恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.10.18「葬列は止まった」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらをご覧ください。

聖書箇所 『ルカの福音書』7章11-17節

 11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。

12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。

14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。

15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。

17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。

1.

 テレビドラマだったか、それとも実際の葬儀の場であったか曖昧ですが、子どもを失ったある男性の言葉が心に思い起こされました。

「馬鹿野郎、親より先に死ぬ子どもがあるか」。人は必ず死にます。それは人に限らず、すべての生き物に課せられた定めです。

しかし、子どもが親よりも先に死んだときにそれを普通ではないこととして受け止めるのは、人間の親だけです。

弱い者がまず強い者に殺されるのが当然の世界に生きている動物たちは、子どもを失って悲しみはしても、それは仕方のないことと考えます。

しかし人間だけは、子どもが親より先に死ぬという現実に直面したとき、それを異常なこととして受け止めます。

 私は、ある若い夫婦を知っています。彼らは自分たちの子どもを病気で失いました。

悲しむ時間さえ与えられないまま、葬儀、その後の法要、数ヶ月があっという間に過ぎていきました。

しかしそれが過ぎたとき、心に起こってきたのは悲しみではなくて怒りだったそうです。

子どもを奪った神への怒りではありません。夫婦が、お互いに相手に対して怒りを持ったのです。

事故ではなく、病気です。親に責任はありません。

しかしそれでもなお、彼らは相手を責めました。なぜもっと早く病気に気づいてあげなかったのか。

この夫婦は特別なケースでしょうか。いいえ、決してそうではありません。

誤解を恐れずに言いますが、結婚して一体となっている夫婦だからこそ、相手を責めたのです。

相手を責めることで、自分を責めているのです。

責めることで傷口は広がります。しかしあえて傷口を大きく広げたことで、彼らは比較的早く回復しました。

同じように子どもを失ったある夫婦は、何年も子どものことに触れないで過ごしました。

人々からは強い夫婦と思われていますが、彼らはいまだにいやされていません。

2.

 イエス・キリストがナインの町の門の前で出会ったのは、「やもめとなった母親のひとり息子」を送り出す葬儀の列でした。

「やもめとなった母親のひとり息子」とは、回りくどい言葉に思えます。

他の聖書の翻訳も見てみました。口語訳聖書では、「あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだ」とあります。もっと回りくどい。

しかしこの回りくどさは、この残された女性に対する距離感をそのまま表しているように思えます。

夫を失って未亡人となったこの女性にとって、子どもの成長だけが生きがいだったことでしょう。

しかしその子どもが、親よりも先に死んでしまった。そしてその不条理な現実を、責める相手が彼女の生活の中には存在しない。

彼女の痛みの大きさに、葬儀の列にすれ違う者たちは、距離をとって、ただ会釈を交わします。

それ以外に、今は何ができるでしょうか。共に悲しむには、その痛みはあまりにも大きすぎます。

今は、どんな慰めの言葉をかければよいのか。ただ遠巻きに見つめながら、言葉もかけることもできず、時が経つまではそっとしておこう。

そう思うのが今も昔も、日本もイスラエルも変わらない、人間としての常識です。

 しかしイエスは、驚くべき行動に出られました。葬儀の列に近寄り、棺に手をかけたのです。

「棺に手をかける」。それは非常識極まりない行動です。

しかしイエスを、母親の悲しみをご存じでした。この時すでにイエスは、自分がやがてかからなけばならない十字架を目の前に見ていました。

すべての人間の罪を赦すために、ひとり子を十字架にかける父の悲しみと、この母親の悲しみが痛いほど感じておられました。

そしてこの母親の悲しみの涙を、驚きと喜びに変えるために、「泣かなくてもよい」と声をかけ、棺に手をかけました。

人々は死を恐れ、棺に手をかけるなど考えもしません。しかしイエス・キリストは棺に手をかけました。

そして私たちもそうなのです。私たちクリスチャンは、このイエス・キリストを信じて、永遠の死から永遠のいのちへの希望を与えられた者たちです。もちろん、私たちは葬儀の場で棺を引き下ろすというようなことはしません。しかし死を恐れない者となりました。

人々が口をつぐみ、距離をおき、そっとしようとする「死」という現実に対して、そこからの解放と勝利をはっきりと語ることができる者となりました。教会は、死を極度にタブーとするこの日本社会において、唯一、大胆に「棺に手をかける」ことのできる人々の集まりです。

3.

 難病にかかり、大人になるまでは生きられないという子どもたちがたくさん入院している、ある子どもホスピスを訪問した人の話です。

一人の子どもと、トランプやかるたをして遊んでいたとき、ふとこの子は幾つなんだろうと思い、質問しました。

するとその子はこう答えたそうです。「ぼく、11歳4ヶ月と3日だよ」。質問した彼は、気まずい思いをして、何も言えなくなってしまいました。

わずか11歳にして、死を覚悟して一日一日を数えている子どもたち。そんな彼らの前に、何を語ることができるでしょうか。

もちろん私たちは福音を知っています。「イエス様を信じれば、永遠の命が与えられる」。

その言葉さえ、一日一日を垂れ流しているような私たち大人が語っても、何の説得力もないようにさえ思えます。

しかしこれが「棺に手をかける」ということです。触れなければ傷つけることはない。関わらなければ自分が無力さを感じることもない。

私たちは人が傷つくこと、自分が傷つくことを恐れ、悲しむ人々の列と無言ですれ違おうとします。

しかしイエスはそうではありませんでした。列に近づき、棺に手をかけたのです。心の傷口に塩を塗ることになるかもしれない。

しかし今このまますれ違ったら、もう一生出会うことはないかもしれない。そういう出会いが私たちにはあるのです。

あなたが棺に手をかけるとき、人々はとがめるかもしれません。

だが棺に手をかけなければ、いのちのことばをどうしても伝えることができない人々がいるのです。

私がここでいう「棺」が具体的に生活で何を指しているのか、それは人によって違うし、また自分自身で考えなければならないことです。

しかしだれの周りにも、必ず棺があるはずです。

できればそれに手をかけないでいたい、だが手をかけなければ永遠のいのちを伝えることができないという棺が。

今日、それに手をかけるとき、私たちの生活は昨日までよりも大変になります。迫害や軋轢もあります。

でも主イエスを信じましょう。信頼しましょう。

イエスでさえ、死から救うために棺に手をかけることをためらわなかったのなら、弟子である私たちはなおさらのことです。

棺に手がかけられ、そしてみことばが語られました。「青年よ。あなたに言う。起きなさい」。そのとき、奇跡が起こり、人々は神をあがめました。

そして母親は悲しみから引き上げられました。イエス様の後に従うなら、同じことが私たちにも起こります。

手をかけるべき棺とは何でしょうか。それが実践されたとき、かならず死からいのちへと移っていくたましいがあるのです。