恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.3.8「みことばは誰がために」

 3.11が忘れられない日付になってから四度目になります。 教団から「東日本大震災から四年を迎えての私たちの祈り」が送付され、今日の礼拝の中で交唱しました。 ある被災者が「一番つらいのは忘れられていくこと」と言っていたことを思い出します。 言葉が浮かびませんが、ただ主の慰めと励ましがありますように。週報はこちらです。 聖書箇所 ルカの福音書4:14-30
 14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。 15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。  16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。 18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。  主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」 20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。 23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」 24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。 25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、 26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。 27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」 28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、 29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。 30 しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。
150308みことばは誰がために 序.  ある教会に、ひとりのご婦人がおりました。 礼拝の後には必ずその日の説教の感想を牧師に伝えてくれるのですが、ある欠点がありました。 それは、頑として説教を自分に適用しないということです。 ある週、牧師が伝道説教をしたときには、そのご婦人はこう言いました。 「先生、今日のお話はよかったです。今日お休みした求道者の○○さんに聞いてほしかったですね」。 次の週、牧師は夫婦関係について説教しました。 すると「先生、今日のお話もよかったです。家でごろごろしている主人に、ぜひとも聞かせてあげたいものですね」。 その次の週、牧師は用意した説教原稿をあえて鞄から出さず、ひたすらその婦人の目を見ながら説教しました。 礼拝後、さすがの彼女もしゅんとしてこう言いました。「先生、今日のお話ほど、説教が心に迫ってきたことはありません・・・」。 牧師がうなずきかけた瞬間、彼女はこう言いました。 「・・・まったく、イエス様を知らなかった頃の、若い時分の私にもっと早く聞かせてあげたかったですね」。 1.  私たちは、みことばが自分に向けて語られているということをいつも意識しなければなりません。 今日の聖書箇所は、あろうことか礼拝を通して、喜びが殺意に変わっていった姿が描かれています。 なぜナザレの人々は、さきほどまでほめていたイエス・キリストを、がけから突き落とそうとするところにまで豹変したのでしょうか。 すべての始まりは、みことばが自分に向けられていることを認めようとしなかったことにあります。 イエスは言われました。神がわたしを遣わされたのは、捕らわれ人を赦し、盲人の目を開かせ、虐げられている者を解放するためである、と。 彼らは、それをどこか遠い町の人々のように考えていました。 しかし捕らわれ人とは誰のことでしょうか。盲人とは誰のことでしょうか。虐げられている者とは誰のことでしょうか。 今、イエスの言葉を聞いているナザレの人々です。罪に捕らわれ、霊の目が閉じられている、ナザレの人々です。 でも彼らは、みことばをほめながら、自分たちは貧しくもないし、盲人でもないと考えていました。 彼らが求めていたものは、自分の心を突き刺すみことばではありません。 カペナウムで行われ、ナザレにも噂が流れてきた、イエスによる奇跡です。 しかしそのようなことを求める心に、たとえどのような神の言葉が語られても、生まれるのは悔い改めではなくて敵意だけです。  私たちは、神の言葉がどれだけ厳しいものであったとしても、それは自分に向けて語られているものなのだと認めましょう。 聖書に書かれている、もっともみじめな人間は私自身の姿であることを認めましょう。 イエスがいなければ私は何もできない、イエスに留まらなければ、私の生活は何も変わらない、と認めましょう。 信仰とは、イエスとその言葉にしがみつくことです。 神の言葉が自分の気に入れば受け入れ、そうでなければ忘れてしまうということであれば、信仰生活は浮き沈みの連続です。 どんな時も、変わりなく、聖書の言葉に依存する。それが信仰者の生き方です。 2.  神の言葉が建前やきれいごとのように見えてしまうときがあるかもしれません。 「聖書はこう言っていても、現実はそうはいかないよ」。そんなつぶやきを何度も聞いてきたし、かつては自分自身もそう考えたことがありました。 しかしナザレの人々が恵みの時間から転げ落ちていったのは、「この人は、ヨセフの子ではないか」というつぶやきからでした。  最初、人々はイエスの口から出て来る恵みの言葉に驚いていました。しかし彼らは、その恵みにとどまることができませんでした。 「こいつは、しょせんヨセフの息子ではないか」という思いがもたげてきたからです。 彼らは、このナザレで少年時代を過ごしたイエスを子供の頃から知っていました。成長して大工として働いていた頃のイエスを知っていました。 あいつは同じナザレ村の人間だ、立派な言葉もしょせんは飾りだよ。 彼らはイエスの言葉から目をそむけ、自分たちと同類に違いないという思い込みに逃げ込みました。 イエスから目を離してしまうときに、私たちは信仰の恵みから転げ落ちてしまうのです。  聖書の別の箇所に、こんな物語があります。 イエスが水の上を歩くという奇跡を行ったとき、弟子のひとりペテロは、「主よ、私に水の上を歩いてここまで来いと命じてください」と言いました。 それは、イエスの命令、つまり神の言葉への信頼の証しです。そしてイエスが来なさいというと、ペテロも水の上を歩いたのです。 しかしペテロは、イエスから目を離し、風や波を見て、恐ろしくなってしまいました。するとたちまち彼の体は水に沈み始めたのです。  ナザレの人々も同じです。 イエスとその言葉から目を離し、「ヨセフの子ではないか」という現実にとらわれたとき、彼らは恵みから転がり落ちていきました。 現実を見つめることが大事、と誰もが言います。しかしそれよりも大事なことは、神の言葉から目をそらさないことです。 たとえ現実がどんなに絶望的でも、イエスに従う者は恥を見ることがないと約束されています。みことばから目を離してはなりません。 週ごとの礼拝、祈祷会、自宅でのみことばの黙想、私たちが見つめるひとつ一つの神の言葉が、逆境の中でも生きていく力を与えるのです。 3.  最後に、私たちは「自分だけが特別だ」という高慢を捨てなければなりません。 高慢な信仰者は、こう言います。「神は私を愛している」。謙遜な信仰者は、さらにこう言います。「しかし私の隣人も愛している」。 高慢な信仰者は、こう言います。「イエスは、私のために命を捨ててくださった」。 謙遜な信仰者は、さらにこう言います。「しかし私の苦手なあの人のためにも、命を捨ててくださった」。 ナザレの人々がイエスへの殺意に燃えたのは、自分たちイスラエルだけが神の恵みを受け取る資格があると考えていたからです。 しかしイエスは言われました。 神はイスラエルだけの神ではない。事実、預言者たちが遣わされたのはイスラエルではなく異邦人のもとであった、と。  イスラエル人は、異邦人、つまり旧約聖書を知らない外国人を「犬」と呼び、見下していました。 しかし、じつはこのナザレの人々もまた、イスラエルの中心、エルサレムの人々からは異邦人との混血のように思われていたのです。 そのナザレの人々が、イエスが異邦人への恵みを口にしたときに激しい殺意にかられました。 それは、彼らは異邦人を自分たちよりさらに価値の低い者と信じ込むことで、自分たちがさげすまれていることを忘れようとしていたからです。  人間はなぜ高慢に陥るのでしょうか。それは劣等感を覆い隠すためです。 自分は特別な人間であると思い込むことで、社会的には特別でも何でもない、むしろ無視され、おとしめられている心の痛みをかわすのです。 宗教もその役目を果たすことがあります。 自分は神に愛された特別な人間だと思い込むことで、外側の不条理を一切変えないまま、現状維持をはかります。 キリスト教の「信仰」もそうなってしまうことがあるのです。確かに神は私のために死んでくださいました。 それは「しかし、あなたのためにも死んでくださった」という言葉へと続かないならば、それは偽りの信仰という殻に閉じこもるだけです。 異邦人をさげすんでいたナザレの人々がそうでした。ナザレの人々をさげすんでいたイスラエルの人々がそうでした。 結.  しかしイエスは、そのような無理な生き方から私たちを完全に解放するために来てくださったのです。 「自分だけが特別なんだ」という自己満足さえ溶けてしまうほどの圧倒的な神の愛。 幼稚園児が自分が買ってもらったおもちゃを他の子に貸すことをいやがるような、私たちが受けたのはそんな小さな愛ではありません。 自分の汚い思いがすべて溶けて流れていくような、圧倒的な救い! そしてこの恵みを人々に分かち合わないではいられないほどの喜び!それを私たちは受けたからこそ、救われたはずです。 イエス様がナザレの人々に、なぜあのみことばを語ったのか。 貧しい者、捕らわれた者、盲目の者、虐げられた者。彼らを完全に解放するために、イエス様は救い主として来てくださいました。 そして私たちのためにも。救われるべき、私たちの家族や友人のためにも。そして救われるべき、私の苦手とする人のためにも。