28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。20140413 序. 豊栄の教会では月に一回聖餐礼拝が行われており、今月は先週がそれでした。 司式者と会衆が交互に朗読するみことばの中に、こういう言葉があるのをみなさん覚えておられることでしょう。 「そしてイエスは杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、 今から神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません』」(ルカ22:17、18)。 イエス様はなぜ「ぶどう酒」と言わずに「ぶどうの実で造った物」という表現をされたのでしょうか。 1. その答えは、この最後の晩餐の席でイエス様は、十字架を見つめておられたということです。 じつは十字架刑では、十字架につけられた犯罪人に「ぶどうの実で造った物」が与えられることがありました。 それがいわゆる「酸いぶどう酒」、まだ十分に発酵していないぶどう酒です。これは鎮痛剤のような効果がありました。 以前、十字架刑が数日間にわたってひたすら犯罪人を苦しませる最悪の刑罰だと話したことがあります。 一日でも長く、一秒でも長く十字架で苦しませるために、あえて痛みを少し和らげる酸いぶどう酒を飲ませることがありました。 しかし別の十字架記事では、イエス様は酸いぶどう酒を差し出されても、飲もうとしなかったとあります(マタ27:34,48)。 「今から神の国が来る時までは、わたしはぶどうの実で造った物を飲むことはありません」。 それは、十字架の苦しみを決して酸いぶどう酒で和らげることなどしないという、イエス様の決意です。 十字架の苦しみは、すべての人間の罪のさばきの身代わり。自分しかそのさばきを担える者はいないのだ、と。 釘でえぐられる手足の傷。そこからからだがメリメリと裂かれていく痛み。 その一つひとつがあらゆる者たちの罪の身代わり。わたしはそれをなめつくすのだ、と。 2. しかしだとすると、今日の30節のことばは矛盾しているのでしょうか。 あらゆる苦しみをなめて十字架をまっとうすることを決意されたはずなのに、兵士たちが差し出した「酸いぶどう酒を受けられた」とあります。 しかし矛盾ではありません。 「神の国が来るときまでは飲むことはない」と言われたイエス様が、なぜここで酸いぶどう酒を飲まれたのか。 答えはひとつです。このとき、神の国が来ていたのです。イエス様は、十字架の上で祝杯を挙げられたのです。 手足は十字架に釘付けにされ、頭は茨の冠で血にまみれ、からだを引き裂く痛みに襲われながら、しかしイエス様は祝杯を挙げられました。 今、神の国が来たのです。すべての人の罪が自らの苦しみによって贖われたことを確信したのです。 酸いぶどう酒が浸された海綿のしたたりを唇で受け取られたイエス様は「乾杯!」の代わりにこう叫びました。「完了した」と。 この「完了した」と訳されているギリシャ語(tetelestai)は特別な言葉です。ただ終わったという意味ではありません。 日本語だと説明が困難ですが、「終わり続ける」という意味です。これは私たちが日常生活で経験する「終わった」とまったく違います。 たとえば小学生がたくさんの宿題を出されて、帰宅してからずっとそれにかかりっきり、最後にこう叫びます。「あー、やっと終わった」と。 でも明日はもっとたくさんの宿題が出されるかもしれません。彼の「終わった」は今だけ終わった、という一時的なものです。 しかしイエス様が叫ばれた「tetelestai(完了した)」は究極的な「終わった」です。もう二度と宿題に苦しめられることはないのです。 宿題ではなく負債、つまり借金にたとえてみましょう。 イエス様のたとえ話の中には、王様から一万タラントの借金を免除してもらった人が出てきます。 彼は、一生どころか何千年働いても返しきれない額の借金を免除してもらいました。 しかし彼は、自分も仲間にわずかな金を貸していたことを思い出し、返済猶予を願った仲間を牢に投げ込みました。 それを知った王様も、先の借金の免除を取り消し、一万タラント返すまで牢へと投げ込んだ、という話です(マタ18:23-34)。 しかしイエス様が十字架の上で叫ばれた「Tetelestai(完了した)」はこれと違います。 一万タラントの免除が取り消されることはありません。終わったことは、何があっても、二度と蒸し返されることはありません。 完全に終わったのです。終わり続けるのです。 3. 私たちは、まさにこのたとえ話に出てくる、おろかであわれみに欠けた男そのものです。 私たちの罪は一万タラントよりもはるかに大きく、決して返し切れるものではありません。 だからイエス・キリストが私たちのすべての罪を背負い、身代わりになってくださいました。 それなのに、救われてすぐにそのことを忘れ、他人のあらを探し、つつき、さばいてしまいます。 しかしかの男と違うのは、それでも私たちに与えられた救いは、取り去られることがないということです。 イエスが私のために死んでくださった、と信じるとき、私たちが神に負っているすべての借用証は帳消しにされます。 ただ帳消しにされるのではなく、借用証の綴り、印鑑、ペン、将来の借金に必要なものも一切放棄してくださいます。 過去に犯した罪も、現在犯している罪も、将来に犯すかもしれない罪も、あらゆる罪のさばきが「完了した」のです。 イエス・キリストは神のひとり子です。神のひとり子が、父なる神にのろわれる者となって十字架で死んでくださいました。 その完全ないけにえが、あらゆる罪のさばきを未来永劫、完了させたのです。 私たちは救われた後も、罪を犯し続けます。自ら望んで罪を犯すことはなくなっても、それでも罪を犯してしまうということがあります。 しかしイエスの完全な犠牲は、すべてを終わらせたのです。何があっても、決して取り去られることはありません。 そしてこの完全な犠牲に私たちが付け加えるものも、何もないのです。 ただ私たちにできることは、すべてを終わらせてくださったイエス・キリストを信じることだけです。 かつてアレクサンダー・ウッテン(Alexander Wooten)という、少し風変わりな大衆伝道者がおりました。 ある男性が突然、彼を訪問しました。この男性も少し変わり者で、あいさつもそこそこに、開口一番、ウッテンにこう質問しました。 「救われるために、おれは何をしなければならないんだい」。 突然の来訪者にウッテンは機嫌を損ねたのか、彼に一言、こう答えました。「It's too late!」 日本語に訳すと、「遅すぎる!」という意味です。そしてバタンとドアを閉めてしまいました。 しかし男性もそこで引き下がるわけにはいきません。何度もドアを叩いて、こう叫びました。 「おれは救われるには遅すぎるってどういう意味だよ」。そして涙声で問いかけました。「おれにできることは何もないのかよ」。 するとウッテンが扉を開きました。「だから遅すぎるんだってば(Too late!)」。そしてこう続けました。 「あなたが来る前に、もうイエス様が全部やってくれたの。あなたにできることは、何かするんじゃなくて、ただ信じることだけなんだよ」。
(出典:W.Wiersbe、"The Bible Exposition Commentary vol.1"、p.384)
結.
「完了した」。
それは救いを求める人間が考えつく、あらゆることはすべてイエス様がやってくださったということです。
「救われるためには何をしなければなりませんか」。この問いに対して、日本人は「お天道様の下を歩く」という言葉で答えます。
つまり救われるためには、自分にも他人にも恥じることのない、誠実な生き方を心がける・・・・でも私たちは罪人です。
まっすぐ歩いていると本人は信じていても、神様から見たらどうひいき目に見ても曲がっているのです。
だから救われるために必要なこと。それは自分が何か正しいことをするということではありません。
イエス様が、完全ないけにえとしてご自分をささげてくださって、父なる神を満足させてくださったということを信じることです。
私は何もできない。私は間違える。私は罪を犯す。でもイエス様が、私の代わりにすべてを完了してくださった。
どうか受難週のきょう、イエス様が十字架で成し遂げてくださったのは、私のためなのだ、私を救うためなのだと信じてください。