恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.4.12「祈りは呼吸」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 今日はいかにも春めいた、新潟では珍しいうららかな天候でした。青年会では近くの公園にお花見に行ったようです。

後日、写真などをアップします。週報はこちらです。

聖書箇所 ルカの福音書11:1-4

 1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

150412祈りは呼吸

1.

 今朝は、「祈り」についてご一緒に考えてみたいと思います。

「信仰者にとって、祈りは呼吸である」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「信仰者にとって」ということばが少し気になります。

クリスチャンにとって、祈りが呼吸に等しく、必要なものであるとして、ではそうでない人たちは、祈らなくても生きていけるのでしょうか。

否、彼らはすでに霊的に死んでいます。人々は、自分が充実した人生を送っているように、心の中で思っているかもしれません。

しかしそれはあたかも病院で酸素マスクをはめられながら、昏睡状態の中で自分が充実した人生を送っている夢を見ているのと同じです。

私たちキリスト者は、自分がキリストなしには生きていけないことを知りました。だからこそイエス・キリストをいのちの源として信じました。

いわば酸素マスクを外されて、ベッドのそばに立ち上がった者、それがクリスチャンです。

しかしもし祈りを軽んじるならば、彼はすぐにまたベッドに倒れ込んでしまいます。なぜならば、祈りは呼吸だからです。

イエスを知らない人々は、問題があるときに祈ります。しかし私たちは、問題があろうがなかろうが、常に祈ります。

祈りとは、私たちが神と同じ空気を吸い、神と同じところを見、神が向かおうとしている所に自分もついていく、そのために必要なことです。

 しかし、私たちクリスチャンは祈りません。頭ではわかっていても、問題の波が足下まで押し寄せてこない限り、神に向き合おうとしないのです。祈りをお願いと同一レベルでしか見ることのできないクリスチャンは、二つの罪に陥ります。ひとつは高慢、もうひとつは怠慢です。

高慢とは、他の兄弟姉妹に祈ってもらわなくても、自分の抱えている問題は神様が守ってくださるという思い違いです。

そして怠慢とは、神は私の必要をすべてご存じで、自分の生活はまあまあ守られている、だから祈らなくたって大丈夫、という思い込みです。

しかしイエス様は、祈りをそのようなものとして教えられませんでした。祈りは願いではなく、賛美です。

自分の人生がそこそこ守られているという自覚がある人よ、あなたが口にすべきは、だから祈ってもらわなくてもよい、ではありません。

この小さき者をも守ってくださる神様に感謝し、賛美を溢れさせることです。

イエス・キリストは、三年半の公生涯のあいだ、いつも朝早く、まだ暗いうちから父なる神と祈りの時をもっておられました。

祈りがただの願いだったら、日が昇ってから弟子たちといっしょに祈るだけでよいでしょう。

しかし祈りは願いではなく、神との交わりです。幸豊かなときも、幸薄きときも、神にすべてをうちあけて、神を賛美し、たましいに力をいただく。

それが私たちに求められている祈りの姿勢です。

2.

 ところで、私たちは自分でみことばを学ぼうとする場合、説教テープ、書籍、あるいは最近ではインターネットからいくらでも参考にすることができます。しかし祈りについてはどうでしょうか。

実際には、礼拝や祈祷会で、ほかのキリスト者の祈りを聞いて身につけていくことがほとんどではないでしょうか。

それは良い点と悪い点があります。良い点は、信仰の先輩が、その信仰生活の中で織り上げてきた祈りを、自分の参考にできること。

そして悪い点は、たどたどしい祈りのことばよりも、キリスト教用語で洗練された祈りが良いのだと誤解しやすいことです。

最初は人のまねでもいいのです。しかしいつまでも真似では、いつしか言葉は美しいが、自分の心が入っていない祈りを身につけてしまいます。

そしてそこに留まってしまうならば、祈りに喜びを見いだせないまま、祈りを形式的なものとしか考えられなくなってしまいます。

 「祈りは呼吸である」と、説教のはじめに言いました。

同じように、クリスチャンのあいだでは「みことばを毎日の食事にたとえることがあります。

そして呼吸と食事、このふたつをたとえてみると、私たちがいかに祈りをみことばよりも軽んじやすいかといことがわかります。

人は最初にお母さんのお乳から始め、やがて離乳食、そして普通の食事と変えていきます。

そしてゆくゆくはカロリーだとか栄養バランスを考えて、何を食べるかを学んでいくようになります。

しかし呼吸に関しては、栄養バランスとか考える人はいません。

まれに健康法として呼吸を深く学ぶ人もいますが、大多数の人は教えられなくても、ふつうに息をします。

だから危険なのです。

祈りがクリスチャンにとって呼吸であるということは、クリスチャン自身が祈りを誰にでもできることと軽んじてしまう危険があるということです。

しかしイエス様は、弟子たちに祈りを教えました。いつもこの主の祈りをお経のように唱えるということではありません。

この祈りを模範として、自分自身で祈りを作り上げていく、ということです。

祈りは神との交わりです。神と出会うためには、私たちもそれなりの備えが必要です。

決して美しい祈りをする必要はありません。人を感心させる祈りをする必要はありません。

至らない言葉でもよい、しかし自分を隠さずに、自分だけの言葉で、神と言葉を交わす、そのような祈りを私たちは心がけるべきです。

3.

 私たちの教会では、毎週水曜日の夜に祈祷会を開いています。

主婦やサラリーマン、家庭を持つ人が夜の一時間半、教会への移動時間を加えれば二、三時間、

その時間を一週間で取り分けるということは大変なことでしょう。

それは私自身もかつては勤め人でありましたから、わかっているつもりです。

そして牧師になった今でも、祈祷会の出席をクリスチャンの義務、と言うつもりはありません。

義務ではなく、私たちが本当に心から祈りを楽しむ場として、祈祷会が開かれています。

そのために私たちは祈りを学んでいかなければなりません。

礼拝の一時間だけ、そして数ヶ月に一回、献金奉仕が回ってくるときだけしか祈らないとすれば、いったい誰が祈りに喜びを感じるでしょうか。

私たちの教会は、祈りの家と呼ばれなければなりません。

そして祈祷会をなおざりにしている教会が、祈りの家を名乗ることはできません。

祈祷会は、私たちの信仰を成長させ、そしてしばしば独りよがりの信仰を矯正してくれます。

信仰生活の中で、神との交わりを愛することよりも、重荷感だけが増し加わってきた経験をしたことがないでしょうか。

自分のために祈るのでなく、お互いにお互いのために祈るために兄弟姉妹が集まってきます。嵐の夜も、雪の晩も。

礼拝を「霊とまこと」によってささげることが求められているのならば、祈祷会も生き生きとした神との交わりを目指すべきです。

ぜひひとり一人が、祈りを自分の呼吸としていきましょう。

より深く、より広く、より喜びにあふれて、歩んでいくために、今日の説教を心に刻みつけていただきたいと願います。