恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2015.1.1「礼拝を思い起こすときに」

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。当教会では、午前11:00から「新年礼拝」をささげました。 プログラムはこちらをご覧ください。 聖書箇所 詩篇42篇
 1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。 4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。  私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに、神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。 5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。  神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 6 私の神よ。私のたましいは、私の前でうなだれています。  それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。 7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 8 昼には、【主】が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。 9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」 10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。 11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。  神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
150101礼拝を思い起こすときに 序.  新しい年の始まりにあたり、このようにして共にみことばを分かち合える恵みを感謝いたします。 今日私たちが与えられたみことばは、詩篇42篇です。 心疲れた人々の心に対して、水が染み渡るように入ってくる、みことばではないかと思います。 まず最初に、詩人はこのように訴えます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。 さらさらと水が流れている小川の前で、鹿がはあはあ喘ぎながらかわいい舌をちょろっと出して、ちろちろと水をなめている、 この言葉から、私たちはそんな光景を想像するのではないでしょうか。 しかし、じつはそんなイメージとはちょっと違うのですね。 新共同訳聖書では、最初の部分をこう訳しています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める」。 鹿がたどりついた谷川は、水が豊かに流れている川ではないのです。 そこには確かに川があったはず、しかしすでに涸れており、小さな水たまりが残っている程度の川の跡。 もしかしたらそれは泥水のたまっているところかもしれない。そんなイメージの「谷川」であるのです。 1.  もしかしたら昨年一年間、この鹿のような思いで一日一日を過ごされた方がいるかもしれません。 とにかく立ち止まらずに一歩でも進んでいく。そうすれば必ず希望がある。 そんなふうに自分を叱咤激励しながらも、しかし辿り着く所には自分が想像するような憩いの場所がない、心を休めるところがない。 願わくは私たちの教会がそんな休み場となりたい、でももしかしたらそのように休み場たり得ていないということもあったかもしれません。 しかしそれでも覚えて頂きたいのは、すべてに絶望した詩人が唯一、安らぎを思い出した光景は何であったかということです。 「喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに、神の家へとゆっくり歩いて行ったこと」。 この記憶は、何人(なんぴと)たりとも消すことができません。  私たちは、今日の礼拝を皮切りとして、この2015年も毎週、礼拝をささげていきます。 たとえ週の終わりに震災に襲われようが、説教者が天に召されようが、日曜礼拝は必ずささげられます。 集まる者がほとんどいなくても、説教者不在のまま、聖書朗読しかできなかったとしても、それでも日曜礼拝は必ずささげられます。 もしクリスチャンが、何があっても決して守らなければならないものは何かと問われたら、私はためらわずに答えるでしょう。 それは主日礼拝である、と。礼拝は、クリスチャンにとってすべてのすべてです。 礼拝を通して、キリスト者としての証しがなされます。礼拝を通して、子どもたちに対する教育がなされます。 礼拝を通して、求道者への伝道がなされます。礼拝を通して、問題を抱えている人々への励ましがなされます。 あらゆる点においてうちのめされていた詩人が、たましいの絶望の中で思い起こされたのが、神の家へゆっくりと歩いて行った日々でした。 私たちにとって礼拝へと向かっていくその一足一足が、確かな恵みへの約束なんだということを忘れないでいきましょう。 2.  最後に、この詩篇の中で繰り返し叫ばれている言葉に注目して、説教を終えたいと思います。 お気づきのことと思いますが、5節と11節の言葉がそれです。5節のほうをもう一度お読みします。 「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。 11節も、細かい言葉の違いはありますが、ほとんど同じ告白がなされています。「絶望の中でも、それでも神を待ち望め」と。 彼は自分の心に向かってこう叫びます。「わがたましいよ。もしお前が今絶望の極みにあったとしても、私はなおも神をほめたたえる」と。 精神が分裂しているということではありません。 たましいがくじけてしまうとき、心の皮を一枚めくると、そこよりもさらに深い所で、なおも神を慕い喘いでいる、たましいの深い所からの叫びです。  しかし注目したいのは、それぞれの直前に語られていることばのほうです。 つまり、5節の叫びの直前には、礼拝に向かっていった昔の記憶が思い起こされています。 一方で、11節の叫びの直前では、敵から一日中、「おまえの神はどこにいるのか」とそしられている、今の苦しみが描かれています。 じつはこれこそが、今日私が皆さんにおぼえていただきたいことです。 今日、あなたの周りには悩みがあり、あなたは人々から虐げられているような現実に囲まれているかもしれません。 しかし、初めて礼拝に来たときのことを思い出してください。あるいは、本当に礼拝が楽しみだった、そのような頃を思い出してください。 あるいは、今がその時だとすれば、決してこの恵みの記憶を自分の心から取り去らないでください。 私たちが、礼拝の喜びに留まり続けることがすべての鍵です。 そうすれば、たとえ今どんな悩みに取り込まれていたとしても、私たちはなおも望みがあります。 自分のたましいに向かって、「私はなおも神をほめたたえる」と語りかけることができるのです。 結.  私たちは、礼拝を通して神に出会い、礼拝を通して神に近づく者たちとして、礼拝を勝ち取ることを大切にしていきましょう。 私たちのような小さな教会では、名札を首からぶら下げていなくても、だれがだれであるかがわかります。 だから私たちは、本来礼拝での報告がなくても、その日だれが礼拝を休んでいるか、その日だれが新しく加わっているかがわかるはずです。 誰かが休んだなら、その人のためにとりなし、時には安否を気づかい、誰かが加えられたなら、自分から挨拶を交わし、祝福する。 今日のみことばから、もしそのような具体的な行動へと結びついていくならば、私の中には喜びがあります。 私たちの礼拝が、水のない谷川ではなく、むしろあらゆる人々を潤し、はぐくむ生ける水の川となることができるように、祈ります。