恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.6.22「福音は違いを包み込む」

週報はこちらです。 聖書箇所 使徒の働き11:1-18
  1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。 2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、 3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。 4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。 5 「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。 6 その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。 7 そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』と言う声を聞きました。 8 しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。 9 すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。 10 こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。 11 すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。 12 そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。 13 その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。 14 その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。 15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。 16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。 17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」 18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
20140622 1.  私が牧師になるために仕事をやめ、千葉にある神学校へ入学したのは27歳の時でした。 約100人いる学生すべてがクリスチャンだと聞いていたのに、共同の冷蔵庫にプリンを入れておいたら、いつの間にか誰かに食べられていました。 よく見ると卵、キムチ、マーガリン、冷蔵庫に入っているすべてにマジックで名前が書いてある。 書いていないものは献品とみなされて食べられてしまうと教えられました。 神学校はエデンの園かと思っていたらサバイバルの世界だとわかり、純朴な新潟人にはただただ驚きでした。 ただ神学校生活が始まってもっと私が驚いたのは、何人かいた韓国人留学生との出会いでした。 毎朝、早天祈祷会があったのですが、まるでひとりで山に籠もっているかのように、ものすごく大きな声で祈るのです。 熱心というよりは、うるさい。うるさすぎて、こちらが祈れない。そう考えていたのは私だけではなかったようで、 「韓国人留学生だけ、体育館で早天祈祷会を持ったらどうか」という案も浮上したことがありました。 ただ彼らと三年も一緒に過ごしていると、いつのまにか自分の祈る声も大きくなるのですね。 祈祷会でも私は迷惑をかけないように壁のほうを向いて祈るようにしているのですが、声が跳ね返って逆にうるさいと妻に言われています。  以前、20分の説教演習で一時間も語ってしまった韓国人神学生が、「韓国では説教は長い方が喜ばれます」と答えたと話しました。 祈りのスタイルも国によって違うし、説教スタイルも国によって違います。日本では、礼拝説教の時には子どもも静かに、というのが常識です。 しかしアメリカの黒人教会では、説教中に会衆がかけ声をかけたり、説教者が会衆の一人と問答を始めたりと、日本人が面食らいます。 100個の国があれば、100個の違った教会のかたちがあります。そしてこの違いこそが教会の持っている力のひとつです。 神はエルサレムにある教会と同じような考え、同じようなかたちの教会を世界中に生み出していくという道は選ばれませんでした。 教会の土台は一つです。イエス・キリスト、十字架、復活というみことばに示された真理です。 しかしその土台の上に何を建てていくか、聖霊はそれぞれの国の人々にゆだねてくださいました。 その大変重要な分かれ道、分水嶺となったのが、今日の聖書箇所のできごとです。 神様はユダヤ人ペテロと、異邦人コルネリオ双方に幻を与え、両者を出合わせ、そして救いをもたらしてくださいました。 このことはすばらしいことだと、私たちは考えるでしょう。 しかしエルサレム教会の信者たちは、彼らが守ってきた、異邦人と食事をしてはならないという戒めをペテロが破った、と非難したのです。 2.  しかし見落としてほしくないのは、これは教会の一部の冷たい人たちの発言ではない、ということです。 なぜならペテロでさえも、幻が示されるまでは、彼らと同じように異邦人と関わるべきではないと考えていたからです。 しかし神は、ペテロを変え、教会を変えてくださいました。ペテロは順番を追って、自分に起きたことを忠実に報告していきます。 あらゆる汚れた動物に溢れた、入れ物が天から降ってきた幻。 コルネリオにも幻が与えられ、使者たちが訪問してきた、神のご計画。 みことばを語っているときに、ペンテコステの時と同じように異邦人にも聖霊が注がれた奇跡。 そしてイエスが天へ昇られる前に弟子たちに語られたみことば。 ひとつひとつのその証しを通して、非難していた人々は沈黙し、そして賛美へ変わりました。 「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、みなが神をほめたたえたのです。  神がエルサレム教会に教えようとされたことは、何でしょうか。 それは、福音はユダヤ人と異邦人、それぞれの歴史、文化、社会を包み込んで働く神の力であるということです。 大事なのは、イエスが私のために十字架で死なれ、よみがえったくださったという事実です。 この方を信じるならば、誰であっても、罪の赦しと永遠の命が与えられる、という確信です。 それ以外にも信仰生活の中で大切なことはあるでしょう。でも信仰の根幹部分ではありません。 あるクリスチャンは、どんな病でも熱心に求めることでいやされる、と信じています。 しかしあるクリスチャンは、自分の病がいやされることよりも、その闘病生活を通して、同じ病の人々が励まされるようにと願っています。 どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのでしょうか。 白黒つける必要はありません。どちらも正しいのです。 それぞれが、神に与えられた自分自身の確信として、その希望をつかみ続けるべきです。 でも自分とは考え方が違うからといって、一方が他方をさばいてはなりません。 このような事柄は信仰の枝葉の部分です。 その人の信じるのがどちらであったとしても、神のみこころは、それぞれがお互いの違いを認めていくことです。 3.  日本に観光に来た外国人が、一番訪れる観光地はどこでしょうか。 近年は広島の原爆ドームも人気があるそうですが、常に上位に食い込むのは京都です。 京都に何を見に行くのでしょうか。古くからの町並みならば、他の都市にもたくさんあります。 しかし京都に集中しているのは、言うまでもなく仏像です。クリスチャンじゃない外国人だけが京都に行くなどと考える必要はありません。 クリスチャンであろうが、そうでなかろうが、仏像の芸術性や歴史的価値を認めているのです。 それに対して、日本のクリスチャンは仏像と聞いただけで偶像、偶像に興味を持ったら偶像礼拝と考える人が多いのです。 それは日本の教会だけで通用する発想です。福音というのは、もっとおおらかで自由なのです。 キリストの十字架がその土台にあるならば、その上にあるものはそれぞれの国の文化に根ざしたものでよいのです。 異邦人はエルサレム教会のまねをする必要はありません。エルサレム教会も異邦人のやり方をまねる必要はありません。 日本の教会はアメリカの教会の影響を受けてはいますが、それをコピーする必要はありません。 韓国人の叫ぶような祈りは神様に確かに届いているでしょう。 しかし日本のクリスチャンがささやくような、しかし心からの祈りも、確かに神は聞いておられます。 大切なのは二階部分ではなく土台です。 イエス・キリストが私のために命を捨ててくださった。私は罪赦されて、神の子とされた。 この福音の本質が、全世界のあらゆる教会の土台であるがゆえに、言葉が通じなくてもあらゆるクリスチャンは一つとされています。 私たちは、イエス・キリストによって救われました。救われた、というこの言葉が意味しているのは何でしょうか。 「あなたは、未来永劫、何があろうが、イエス・キリストによって傷のない、神の宝物であり続ける」ということです。 そのとっておきの輝きを、信仰生活における枝葉にすぎない事柄で傷つけ合ってはなりません。 私たちは、枝葉の部分でお互いにさばき合うために救われたのではなく、土台のところで一つとされるために救われたのです。 エルサレム教会では、この後もたびたび、異邦人の生活スタイルとの確執が起きてきます。 しかしそのたびに、教会は恵みの原点に立ち戻って、歩み出していきました。 私たちも、十字架によって一つとされていることを感謝しながら、違いを受け入れるものでありたいと願います。