造物が想像もつかないほどに大きな計画を持っておられます。試練もそのひとつです。

神さまをあなたの枠の中に閉じ込めてはなりません。私たちは神さまの子どもであると同時に、作られたものに過ぎません。

しかし神は、必ず最善の結果を与えてくださいます。だから、心を薄い岩地のままで終わらせないで、苦難の中でもみことばを蓄えていくのです。

イエス・キリストが私の心の深みにしっかりと根を下ろしてくださり、苦しみの時にも私がこの方の翼の下に身を隠すことができるように。

そして苦しみの中でも、私はあなたに従いますと大きな声で告白することができるように。

そのために、私たち兄弟姉妹の交わりがあり、励まし合うことのできる霊の家族がいるのですから。

3.

 しかし、試練の時にこそ、私たちの信仰が練り直されるということは事実です。

逆から言えば、私たちの信仰を強くするために、父なる神は、愛する子どもたちに試練を与えるということができます。

しかしご注意ください。人は、試練から逃げることもできるのです。正しくは、試練から目をそらすために、ほかのもので気を紛らわすのです。

それこそが、三番目にイエス様が警告された、やがてはいばらに覆われてしまった心の姿に間違いありません。

私たちが試練を受けるとき、二つの道があります。ひとつは、その試練を正面から受け止めて、自分の生き方を変える機会とすること。

そしてもうひとつは、その試練から目をそむけて、自分の大好きなこと、没頭できることで気を紛らわせて、試練が去るのを待つこと。

しかし試練を受ける度に、後者の方法ばかり繰り返していると、いばらが私たちの心を取り巻き、がんじがらめにしてしまいます。

最初は気を紛らわす手段であったはずのものが、いつのまにか自分の生活の中で手離すことができなくなってしまいます。

富や快楽だけではありません。イエス様は「この世の心づかい」を最初の誘惑者に挙げています。英語の聖書では「care」と訳されています。

careはもう日本語になっています。福祉施設では「ケアワーカー」という人たちがいますね。careは「お世話をする」という意味です。

お世話をすることは悪いものどころか、むしろ良いものでしょう。しかしどんなに良いものでも、それが私たちの心を引き離すものになり得るのです。

聖書の中に、その実例があります。弟子たちのお世話に忙しく動き回っていた姉マルタと、座り込んでイエス様の話を聞いていた妹マリヤ。

「彼女は本当に大切な、ひとつだけのことを選んだ」と、イエス様が賞賛されたのは、マリヤのほうでした。

 まず、神のことばを聞くのです。

他のことを考えながら、次の予定を考えながら、ではなくて、自分のたましいを吐き出す覚悟で、真剣に、神のことばを聞くのです。

そうすれば、私たちの心は、薄い岩地でもなく、茨の生い茂る雑草地でもなく、正しい、良い地として、聞いたみことばが実を結びます。

さあ、私は今朝、神のことばをあなたがたの心にまきました。

それが芽を出すか出さないか、茨に覆われるか、百倍の実を結ぶか、すべてはみことばと共に働かれる、聖霊なる神にゆだねます。

しかし私は信じています。みなさんの心が良い地であることを。

目の前の試練に耐え、この世の楽しみで試練をごまかさず、ただ神のことばをしっかりと守っていかれるひとり一人であると信じています。