恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.1.18「力によらず、奇跡によらず」

 こんにちは。昨日2015.1.17は、阪神淡路大震災からちょうど20年ということで、様々なメディアで特集が組まれていました。 地震が起きて逃げるとき、大事なことは「ブレーカーの電源を落としてから逃げる」ことだそうです。 それによって、震災時の出火を相当減らすことができるということです。うろ覚えですが。 ただ、地震が起きたとき、そこまで余裕のある行動ができる人というのは、あまりいないような気がします。 というか、ブレーカーって、何であんな高い所にあるのでしょうか。脚立がどこにあるか、探すのが大変です。 週報はこちらです。 聖書箇所 マタイの福音書4:1-11
 1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。 3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」 7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」 8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」 11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
150118力によらず、奇跡によらず 1.  「悪魔の試みを受けるため」という言葉を聞いただけで、人々はぷっと吹き出すかもしれません。 「悪魔」?これこそ、聖書が迷信の寄せ集めである何よりの証拠ではないか、と。 しかしそう言う人々が想像している悪魔というのは、こんなものでしょう。 黒々とした翼を広げ、口は耳まで裂け、地獄の王座で神を出し抜くことを企てている・・・・それこそ、じつに迷信の寄せ集めです。 聖書はむしろ、悪魔について過剰な想像力をとどめてくれます。 悪魔はエデンの園で最初の女性エバを誘惑したこと。そしてやがては他の汚れた霊ともども、火と硫黄の池に投げ込まれること。 最も美しい天使だったとか、神に匹敵する力を持っていた、などということは聖書には書いてありません。(注) 今日の箇所には、悪魔の本質がこう記されています。「試みる者」と。 悪魔は、神の御手の中でしか働くことができない誘惑者、告発者でしかありません。  悪魔は、イエスが地上に来られた理由を知っていました。 十字架によって死と悪魔を滅ぼすために、いよいよイエスが活動を始められたことを知っていました。 誘惑の目的は、イエスを十字架から引き離すことです。 十字架とは何でしょうか。神の子イエスが、はかなき人の子として、罪の身代わりとなって殺されることです。 十字架とは、神の子イエスが、あえてその力を用いず、ひたすら無力、無抵抗な人の子として、全人類の罪のさばきを引き受けたということです。悪魔は、十字架の本質を知っているがゆえに、何とかイエスを十字架への道から引き離そうとします。 だから悪魔は、三つの誘惑を通して、イエスに神としての力を用いさせようとするのです。 石をパンに変えよ。頂から飛び降りよ。そして十字架などやめて、私を拝むことでこの世を手に入れよ、と。  しかし悪魔の最初の呼びかけ、「あなたが神の子なら」に対し、イエスは何と答えたでしょうか。 「人は」と答えたのです。イエスは神の子としての道ではなく、人としての道を選ばれました。 これがわからないと、聖書そのものがわかりません。 イエスが地上に来られた本当の目的は、神の力によって病気をいやしたり、悪霊を追い出したりすることではないのです。 神の力ではなく人の弱さに徹し、十字架に至るまで弱さと忍耐に徹したのです。 イエスは、悪魔の誘惑に対して、すべて力ではなく、聖書のことばによって退けました。 それは、同じように誘惑を受けている、私たちに対する模範です。聖書のことばを語るときに奇跡が起こって解決するのではない。 奇跡で解決しようとする近道を捨てて、聖書の言葉にしがみつくときに、本当の解決が起こるのです。 本当の解決は、あなたの周りを変えるのではなく、あなたの心の内側が変わることです。 家族が悪い、社会が悪い、時代が悪いではなくて、いかなる時でも決して神は変わることなく、私の信頼も変わることがないと信じることです。 2.  家族の問題。お金の問題。心の問題。健康の問題。 人は、自分の周りにある問題を解決するために、力を求めます。奇跡を求めます。 しかし必要なのは、力でも、奇跡でもありません。ただ神のことばです。神のことばは、生きています。 生きているとは、血が通っているということです。血が通っているとは、そこには親子の愛情のような信頼があるということです。 悪魔は、第二の誘惑の中でイエスにこう問いかけました。6節、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。 『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる」と書いてありますから」。 悪魔も、神のことばを知っています。そしてあろうことかそれを口にすることも恐れません。 しかし悪魔の引用する神のことばには、極めて本質的なものが抜け落ちています。 それは、神のことばとは愛なのだということです。 悪魔はイエスに、もし飛び降りても神が御使いによって助けてくれる、あなたは神の子なのだから、とささやきます。 しかしどこの世界に、子どもが飛び降りることを黙って見ている親がいるでしょうか。  悪魔の誘惑は、きまって神の愛を人間に疑わせるというものです。エデンの園でエバを誘惑したとき、蛇は彼女にこう言いました。 「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(創世記3:1)。 神さまがそんなけちくさいことを命じるはずがないよ、だって愛されているんでしょ、と悪魔はささやきます。 そしてエバは禁じられた木の実を食べ、それを夫アダムにも食べさせ、そこに罪と死が生まれました。 信仰とは、信頼です。私たちにいつも注がれている神の愛を、子どものように信じて疑わないことです。 それに対して、不信仰とは、人が神の愛を信じられなくなることです。第一の誘惑の中で、イエスは悪魔にこう言われました。 「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」。 「神の口から出る一つ一つのことば」!若いお母さんたちほど、この言葉を理解できる方々はいないでしょう。 たとえわが子がまだ言葉を話せないとしても、母の口から出るその語りかけ一つ一つが、どれほど子どもに安心と信頼を与えているか。 その母の情愛が、神のことばです。主は、私たちに力も奇跡も求めません。 ただ信仰、すなわち信頼が神のことばとともに語りかけられるとき、石はパンに変わらずとも、そこには確かな勝利があるのです。 3.  悪魔の目的は、イエス・キリストに力を使わせることでした。 石をパンに変えさせようとしたのもそう、神殿の頂から飛び降りさせることもそう、イエスに力を使わせることにありました。 しかしはじめにも申しましたように、十字架は、神としての力ではなく人としての弱さを徹底して貫くことです。 ヨハネからバプテスマを受けたときから、イエスの十字架への道は、すでに始まっていました。 その道を頓挫させようとする悪魔は、最後に直接的な手段に訴えます。 イエスにこの世のすべての国々とその栄華を見せて、こう持ちかけました。 9節、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」。 イエスよ、十字架は今私が捕らえている全人類を私から取り戻すことにあるのだろう。 ならば十字架という道を踏まなくても、今、私を拝め。 そうすれば、あなたにすべての国々、栄光、人々の命をすべて与えようではないか。  しかしイエスはたちどころにそのささやきを拒絶しました。「引き下がれ、サタン」と。 イエスは、父なる神を満足させるのは、十字架以外にないことを知っておられました。 ただ一度、私に頭を垂れるだけでよいのだという悪魔の提案をはっきりと拒まれました。 十字架への道は、常に苦しみの道です。 しかし苦しみなくして、決して神を喜ばせることはできません。 そしてイエスのことばと行動は、どんな時でも私たちが従うべき模範です。 信仰生活とは、苦しみから逃げるための道ではありません。 たとえ神を喜ばせるためにもっと楽な道があるよと囁かれても、苦しみを避けることはできません。 なぜならば、イエスを荒野へ導かれた御霊が、信者の中にも生きておられるからです。 十字架の苦しみから逃げなかったイエスが、私たちと共にいてくださるからです。  この世の人々にとって、信仰とは苦しみから逃れるためのものです。しかし本当の信仰は、苦しみを避けません。 イエスはその模範を私たちに示してくださいました。 十字架によって死と悪魔の力が奪われた今、悪魔は手負いの獅子のように死に物狂いで、教会とキリスト者に攻撃を加えています。 あらゆる誘惑の手を尽くし、私を拝めと強要してきます。しかしイエス・キリストの言葉を刻みつけましょう。 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」。  拝むということは、仕えるということです。神を拝む者は、神に仕えます。偶像を拝む者は、偶像に仕えます。 あなたをつくってくださった主を拝み、あなたを救ってくださる主にだけ仕えましょう。 イエスと同じ道を選び取る者に、悪魔はイエスに対する以上に誘惑の限りを尽くします。 そこには苦しみがあります。神への信頼がなければ、立ち続けることさえできません。 しかし天で受ける栄光の冠は、地上での苦しみを必ず経なければなりません。 苦しみを避けることなく、十字架へと向かっていかれたイエスと共に、私たちひとり一人も歩んでいきましょう。 (注)  新約聖書で「サタン」は35回、「悪魔」は34回言及される。旧約聖書では「サタン」は14回、「悪魔」の言及はない。旧約聖書におけるサタンは、ヨブ記に代表される、活動が制限された告発者であるが、新約聖書においても決してそこから逸脱していない。悪魔(サタン)の働きは神の完全な主権下にあり、聖書の世界観は善悪二元論(神と悪魔の拮抗)とまったく異なる。  「悪魔が元は天使長であった」というのは、おそらくイザヤ14章の「暁の子、明けの明星」(ヘブル語:ヘーレール・ベン・シャファル)がラテン語では「ルーシファ」と訳されたことによる誤解。イザヤ書の文脈は「暁の子」について、はっきりとバビロンの王を指している。  また『ユダの手紙』6節における言及「主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました」(cf.第二ペテロ2:4)も、悪魔(サタン)について一言も触れていないばかりか、誘惑者としての悪魔の活動と明らかに矛盾している。