恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.4.27「時と絆」

今日は、放送伝道をおぼえる「ライフ・ラインDay礼拝」でした。

礼拝の中で福音歌手の森祐理さんの被災地支援コンサートのDVD(「ライフ・ライン」2013.10.27放映)を上映しました。

著作権がありますので、その部分のアップロードは控えさせていただきます。

週報はこちらです。

聖書箇所 伝道者の書3:1-8

 1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。

4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

20140427

森さんは、あの3.11から三年間、全国各地でコンサートを行いながら、被災した方々の慰めを訴えてきました。

本人の証しの中にもありましが、その原体験は20年前の阪神淡路大震災であったといいます。

その震災で、森さんは弟さんを失いました。彼女は、ある本の中で、こう書いています。

弟を失ったとき、父と母の様子はまるで対照的であった。

母は、悲しみを抑えることができず、周囲の目をはばかることなく泣き叫んでいだ。

だが父は、涙を決して流すことなく、ただ黙って耐え続けた、と。

そして森さんはこう言っておられます。「母は思いっきり涙を流し、比較的早く弟の死を受け入れ、進むことができた。

だが父は、涙を流さなかったぶん、心の傷の回復は母よりもずっと時間が必要だった」と。

(聖書と精神医療研究会編『喪失が希望に変わるとき』いのちのことば社、2007年、p.19-22要約)

今、ご覧いただいたDVDの中で、仮設住宅の人々について語った森さんのことばが印象的です。

「前にここでコンサートをさせていただいたときには、まだみなさんが涙を流すことができなかった。

だが今回、同じ仮設住宅を訪れて、ようやくみなさんが悲しみの涙を出すことができたようだ」と。

息子を失った悲しみを表すことができなかったお父様と、すべてを失った悲しみのゆえに涙も流せなかった仮設の人々。

「悲しむことができるまで、祈りつつ待ち続ける」。それが、森さんが行ってきたことでした。

東日本大震災の後、「絆」という言葉がしばしば人々の口にのぼりました。

当時のある新聞のコラムに、こんなことが書いてありました。

「絆」ということばは、かなで書くと3文字、漢字で書くと11画。3.11にふさわしい言葉ではないか、と。

しかし私は、むしろ「絆」という漢字が、いとへんに「半分の半」に似た文字を組み合わせていることのほうが気になります。

私たちは、被災地の人々が苦しんでいるだろうと考え、「絆」という言葉を何気なく口にします。

でも被災した人々からしたら、悲しむことさえできない、涙を流すことさえままならない中にいたのです。

絆という文字の中に「半分の半」が入っているのは、じつは私たちが得意げに語る「絆」の不完全さを表しているように思えてなりません。

私たちを「絆」「絆」と口にしながら、その絆の一方の端をつかんで、さあ、もう一方の端をつかみなさいと呼びかけます。

被災地の人々は、こんな大変な生活をしているはず。こんな必要をおぼえているはず。こんな悲しみを持っているはず。

しかしそれは自己満足にすぎないのかもしれません。本当にうちしおれた人は、悲しむことさえままならないのです。

悲しみを悲しみとして受け止めるにも、時が必要です。

しかしたとえどれだけ時間がかかっても、神様はそのときまで待ってくださいます。

そして、悲しみは必ず慰められます。苦しみは必ずいやされます。

時間ではなく、神がいやしてくださるのです。神が慰めてくださるのです。神ご自身が涙をふいてくださるのです。

そして、神によって慰められた者は、同じような悲しみの中にある人を慰めることができます。

その意味で、この『ライフ・ライン』という番組は、とても大切な伝道の働きです。

私たちは悲しんでいる人を慰めたいと願います。しかし慰めを押しつけることはできません。

相手が心を開いていないのに、心を強引に開かせることはできません。でも、この番組にはそれができるのです。

私たちが伝えたいイエス・キリストの福音を、「ライフ・ライン」はごく自然な形で、届けています。

私たちが語れば宗教くさいと言われて敬遠されるようなことでも、この番組は感動と共に、見る人々に届けてくれます。

この番組を新潟で放送し続けるために祈り、ささげていくこと、

それは開拓教会や宣教師のために祈り、ささげるのと同じくらい、大切な務めです。

最後に、具体的な数字をあげて、「ライフ・ライン」を支援する働きを説明させていただきます。

この「ライフ・ライン」の放送が新潟で始まったのは、1998年4月、つまり今から16年前のことです。

視聴率は、多いときは1%を超えることもありますが、だいたいは「0.(れいてん)」の後に何かの数字がつく程度です。

この視聴率で16年間、放送を続けてきたということを教会以外の方に話すと、たいていこんな反応を示します。

「視聴率1%以下で、、十何年もやってきたんですか?よくBSNが番組を打ち切りませんね」。

そこで私もこう答えます。「もちろん打ち切りませんよ。だって、うちの教会がスポンサーなんですから」。

少し見栄を張りすぎましたが、確かにこの番組のスポンサーは、私たちの教会も加盟している「新潟福音放送協力会」という団体です。

「ライフ・ライン」を一ヶ月放送するのに約60万円かかります。その他諸経費を含めると、年間で約800万円必要です。

「新潟福音放送協力会」に加わっている33の支援教会の信徒数を合計すると、約1000人くらいです。

その1000人のクリスチャンが一月500円を「ライフ・ライン」のためにささげていけば、放送を継続、拡充していくことができます。

私たちの教会は、約30人のクリスチャンがいます。そのひとり一人が、月500円をささげていくならば、それはひとつの伝道です。

ひとり一人がスポンサーなのです。スポンサーであるだけでなく、ミッショナリー、宣教師です。

どうか、ひとり一人が今日の礼拝から、この福音放送のために自分もささげ、宣べ伝えていく者になろうではありませんか。