1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 2 そこでアブラムは申し上げた。 「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。 4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。 「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」 さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。20140615 序. 1985年に起きた、日航機墜落事故で亡くなられた方々の中に、歌手、坂本九さんがおられました。 「九ちゃん」の愛称でみんなに慕われ、亡くなってすでに30年近く経ちますが、今もその歌は世代を越えて口ずさまれています。 九ちゃんの代表曲と聞かれると「上を向いて歩こう」を挙げる人が多いのですが、もうひとつ、「見上げてごらん夜の星を」という歌も外せません。 この歌の中にこういうフレーズがあります。「見上げてごらん夜の星を。ぼくらのように名もない星が/ささやかな幸せを祈ってる」。 作詞したのは永六輔氏、これはこれでとても優しい言葉ではあるのですが、聖書のことばはこれ以上に私たちに優しく語りかけています。 今日の招きの言葉として語られた、詩篇147篇4節をもう一度お読みします。「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」。 私たちも夜の星を見上げてみましょう。満天の星空に、数え切れない星々が瞬いているのを見るでしょう。 しかし聖書は言います、その無数の星々の一つ残らず、神が作られ、神に数えられ、そして名前がつけられている、と。 「ぼくらのように名もない星」というフレーズは、センチメンタルではありますが、しかし神は言われます。 わたしはすべての星を数え、すべての星に名をつける。 ましてやあなたを数えていないことがあるだろうか、あなたの名を呼び続けないことがあるだろうか、と。 1. 神は、アブラムというひとりの人に目をとめて、彼の父となり、友となられました。そして彼に優しくこう語りかけました。 「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である、あなたの受ける報いは非常に大きい」。 しかしその約束に対するアブラムの言葉は、感謝よりもむしろ辛辣な響きさえ漂わせています。 「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません」。 彼の言葉は、まるで神に食ってかかっているかのようです。少し言葉を加えてみるとこうなるでしょう。 「神様、あなたは私に大きな報いを与えると言われますが、いったい何を与えるというのですか。 富ですか。名声ですか。子どもがいなければ、そんなものは私が死んでしまえば人のものになってしまうではありませんか。 あなたは私を大いなる国民にすると約束してくださいましたよね。でもいまだに私たち夫婦には子供が与えられていないのです」。 この時のアブラムは、はたから見れば順風満帆な人生と見られていました。 数え切れないほどの家畜を持ち、多くの使用人を雇い、その名声は遠い国々にも知れ渡っていました。 しかし神は、そんなアブラムに「恐れてはならない」と真っ先に語られました。 それは彼の中に恐れがあったからです。妻にも、使用人にも、誰の前でも言い表すことのできない、恐れがあったのです。 なぜ自分には、子供が与えられないのか。いつまで待たなければならないのか。 神は、そんなアブラムの恐れをご存じでした。 誰もが信仰の巨人とほめそやすアブラムをただひとり理解しておられた方、それが神、その名が主であるお方でした。 アブラムは、自分の心からわき起こる恐れ、あせり、不安を神にぶつけます。打ち明けたのではなく、文字通りぶつけています。 しかし神は、決してアブラムの態度を責めていません。むしろ逆です。 ダマスコのエリエゼルか、それとも私の奴隷の子か、とまくし立てるアブラムの言葉を正面から受け止め、真剣に答えておられます。 まるでだだっ子を受け止める母のように、あるいは愚痴に耳を傾ける友人のように。 2. はじめに触れた、坂本九さんが「上を向いて歩こう」で大スターへ駆け上ったのは、彼が二十歳のときでした。 日本だけでなく世界中に名前が知られるようになった九さんは、1970年の大阪万博の実行委員にも選ばれました。 どんなときでも、屈託のない笑顔を浮かべていた「九ちゃん」。 しかし万博を通して知り合った芸術家、故岡本太郎氏には、抱えているプレッシャーを泣きながら語ったそうです。 国民的スターとして決して人前で漏らすことのできない苦しみも、畑の違う岡本氏には打ち明けられたのかもしれません。 そしてもしあなたにそんな友がいなくても、神は私たちの友となって、あらゆる苦しみに耳を傾けてくださるお方なのです。 あらゆる思い煩いを神に吐き出すことは不信仰でしょうか。いいえ、神はそれを嫌がるどころか、求めておられます。 新約聖書の中には、こういう言葉があります。 「あなたがたの思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(第一ペテロ5:7)。 これが、私たちクリスチャンが持っている信仰です。 ただ願いを叶えてくれる神様ならば、仏教、神道、新宗教、新興宗教、いくらでもあります。 もちろんそれらすべて、本当の神ではありません。しかしどの宗教も、うちこそ本物と言いますから、これは不毛な議論です。 私たちは「うちこそ本物」ではなく、むしろこう伝えるべきでしょう。 「私たちの神は願いを叶えて終わりではありません。私たちの友となってくださり、命のやりとりをしてくださるお方です。 私たちが罪でさばかれることを悲しみ、身代わりになって十字架にかかり、よみがえられたお方です。 命を捨ててくださったほどに、私の友となることを恥となさらないお方なのです」と。 3. 最後に、5節、6節をお読みします。 「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」 さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」。彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。 神はアブラムの友となってくださいました。友の言葉は、皮肉めいているけれど、でもどこか暖かい。 「星を数えることができるなら、それを数えなさい」。そんなこと、できるわけがない!アブラムは星を数えることもなく、ただ立ち尽くします。 すべての星を作られた神の無限、そして星の数を一生かかっても数え切ることのできない、人間の有限を感じながら。 そんなアブラムに、神は一言、優しく語りかけました。「あなたの子孫はこのようになる」。 あなたが出口の見えない人生迷路で悩む時も、わたしはあなたを見つめている。あなたの愚痴にどこまでもつきあおう。 そしてその愚痴も尽き果てたとき、ただ一言、あなたにこう言おう。「でも、私はあなたに大きな報いを用意しているんだよ」と。 その約束を信じるか、信じないか。それが私たちの人生の分かれ道です。 聖書は言います。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。 自分はちっぽけな罪人にすぎないことを認めてください。それはあなたにとって敗北宣言ではありません。 こんな私のために、十字架で身代わりに死んでくださった方がおられるのだ、という勝利宣言です。 世界のすべてがあなたに敵対しても、この方だけはあなたの友になってくださいます。 その友の名は、神である主、永遠のいのちを与える救い主、イエス・キリストです。 苦しいとき、不安なとき、悲しいとき、天を見上げましょう。 名もなき星を見るためではなく、あなたの名前をあげて祝福してくださる神を仰ぐために。
2014.6.15「見上げてごらん」
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聖書箇所 創世記15:1-6