恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2016.1.3「女たちがささげたもの」

 あけましておめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。今年もよろしくお願いいたします。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章1-3節

 1 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。

2 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、

3 自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。

1.

 新しい年が始まりました。お正月の楽しみのひとつとして、子どもたちはお年玉、そして大人は年賀状があります。

いや、あんなの全然楽しみじゃないよ、だって書くのがめんどうだもの、という方も、年賀状を受け取って読むのは、きっと楽しいはずです。

とくにそれがパソコンで印刷された味気ないものではなくて、手書きの文字や切り絵、貼り絵などあればなおさらでしょう。

 ところで、目上の方に送る年賀状で、気をつけなければならないことが二つあります。

ひとつは、「賀正」とか「迎春」といった二文字の言葉を使わないこと。

目上の人には、「謹賀新年」とか「恭賀新春」といった、敬意を表す言葉を含めた、四文字を使わなければなりません。もう遅いですね。

そしてもうひとつは、句読点、つまりテンやマルを使わないこと。

句読点をつけないと読めないような文章は、目上の方に使ってはいけない、ということで、これは、結婚式の招待状などでも同じだそうです。

 しかし年賀状はさておき、普通の文章では、句読点がないと意味が変わってしまうということがよくあります。

今日の箇所は、まさにその典型です。3節にこういう言葉があります。

「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった」。

句読点がついていないので、「自分の財産をもって彼らに仕えていた」のはヘロデの執事クーザの妻ヨハンナと一気に読んでしまいがちです。

しかし他の翻訳と比較すれば、財産を用いて彼らに仕えていたのはヨハンナだけでなく、ここに挙げられているすべての女性であるとわかります。

富裕層であるヨハンナだけが、その財産をもってイエス様たちを支えていたのではありません。

貧しい女性も含めて、それぞれが自分の持っているものを用いて、彼らを支えていたのです。

クリスチャンは、生活に余裕のある人がささげて、そうでない人はささげなくてもよい、という考え方を持つべきではありません。

強制ではなく自由であることは確かです。

しかしそれぞれが自分に与えられているものから、神さまのみわざを支えるために、自分にできるものをささげていくのです。

2.

 今日の聖書箇所は、短いところですが、ささげることの本質を教えています。今日の説教では、ここから三つのことについてお話しします。

まずひとつは、「ささげる」ということは、だれかから命じられてということではなく、自発的な喜びから生まれてくるということです。

イエス様に付き従った女性たちは、まず最初にこういう言葉でまとめられています。

2節、「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、・・・」と。

女性たちの中には、貧しい者もいれば、上流階級にあたる者もいました。

しかし彼女たちは、ともにイエス様から苦しみを取り除いていただいた者たちでした。

そして縛り付けられていた人生から解放された、その感謝が、イエスといっしょに旅をし、その歩みを支えるという生活を生み出していたのです。

感謝がなければ、主に仕え続けることはできません。救われた喜びがなければ、主にささげることはできません。

私たちは、救われたことをどれほど感謝しているでしょうか。この世から贖い出され、神の国の国民とされたことをどれだけ喜んでいるでしょうか。

ぜひ振り返ってみましょう。

 第二に、ささげるということは、みことばを受け入れることから始まる、ということです。

この箇所の直前には、イエスのみことばを通して救われた、罪深い女性の姿が語られています。

そしてこの箇所のすぐ後には、みことばを聞く心、態度が、農夫が種をまいた場所にたとえられている、有名なたとえ話が語られます。

みことばを聞き、それをしっかりと心の中に受け入れるときに、私たちの心は変わります。

それまで自分の財産や知識を、自分の栄光のために用いようとしていた人生が、

それを神のために、そして神の働きに仕えている人々のために用いるようになります。

それも嫌々ながらではなく、心から喜びをもって、惜しむことなくささげます。そこには、感謝があるからです。

そして感謝は、みことばを開き、みことばの恵みをかみしめていく中で、さらに強められ、私たちの生活の中で力となっていくのです。

喜びがない、感謝がない、という人は、まずみことばを開きましょう。

そして神様に自分の苦しいことを打ち明けて、心に神よ語ってくださいと願いながら、みことばをいただくのです。

時間をかけなければならないこともあります。

しかし、私たちの父である神は、その愛する子どもたちに対して、みことばを通して答えを与えてくださる、と信じて、聖書を開きましょう。

3.

 そして最後に、ささげるというのは、自分の好き嫌いによって左右されないものだ、ということです。

3節の最初には、この女性たちは「自分の財産をもって彼らに仕えている」と書かれていました。

注意してほしいのは、「イエスに仕えている」ではなく、「彼らに仕えている」ということです。彼女たちを解放してくださったのはイエス様でした。

しかし彼女たちは、イエス様を支えるだけではなく、イエス様が弟子として招かれた者たち全体のためにささげました。

自分の教会のためにはよくささげても、もし他の教会や団体の働きに対して目を閉じているならば、それは人間的なえり好みのままです。

私は以前、福音放送の会計をしておりましたが、ある教会からは、次のように言われて献金の要請を断られたことがあります。

「ライフ・ラインに献金しても、うちの教会にライフライン見て求道を始めました、という人は来たことがありませんよ、無駄ですよね」と。

でも、自分の教会に来なくても、隣町の教会に来るならば、それもまた宣教の立派な前進ではないですか。

私たち教会同士の関係は、ライバルではなく、協力者なのです。

この女性たちのささげる姿は、メリットがあるからささげる、デメリットしかないからささげない、という狭い信仰ではありません。

 「ささげる」という言葉は、決して金銭や物だけではありません。

私たちが神から与えられている賜物を用いて、教会とその働きのために仕えていくということも含みます。

教会の中で、「一致がない」とか「一致が必要」ということがよく言われます。

しかし一致とは、みなが同じ考えを持つことではありません。一致は、音楽用語でのハーモニーにたとえられます。

ハーモニーの基本は、自分以外の部分の音を聞くということです。

自分に何ができるだろうか、神さまは私にここで何をすべきかを求めておられるのかという思いをもって、教会を見つめてください。

教会の建物という意味ではなく、教会の中の礼拝、交わり、宣教、色々な所で交わりが破れ、穴を空けている姿を見てください。

今礼拝に来ることができない人、苦しい心の中で過ごしているかもしれない人たちがいます。

私たちは、それぞれが教会のからだの部分です。

だからこそ、自分以外の部分に関心を持ち、その声にならない声を聞き、自分にできることを考え、お互いに関わっていこう。

誰かがするべきだ、ではなく、私がさせていただきたい。そういう思いで、この女性たちはイエス様と弟子たちに仕えていたのです。

私たちもその姿にならって、これからの一年を歩んでいきましょう。