恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.10.4「ただお言葉をください」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』7章1-10節

 1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。

2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。

3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。

4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。

5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」

9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

1.

 「ただ、おことばをいただかせてください」。この言葉を心に刻みつけましょう。

「ただ、おことばだけをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」。

 私たちは、人生の中でしばしば行き詰まります。経済的な問題、夫婦関係や親子関係のつまずき、病気や事故。

そんなとき、私たちはあらん限りの言葉を引っ張り出して、祈ります。神様のご介入を願います。

しかし最後にはこう告白したいものです。「ただ、おことばだけをいただかせてください」と。

この百人隊長は、私の願うように、あなたがなしてくださいますようにと言いません。

むしろイエス様、あなたが願い、そして紡ぎ出した言葉が、このしもべの上に実現するようにしてください、と。

私は、どんな結果であろうとも、あなたの選んでくださった道に従います。しかしどうかおことばだけを聞かせてください。

おことばがあれば、たとえ荒れ野の道であっても、死の陰の谷であっても、私は歩いて行くことができるのです。

それが、イエス様が驚かれたほどのすさまじい信仰でありました。

 しかし、今日の聖書箇所をよく見ると、この百人隊長も初めからそんな信仰の鉄人であったわけではない、ということがわかります。

3節では、このように書いてあるからです。

「百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした」。

「しもべを助けに“来て”くださるように」と書かれています。

最初から、「おことばだけをいただかせてください」という卓越した信仰であったわけではありません。

私たちと同じ平凡な信仰、「来て、見て、触れて、直してください」だったのです。

しかし彼はどこかの時点で、平凡な信仰から一気に突き抜けました。それは一体どこからだったのでしょうか。

2.

 この百人隊長の行動は、愛によって支えられていました。

自分のしもべをみすみす病に殺させはしない。どんな病でも癒してくださるというイエス様ならば、きっと直るはず。

彼は愛の人であると同時に、愛のためにプライドを捨てることもいとわない人でした。

しかしいざユダヤの長老たちに仲介を頼み、見送った後、彼の中にはうずきが起こったのです。

それは、たとえどのような理由があろうとも、自分のしていることは、神を動かそうとしていることではないのか、という問いです。

人間が神に従うものであって、神が人間に従うものではない。彼は権威の下にある者として、命令と服従の関係に敏感でした。

しもべが今死にかけているからといって、ここに主をお呼びすることはできないし、してはならない。

それは神を自分の思った通りに動かそうとすることだ。ただ言葉だけで良い。言葉さえいただければ、しもべはいやされる。

 私たちも、同じことをしてしまうときがあります。神に必死に祈ると言いつつも、実際には神を自分のちっぽけな頭の中に閉じ込めてしまう。

神はこういうことをしてくれる、と神のなさることにひもをつけて、神をコントロールしようとする。

神にできないことはない、という人もいます。しかし実際には自分が期待しているとおりに神様が動いてくれることを願っています。

 しかし、神はこの天地を作られた方です。被造物である人間の考えていることを遥かに飛び越えておられるお方です。

被造物にとって、神が何を考えておられるのかはわかりません。しかし最善のことをなしてくださることは確かです。

子どもは、親の考えていることがわかりません。しかし親の年齢に近づけば、なぜ親があの時自分にああしたのかがわかる時がやってきます。

神の子どもである私たちは、神がなぜこのような現実を与えるのかわからないことがあります。

しかし後になれば、それが最善であったことが明らかになります。私たちが神に祈るべきは、ああしてほしい、こうしてほしい、ではありません。

むしろこう祈るべきのです。

主よ、私はあなたが世界の創造者であり、私の予想を遥かに超えた方であることを知っています。

ですから、あなたが願うように私にしてください。あなたのみこころが天で行われるように、地でも行わせてください。

あなたが何をされようとも、ただそのことに失望せず、信頼できるように、ただみことばをください、と。

3.

 今日の聖書箇所を改めて読み直してみると、不思議なことに気づきます。

イエス様は、しもべの病気をいやすための宣言をされていないのです。

他の福音書でよく目にする、「あなたはいやされた」という言葉がどこにもありません。イエスが語られたのはただひとつ、驚嘆のことばです。

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と。

「ただ、おことばだけをいただかせてください」と百人隊長は願いました。

このとき、彼が言うおことばとは、しもべはいやされたという宣言です。しかしイエスの唇からはそんな言葉さえも出て来ませんでした。

人が期待する言葉を発しなくても、神には遠く離れた所からでも死にかけた病人をいやすことができるのです。

「助けにきてください」「おことばをいただかせてください」、百人隊長の願いは、良い意味で常に裏切られました。

イエス様は、私たちが口に出す前から、私たちの願いをご存じです。必要なのは、「主よ、あなたの愛するしもべのしもべが死にかけています」。

それだけかもしれません。最善が何かは、私たちが決めることではなく、神がなしてくださるのです。

 私たちが様々な困難に出会うとき、それは神様から信仰が試されている時でもあります。

そして信仰を働かせるとは、自分の描いた設計図どおりに神が人生を建て上げてくださることではありません。

むしろ、自分が予想もしておらず、失望させるようなことばかりが起こる時こそ、信仰を働かせるチャンスです。

時として、祈る言葉さえも唇から出てこないほど疲れ果てる。しかし言葉を出す先から、主は私たちの必要を知っておられる。

大切なのは、どれだけの言葉を絞り出すかということよりも、まず主の前に自分自身を引き出して、祈りの時間を聖別することです。

イエス様は私の期待をはるかに越えた道を用意しておられるのだと信じるのです。