恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.11.8「神の子どもたちの祝宴」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』7章24-35節

 24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。

25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。

26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。

27 その人こそ、

  『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、

  あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』

と書かれているその人です。

28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。

29 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。

30 これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。

31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。

32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。

  『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。

  弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』

33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、

34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。

35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」

1.

 さて、イエス様は、ヨハネの弟子たちが帰るのを見届けてから、人々にヨハネについて語り始めました。

私は、イエス様があえてヨハネの弟子たちが帰ってから、ヨハネについて語り始めた、というところに、何と言うか、侠気(おとこぎ)を感じます。

ここで語られているのは、ヨハネの批判ではなく、むしろ賞賛です。預言者よりもすぐれた者、女から生まれた者の中で最もすぐれた者。

たしかに「神の国の最も小さな者も、ヨハネよりすぐれている」という言葉はありますが、それはヨハネの偉大さを否定するものではありません。

イエスこそ、ヨハネという男を最もよく知っている友でした。

ヨハネは、まことの預言者であり、もっともすぐれた男。人のほめる言葉に、目を細めて満足するような者ではない。

だからイエスは、ヨハネの弟子たちにはただこう伝えました。

「目の見えない者が見えるようになり、貧しい者には福音が宣べ伝えられている、ただ、この今起こっている事実だけをヨハネに伝えよ」と。

ヨハネ様、イエスが心配しておりました、イエスがほめておられました。

そんな報告は、彼を誤解させることはあっても、彼を励ますものには決してならない。それがヨハネという男なのだから。

 イエスは人々に向き直り、ヨハネについて思い起こさせます。「風に揺れる葦」、それは人の言葉で右に左にと簡単に揺れ動かされる者。

「柔らかい着物を着た人」、それはこの世の安心にどっぷりと浸かり続けている者。ヨハネはそのどちらでもない、とイエスは叫びます。

彼は預言者である。だがただの預言者にあらず。預言者となることを預言されていた、イスラエル最後の預言者である、と。

ヨハネこそ、イスラエルに王である救い主がお生まれになる前に、王の道を整え、人々の心を先備えするために、荒野で叫ぶ、その人。

本物の預言者であり、女の腹から生まれたあらゆる者のなかで、もっともすぐれた者である、と。

2.

 しかしイエス様は、ここで驚くべき言葉を口にします。「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と。

なぜでしょうか。それは、神の国に入る条件は、人格の高潔さではない。どれだけ神のために働いたか、でもない。

ただ、イエスを私の救い主として信じる信仰によるからです。

ヨハネは、あらゆる人間の中でもっともすぐれた男でした。どんな罪にも妥協を許さず、どんな権力者にも決しておもねらず。

しかしイエスを主と信じる信仰によって、神の国に入る者たちは、たとえヨハネがそれほどまでにすぐれた者であっても、彼よりすぐれています。

なぜならば、神の国に入る者たちは、最もすぐれた神の預言者よりも神に近い者、つまり神の子どもとされた者たちだからです。

こんな光景を想像してみてください。童話に出てくるような、石造りの小さな町。その町の広場に、突如としてラッパの音が響き渡ります。

人々が騒然とする中、よく訓練された兵士たちが人々を整列させ、広場の真ん中に赤絨毯がくるくると敷かれていきます。

そして見事な衣装を身につけた王のしもべが現れ、威厳に満ちた声と態度でこう叫びます。

「ものみなひれ伏せ、今ここに、あなたがたの王が来られる」。これがバプテスマのヨハネです。もっとも王に近い、偉大なしもべです。

しかし彼は王の第一の家来であっても、王の子どもたちではありません。

王の政治の相談役にはなり得ても、王が心のすべての悩みを打ち明けることのできる友にはなり得ません。

しかし私たちは、王の子どもであり、王の友とされました。

イエス・キリストは十字架で私たちのために死んでくださいました。それによって私たちは神の子どもとされたのです。

そしてイエス様は、永遠の友として、私たちを決して見捨てることはありません。

3.

 ヨハネのバプテスマは、自分の罪を悔い改めるしるしでした。

自分の罪を悔い改めるとは、自分が人生のあるじであることをやめて、神が人生のあるじであることを認めることです。

「取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めた」というのは、そういうことです。

しかしパリサイ人や律法の専門家たちは、自分たちが正しいと言い張り、決して罪を悔い改めようとしませんでした。

彼らは、ヨハネやイエス様のことばを聞きはしても、自分が正しいと言い張り続け、その心の中にはまったく喜びはありませんでした。

彼らは霊的に無感覚です。神の愛は彼らパリサイ人たちにも向けられていたのに、

そしてだからこそヨハネもイエス様も彼らにみことばを語り続けたのに、彼らはそのどちらのことばをも受け入れませんでした。

たとえの中に出て来る、「弔いの歌」とは、ヨハネが語った、罪の悔い改めを迫る厳しいことば、

そして「笛と踊り」とは、罪に囚われている者たちがイエス様を信じることによって、喜びへと解放されることを指しています。

パリサイ人はそのどちらをも、悪霊だの、食いしん坊だのと辛辣な言葉で批判し、決して受け入れようとしませんでした。

 そして大事なことは、彼らの姿は、かつての私たちの姿、そして今も、救いを受け入れない、この世の人々の姿だということです。

しかしイエス様は、最後にこう約束しておられます。「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」。

子どもたちとはだれのことでしょうか。言うまでもなく、イエスを信じて神の子どもとされた、私たちキリスト者のことです。

私たちが、イエス様のように、あるいはイエス様のまわりに集まってきた人々のように、どれだけ喜びに満ちて生きているか。

そしてヨハネのように、彼のバプテスマを受けた人々のように、どれだけ罪を憎み、悔い改め、きよさを求めて生きているか。

そのどちらの面も、私たちは神の子どもとして引き継いでいます。罪を憎め、唾棄せよ、しかし救いを喜べ、感謝せよ、ほめたたえよ。

私たちは弔いの歌に心を痛めつつ、同時に婚宴の笛の音に合わせて踊らずにはいられません。

私たちの罪が、神の子イエス・キリストを十字架につけました。

イエス様が十字架にかからなければならないほど、私たちの罪は救いがたいものでした。

しかし罪はすべて十字架に打ち付けられ、罪のさばきはイエス様の苦しみと死によって前払いされました。その保証が主のよみがえりです。

十字架が私たちを神のこどもとするためであったことを信じましょう。キリストがよみがえられたことを受け入れ、永遠のいのちを受け取りましょう。

そのとき、私たちには決して朽ちることのない喜びがあるのです。ただ感謝して歩んでいきましょう。