恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.11.2「祈りのチカラ」

週報はこちらです。

聖書箇所 使徒の働き12:5-17

 5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

 6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。

9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」

12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。

14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。

15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。

16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。

17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

20141102

序.

 教誨師という、刑務所を定期的に訪問し、受刑者に対する講話やカウンセリングなどを行う仕事をご存じでしょうか。

仏教の僧侶やキリスト教の牧師、神父がよくその仕事を担っています。ある受刑者が、親しくなった教誨師にこう言ったそうです。

先生、刑務所というところは、何度入っても慣れるということはありやせん」。

その方の言うところによると、何度入っても、最初の夜は不安で眠れなくなるのだ、ということでした。

残念ながらその真偽を確かめることはできないのですが、ただペテロに限っては、これが何度目かの投獄でしたが、よく眠れていたようです。

しかも翌日には、自分が引き出されて処刑されるというのに、彼は御使いにわき腹を叩かれるまでぐっすりと眠っていたことが描かれています。

 私はここで、詩篇にあるダビデの賛歌を思い出します。

私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから」(詩3:5)。

今、日本人の5人に一人は睡眠障害を抱えているそうです。60才以上の高齢者では、3人に一人が夜眠れずに苦しんでいると言います。

人の心は繊細で、絶え間ないストレスが睡眠にも悪い影響を与えています。

 しかし明日、処刑を控えていたペテロがあきれるほどによく眠っていたのはどうしてでしょうか。

それは彼の心に確かな平安があったからです。

今日、私たちは三つの点からその平安の秘密を学んでいきたいと願います。

1.教会は背後で祈っていた

 ペテロの心を平安で満たしていたのは、第一に、5節にあるように、教会が彼のために、神に熱心に祈り続けていたからでした。

祈りは、決して無力ではありません。「祈っていますよ」と相手に伝えなければ力を表せないような、人間的なものでもありません。

確かにペテロを牢から引き出したのは、人の力の及ばない、神の奇跡、御使いによる解放でした。

しかし忘れてはなりません。

牢から引き出したのは御使いでも、その御使いを天から引き出したのは、じつに聖徒たちの祈り以外の何物でもないのです。

 私たちの祈りには、力があります。それは、この祈りの源が、私たちの正しさによるのではないからです。

父なる神に向かって、主イエスの御名を通して祈るがゆえに、力があります。

そしてイエスは、あなたがたの願うところを何でも父に求めなさい、そうすれば必ず与えられますと約束してくださいました。

それゆえに、私たちは、どんなことであっても、大胆に、確信をもって、祈ることができるのです。

 豊栄の祈祷会は週ごとに名前が変わりますが、必ず名前を挙げて祈ることは共通しています。

阿賀野市民の救いを祈る、第二週の阿賀野祈祷会では、阿賀野市の住宅地図をひとり一人が開いて、世帯主の名前を挙げて祈ります。

教会に一度でも来た人の救いのために祈る第四週の救祷会では、10年前に一度だけ来た人であっても、名前を挙げて祈っています。

こんな祈りに意味があるのでしょうか。常識で考えれば、意味はありません。

しかし常識というフィルターを通せば、祈りそのものが自己満足でしかないのです。

 祈りは、神の奇跡を日常生活で体験することです。そこに必要なのは、常識ではなく信仰です。

祈りは、私たちが人間の言葉を紡ぎ出す行為ではありません。聖霊なる神が、深いうめきによって私たちの心に与えてくださるものです。

そして聖書は別の箇所で約束しています。

どんな小さな聖徒の祈りであっても、それはかぐわしき香のいけにえとして、天の神の前に立ち上っているのだ、と(黙5:8)。

2.ペテロへのみことば

 次に、ペテロの平安の第二の理由は、彼がイエス様に約束されたみことばにしがみついていたからです。

よみがえられたイエス様は、ペテロの最後についてこう伝えたと、福音書の中に書いてあります。

あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(ヨハネ21:18)。

 その後、教会の指導者として、いつも迫害と戦いながら歩んだペテロは、どんなときでも、この約束を目の前に置いていたのです。

この牢獄での夜もそうでした。しかしペテロには明日はまだ死ぬべき時ではないとわかっていたのです。

イエスが約束されたその時まで、まだ自分にはやらなければならないことがあり、その時間は神が用意してくださっている。

だからこそ、彼の心は平安に溢れ、この状況の中でも穏やかな眠りに身をゆだねることができました。

 私たちは、ペテロのように、遠い先の約束は与えられていないかもしれません。

しかし聖書を開くたびに、聖霊は心に働きかけ、今受けとった神のことばを今日の自分の生活にどう適用させていくかを教えてくださるのです。

私たちには明日のことはわかりません。しかし今日、神が聖書を通して何を私に願っているのかを、全身全霊をもって受け止めましょう。

そして自分に与えられた神の約束を、他の人々と分かち合いましょう。

神はひとり一人に特別な計画をお持ちです。だから同じ聖書の言葉から、違うご計画がそれぞれに語られます。

祈祷会や家庭集会への参加は、義務ではなく恵みです。暖かな交わりの中で、神様のことばを分かち合っていきましょう。

3.弱き者たちの祈り

 最後に、ペテロを解放した祈りのチカラは、信仰の勇者たちではなく、むしろ弱い者たちのものであったことに目を留めましょう。

人々はペテロが助け出されるために熱心に祈っていたにもかかわらず、実際にペテロが現れると、驚きふためきました。

「喜びのあまり」門を開けもしなかった女中ロダは許せる範囲でしょう。

ですが彼女の報告を「気が狂っている」と決めつけた他の人々は、信仰の喜劇を通り越して、不信仰の悲劇にさえ見えてきます。

しかし、神がこのような、信仰の弱い者たちの祈りを聞いてくださったということは、何という励ましでしょうか。

 阿賀野市の住宅地図を開いて祈る時、10年前の来会者の救いのために祈る時、

そして何十年も前から教会を離れている信徒の回復のために祈る時、私はしばしばむなしさを覚えることがあります。

このように名前を挙げて祈ることは、本当に意味のあることなのだろうか、と疑ってしまうことがあります。

しかし私たちの祈りの確信は、祈り手である私たちがどれだけ真実な者たちかによるのではありません。

ただイエス・キリストの真実さにより頼みながら、私たちは祈るのです。ただそこだけに、私たちの祈りの根拠があります。

 クリスチャンの誰もが、自分の家族の救いを祈っていると思います。

そして熱心に祈る一方で、今日もその家族に私は福音を証しすることができなかったと自分を責めながら、祈り続けているのかもしれません。

しかし私たちが上手に証しできたとか、相手がよく聞いてくれたとかによって祈りの確信が左右されるとしたら、それは嘘の祈りです。

聖霊のうめきによるものではなく、人間の情熱でしかありません。祈りは、ただイエス・キリストの真実さにより頼むものでなければなりません。

私たちは不安に駆られます。疑ってしまうことがあります。しかしイエス・キリストの恵みとまことは、決して変わることがありません。

イエス様に自分自身の重荷をゆだね、祈りのチカラを体験していく一週間といたしましょう。