恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.6.28「たった一人が欠けた世界」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

今日の説教(録画)の中で、『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」(初出:『小学四年生』1977年6月号)に触れています。

それは、対象を念じながら押すと、存在そのものがこの世から消えてしまう、おそろしいスイッチ。

いじめっ子のジャイアンを消してしまった世界は、次はスネ夫がジャイアンに代わっていじめっ子になっている世界でした。

のび太の境遇は何も変わらず、むしろ感情を爆発させたはずみで、彼は世界中の人間を消してしまいます。

最後は、途方に暮れるのび太に「気に入らないからってつぎつぎに消していけば、きりのないことになるんだよ」というドラえもんの声。

そしてすべて元に戻すというハッピーエンド?で終わります。(ネタバレ失礼しました)

この話が子供心にも鮮烈に刻みつけられたのは、自分を傷つける存在を疎ましく思い、それが無くなれば良いという思いが、自分の心の中にもあることを認めずにはいられなかったからかもしれません。

週報はこちらです。

聖書箇所 ルカ15:1-10

 1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

 3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

序.

 ここで言うのも何ですが、今日は私たち夫婦の12回目の結婚記念日です。

よく「幸せ太り」と言いますが、私の場合は「幸せ痩せ」というのでしょうか、指の太さも何ミリか細くなり、結婚指輪もサイズを直しました。

妻のほうはどうかと言えば、いつのまにか指輪を外していました。聞くと「金属アレルギー」だと。

結婚前はそんなことを言い出すのにさえ勇気を必要とした私たちも、今ではさんざん好き勝手なことを言い合っています。

1.

 さて、イエス様が今日のたとえ話を話された当時、ユダヤには結婚に際して指輪を贈るという習慣はありませんでした。

しかしその代わりとなるものがありました。それは、まるで真珠のネックレスのように、銀貨10枚を数珠つなぎにした髪飾りだったそうです。

相当に重かったのではないかと思いますが、その銀貨10枚の鉢巻きが、私はすでに結婚していますという証しでした。

(参照:W.Wiearsbe,The Bible Exposition Commentary I, Victor Books, 1989, p.234.)

そう考えてみると、女の人が銀貨10枚を持っていて、その一枚をなくしたときの一生懸命さ。

それは、10枚のうちのひとつを失った、という価値の問題ではないように思えます。

どうしても10枚そろっていなければいけない、9枚では意味がない、という意味での必死さ。

なぜならば、もしかしたらその10枚の銀貨は、夫から愛の約束として贈られた、ひとつなぎの宝物そのものだったかもしれないからです。

 もちろん、これはあくまでもたとえ話です。

しかしイエス様が人々の前でこのたとえ話を語られたとき、そこには女性もまた集まっていたのではないでしょう。

そして彼女たちにとって、銀貨10枚というこの題材は、結婚の約束を思い出させるキーワードとして、心に響いたことでありましょう。

それは、どんなに裕福であろうが、あるいは貧しかろうが、たった1枚欠けたとしても、まあいいや、とあきらめることのできないものでした。

当時は貴重であった、油とあかりを費やして、家の中を隅々までかき回してでも見つけなければならないものでした。

それが見つかったならば、時間お構いなく、近所の婦人たちや友達をかき集めずにはいられない、大切なものでした。

 一方、男性や少年たちにとっては、10枚の銀貨と同じような意味をもって心に響くものが、その前に語られた迷子の羊でありました。

これもまた、まだ99匹いるんだからいいじゃないか、と落ち着いていられるものではありませんでした。

なぜなら、羊の群から一匹いなくなるというのは、じつは100匹が傷つけられるのと同じ意味を持っていたからです。

羊とは決して一人で生きていける強い動物ではありません。群をなすことによってようやく生きていける弱い動物です。

その一匹が失われるということは、その迷子になった羊とお互いに結びついて保っている羊がバラバラになることに他なりません。

イエス様がこの二つのたとえ話を通して語られた、「罪人が失われること」。

それは、たった一つが、たった一人が欠けたとしても、それはすべてが欠けることに等しいのだ、ということを意味しています。

2.

 ここで目を現代に向けると、このところマスコミを騒がせている、一冊の本が思い起こされます。

正確に言えば、その本の内容よりは、その本が世に出されたことに対しての憤り、と言ってよいでしょう。

言うまでもなく、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者である少年Aが著した手記のことです。

私はその本を読んでおりませんし、ご遺族の心情を考えるとき、ここで是か非かということも結論づけることはできない、難しさを持っています。

ただ、出版に賛成か反対かが、まるで善か悪かを判断する「踏み絵」のようにされている状況は、何か息が詰まりそうになります。

つまり、賛成をすれば、遺族のことを考えないのかと批判され、反対をすれば、ヒューマニズムに即した常識人として安心できる。

しかし、この論争の中で問われているもののひとつは、この少年Aは、今の世界に必要のない人間なのか、という本質的な問題です。

日本中の人に非難されてでもこれを世に出したいと思った彼がほしいのは、反対者が批判するように印税収入のためなのか。

もしかしたらそうかもしれない。

でも、自分がこの世界にとって何なのか。事件当時も今も、必要のない存在、この世界にはいらない者でしかないのか。

そんな20年以上つきまとってきた内なる声をぬぐい去るための必死の抵抗のようにも見えるのです。

 同じ時期、アメリカでは黒人教会での乱射事件が起こり、犯人に対して遺族が「あなたを許す」と語っている報道が印象的でした。

単純にふたつを比べることはできませんが、たとえどんなに残虐な罪を犯した者であろうとも、自分の居場所を求めています。

私たち「一般人」は、このような残酷な犯罪者が求める居場所など、少なくても私の周りには存在しない、と考えます。

しかしイエス・キリストが二千年前に「一般人」に語られたことはなんだったでしょうか。

自分の生活には入ってきてほしくない、と彼らが考えている、取税人や罪人と呼ばれた人々。

彼らこそが、迷子の一匹の羊、失われた一枚の銀貨にたとえられているのです。

たとえその一匹、その一枚がどんなものでも、それが失われることで、私たちにとっては安心でも、神の目にはいびつなものとなります。

それでも私たちは、この時代にあってこう宣言します。

どんな人であっても、決して必要とされていない者などいない。どんな人もこの世界から欠けてはならない。

たとえ彼らが自分の生活を脅かすような人々であったとしても、この世界から消えてはならない、とイエスとともに宣言します。

それは決してきれいごとではありません。

3.

 パリサイ人や律法学者にとって、イエスの話を聞きに集まった人々は、自分たちの生活に入り込んでほしくない者たちでした。

彼らにとっては、一緒に食事をするだけでけがれてしまうほど、この罪人や取税人たちは、彼らの世界には必要のない者たちでした。

しかし神様の目には違っていました。彼らは、そのたった一人が欠けてもならない、大切な人々であり、必要な人々であるのです。

 彼らを失われた一匹の羊にたとえられたイエス様は、その他の人々を「悔い改める必要のない99人の正しい人」と言われました。

しかしこの世界に、悔い改める必要のない人など決して一人もいないことを私たちは知っています。

イエス・キリスト以外に、正しい者は一人もいないことを知っています。

だから私たちは勘違いをしてはなりません。

私は、あんな人たちとは違う、私は99匹の側にいる正しい人間だと他の人々の叫びに耳を閉じてしまうのであれば、そこに真実はありません。

私たちは罪人です。ひとりの例外なく、みなが罪人です。クリスチャンでさえ、救われた罪人です。

しかしどんな一人が欠けても、この世界は神の満足した世界の姿から離れてしまいます。

御使いたちの喜びの叫びとはまったく無関係で、何も聞こえない世界になってしまいます。

 私たちは、まず自分自身がこの銀貨であり、迷子の羊なのだと認めましょう。

次に隣の人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。

そして私の知らないところで苦しんでいる、名前も知らない人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。

イエス・キリストは、そのすべての人のために死んでくださったのです。

この方が私のために死んでくださり、この方が十字架で差し出されたいのちによってあなたは永遠に生きることができるのです。

そしてこの方にしがみついて歩み続けるならば、その人はもう決して神の前から失われることはないのです。

祈りましょう。自分のために。祈りましょう。人々のために。

人を傷つけることでしか自分が生きていることを確認できない人たちがいます。

しかしたとえそのような人であっても、神の前には、この世界から欠けてはならない、大切な、失われた羊であり、銀貨なのです。

どうか私たちに、主イエスと同じようにあわれみの心が与えられるように。

失われた一匹を探し続ける羊飼い、失われた一枚を探し続ける女性のように、イエス・キリストの愛の模範に従うことができますように。