恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.4.26「子どものように」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

以前、うちの教会ではイースターの午後に教会墓地にて召天者記念会を行っていました。

しかしイースターの日というのは、新潟では雨だったり寒かったりする日が多いのです。

そのため数年前から日をずらして行うようになり、今日がその召天者記念会でした。ええ、もちろん良い天気でしたとも。

30分ほどの礼拝の後には、墓の周りにブルーシートを敷いて、お菓子をほおばり、お茶を片手に交わりの時間。

傍目にはきっと異様な集団に見えたかもしれませんが、幸いなひとときでした。週報はこちらです。

聖書箇所 マルコの福音書10:13-16

 13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

150426子どものように

1.

 今日は子どもたちに進級祝福式を行いましたが、「早生まれ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

日本の学校は4月から始まりますが、4月生まれの子供も、翌年の3月に生まれた子供も、同じ年に小学校にあがります。

早生まれというのは、それに関連して1月から3月、年が明けてから生まれた子どもたちを言う言葉です。

しかし親からしてみれば、これは大問題。

生まれた日によってはほかの子と最大一年も違うのですから、わずか6歳のうちの子がほかの子についていけるだろうか、と心配が尽きません。

これは今の時代特有のものかと思いきや、父に聞いてみたら昔からあったそうです。

私の父は昭和18年生まれですが、父の同世代に3/31に生まれた方がおられました。

そこで親が一計を案じ、一日ずらして4/1にすれば、入学を一年ずらせるのではないかと考えて、役所に届けを出しました。

ところが、一年遅らせることができるのは4/2からで、4/1は4月であっても年度初めではない、と、まさに骨折り損。

子どもからすると、一日ハンディが増えただけで、配慮が裏目に出てしまった、ということがありました。

2.

 さて、今日の聖書の物語も、配慮が裏目に出たところから始まっている、と言っても良いでしょう。

イエス様に自分の子どもを祝福していただこうと、人々が連れてきたときに、弟子たちが彼らを叱った、とあります。

ここで弟子たちを悪者扱いするのは簡単です。しかし彼らには大人の配慮がありました。

先生は24時間、人々のために働いてお疲れになっているのだ。子どものために割く時間があるならば、せめてお休みになっていただきたい。

しかし弟子たちが配慮を尽くした結果は、イエス様の憤りでした。もちろん配慮に怒ったのではありません。

子どもたちを近づけさせなかったという事実に激しく怒られたのです。

 イエス様はまことの神様です。そしてまことの神様が求めておられるのは、聞き分けの良い大人ではありません。

相手の都合とか別に考えていない子供のように、神様に近づこうとする人々です。

イエス様は言われました。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」。

注意していただきたいのは、「子どもでなければ」ではなく、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」とあることです。

すでに子どもであることをやめた青年たち、壮年期よりも老年期に近いような人々にも、神の国の扉は開かれています。

私たちすべての人間は、子どもであろうと大人であろうと、誰でも生まれた時から罪を背負っています。

大人が自分の子供時代を振り返ってみると、子どもゆえの残酷さというのも思い出すことがあるのではないでしょうか。

配慮や常識が身についていない、ただ自分の感情に忠実であろうとするがゆえの、子ども独特の罪深さというのも確かに存在します。

しかし神が私たちに教えておられるのは、子どもたちは、そんな大人の配慮や事情におかまいなしでキリストのもとに近づこうとするということです。

罪がないから、近づけるのではありません。罪を知らないから、近づけるのではありません。

どんなに罪を感じていても、子どもたちはキリストに近づこうとします。

自分の罪の自覚が大きければ大きいほど、大人のように遠慮することなく、子どもはキリストになおさら近づいていく。

それが、「子どものように神の国を受け入れる者」という言葉の意味です。

3.

 聖書の中には、イエス・キリストとの出会いを通して、救われた人々がたくさん登場します。

その人たちは罪のない、きよい人たちだったから救われたのでしょうか。まったく逆です。

離婚と再婚をひたすら繰り返していた女性、人々からだまし取った金に人生の望みを置いていた取税人のかしら・・・・

彼らは自他共に認める罪人でした。しかしだからといって、彼らはイエス・キリストに近づくのをやめようとしなかったのです。

自分が罪人であることを自覚すればするほど、彼らはキリストに望みをおいて、なんとか近づこうとしました。

ある者は、イエス・キリストに近づくために、いい年をして高い木の上に上るような真似までしました。

人はそんな生き方をあざ笑うでしょう。しかしキリストは嘲笑ではなく喜びをもってその人を受け止めてくださいます。

それこそが、まさに子どものように神を求め、神の国、すなわち自分の人生において神を主人として受け入れる生き方なのです。

 人は、神の前に立つとき、自分の罪を示されます。それは、子どもであっても、老人であっても、変わりありません。

イエス様が言われたのは、子どものように、罪の自覚の中でもキリストに近づこうとする者たちこそ神の国にふさわしいということです。

私たちの教会には、今子どもたちがたくさんいます。

しかしその子どもたち以上に、神様の前に子供のようであろうとした人々が教会の中にいました。

すでに天に召された、何人もの信仰の先輩たち・・・・あえて名前はここでは出しません。

しかしその兄弟姉妹は、子どもの神様を求め、信じ、そして地上の戦いを終えて、今イエス様と共に、天で永遠の平安をいただいております。

彼らが子どものように信じ切っていたことは、ただ一点、私のために、イエス・キリストは十字架に身代わりとしてついてくださった、ということです。

神の国に入る資格は、ただこのキリストの十字架を自分のためのものとして信じるか否かです。

自分が罪人であることを認め、それでもひたすら神に近づいていくような者たち、それが子どものように神様に受け入れられる人々です。

大人は人の家を訪問するときには手土産を忘れません。しかし子どもは、朝っぱらだろうが夜中だろうが、遠慮なくやってきます。

私たちは、神様に対してそのような態度であってよい、いや、むしろそのような態度を心がけようではありませんか。

手ぶらで良いから神に近づいていけばよいのです。同じ罪を何千回繰り返そうが、それでもただ神にすがりついていけばよいのです。

ひとり一人が、子どものように神の国を求め、キリストの救いへの招きを受け入れることができますように。