恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.10.11「病は無駄じゃない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

昨日は教会バザーでした。いやー、疲れました。楽しかったけど。更新が遅くなり、申し訳ありません。 週報はこちらです。

 ところで、皆様は山花典之さんという漫画家をご存じでしょうか。

キリスト教の伝道番組である『ライフ・ライン』でも2007年に取り上げられた、クリスチャンの漫画家です。

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神奈川県横浜市に住む漫画家、山花典之さんは現在、漫画雑誌『ビジネスジャンプ』に「オレンジ屋根の小さな家」を連載している。山花さんは、ヒット作「夢で逢えたら」などの作品で人気を得、地位や財産を手にしたが、挫折を経てキリストの愛を知り、変えられていったという。山花さんの漫画制作の様子をお届けするとともに、お話を伺う。(番組の紹介文より)
 なんと今日から10/19までYahoo!ブックストアで『オレンジ屋根の小さな家』第1巻が、一週間だけですが、無料で読めます。

私もさっそく読んでみました。泣きますわ。泣かせますわ。

こんなふんわりした(良い意味で)作品が、あのビジネスジャンプでよく続いたなと思いました。

たとえて言うならば、ライオン一家のオリの中に投げ込まれたウサギみたいな感じです。でもクロマティ高校の人が言っていました。

「ライオンの群れの中に一匹だけ元気に暮らすウサギがいたとする   そのウサギはスゲーウサギだと思わねーか!?」

「作者のひとこと」的なページで、ご自分が教会に導かれた証しや直接聖書の言葉を大胆に書いておられます。

頑張れ、ウサギ、じゃない、山花先生。豊栄キリスト教会は、山花典之先生を応援しています。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-9節a

  1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。

5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

 今日は教会バザーの日です。年に一回、クリスマス以上に外部の方々で賑わう日ですので、どうしても心が慌ただしくなります。

たくさんの人々が来てくださるように、というのは私も同じですが、その前に、ひとり一人が聖書のことばに心を落ち着かせていただきましょう。

 まず、5節のことばをお読みします。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」。

病気は人生にとって、プラスだろうかマイナスだろうかという問われれば、私は迷うことなくプラスであると答えます。

病気にならなければ、人は幸せの意味がわかりません。

何気なく眺め、何気なく過ごしていた時の中にかけがえのないものがあったことに気づきません。

病気は、感謝することを私たちに教えます。病気は、人を信頼する心を教えます。

もちろん、だれもがはじめからそうであるわけではありません。

なぜ自分がこんな目に会わなければならないのかという怒り、いつになったらもとの生活に戻れるのかという不安があります。

不安はストレスになり、ストレスは周囲の人々への攻撃を生み出します。

しかしそれらを経て、やがて良い意味での人生に対するあきらめが起きてきます。

 40代の半ばで女性課長になったある方は、直後、乳がんが見つかりました。

がんそのものは早期に発見できたので手術すれば生存率は高いものでした。が、彼女は当時仕事で大きなプロジェクトを抱えていました。

入院中もベッドの上でパソコンをたたき、しょっちゅう会社の部下に電話をかけていました。

わずか数ヶ月の入院でさえ、同期との出世レースに遅れをとってしまう、しかし部下は電話口で彼女にこう言いました。

「課長、だいじょうぶですよ。課長がいなくても、ちゃんと会社は動いていますから、安心して治療に専念してください」。

「自分がいても、いなくても、同じように会社は回る」。その言葉を聞いたときに、彼女はさみしい気持ちになったと言います。

しかしそこでようやく彼女はパソコンから手を離して、治療に専念することができました。

結果として、彼女の乳がんは完治まで何年もかかり、彼女は出世レースからは完全に外れました。

しかし、彼女はもしあのとき病気にならなければ、家庭はばらばらになっていたかもしれない、と何度も思い返すそうです。

 病気は、私たちに家庭にありがたみを教えてくれます。また人生を生き急ぐ必要はないということも教えてくれます。

しかしだれもがそこにたどりつけるわけではありません。

場合によっては、38年ものあいだ、病になった自分を責め続けている人もいます。

それがこのベテスダの池に座り込んでいる、この人です。

 この人にとっての38年間は、目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めるしかできなかった38年間でした。

その38年間は、彼にとっても、周りの人から見ても、無駄な38年のように見えたかもしれません。

しかし決してそうではありませんでした。それは、イエス・キリストと出会うために必要な38年間だったのです。

多くの人たちが、人生のどこかでイエスに出会っています。人としてのイエスは二千年前のお方です。

しかしイエスは、聖書のことばを通して、クリスチャンとの関わりを通して、人々と出会っておられます。

そしてやはり多くの人たちが、そこでイエスと気づかずに、すり抜けてしまいます。この人も、その多くの人々と同じ道を歩むはずでした。

「よくなりたいか」という声をかけられても、答える力もなく、そこで終わっても不思議ではありませんでした。

しかし38年の病は、たとえどんなに後ろ向きな言葉のように見えても、イエスを見上げながら、「主よ」という呼びかけへと彼を導きました。

私たちは、今までの人生をどのように見ているでしょうか。充実した人生だったと思える人もいれば、つまらない人生だったと思う人もいます。

しかし私たちの人生を評価するのは、自分自身ではありません。私たちを最初に作られて、そして最後にさばかれる方である、神様です。

 イエス様はこの日、はじめてこの人に目をとめられたのではありません。

永遠なる神として、この世界が作られる前から、彼のことを心に定めておられました。

彼が生まれた時からいつも、この人に目を留めていました。38年間の病の日々も、彼を見つめておられました。

そして病が始まって38年目のこの日に、彼の前に現れてくださいました。

 いま、私が何度も使ってきた「彼」ということばは、私たちひとり一人の名前に置き換えることができます。

私たちとイエス・キリストの出会いに偶然はありません。今も私たちに、「良くなりたいか」と声をかけておられます。

その呼びかけに対する私たちの答えに、どれだけ後ろ向きな言葉が混じっていたとしても、目を上げてイエスに「主よ」と呼びかけるのです。

そのとき、「起き上がれ、床をかついで歩け」という次の言葉が与えられます。

そして、私たちは必ず起き上がることができます。そのとき、苦しい闘病生活はイエスと出会うためであったことに気づきます。

ある人にとって、病がイエス様に気づかせるきっかけとなるでしょう。ある人にとっては、経済的な問題であるかもしれません。

またある人にとっては、家族関係や人間関係であるかもしれません。しかしトラブルと見えるものは、むしろ神との出会いのチャンスです。

 バザーは、ある人にとっては不用と見えるものが、他の誰かに必要なものとして新しく意味を与えられるというドラマを生み出します。

イエス様との出会いは、私たちの人生に、永遠のいのちという新しい意味を与えます。

どうか皆様がイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちを受け取る喜びを味わうことができるようにと願います。