恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.4.6「まことの潤し」

週報はこちら 聖書箇所 ヨハネ19:28
 28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
20140406    私が中学生の時のことですが、レントゲン検査で左胸に「かげ」が見つかり、それを取り除く手術をしました。発見が早かったこともあり、手術は無事に終わりました。麻酔から覚めて、最初に感じたのは傷の痛みよりも、ひどくのどが渇くということでした。病室で付き添ってくれていた母親に、水が飲みたいと伝えました。しかし明日までは飲めないんだよ、と言われました。飲めないとなると余計渇きが止まらない。そこで母親が綿に水を含ませて、それを唇につけてくれました。そのときほど、綿にしみこんだだけの水がありがたいと思ったことはありません。その頃の私は、聖書とはまったく無縁の者でしたが、「わたしは渇く」というこのイエスの言葉を読み返すたびに、あのときの喉がひりつくような感覚を思い出すことがあります。  私だけでなく、みなさんも今までの人生の中で、すさまじく渇きをおぼえるという経験をしたことがあるでしょう。イエス様が「わたしは渇く」と口にされたのは、まさに人として、私たちと同じ弱い肉体を持った者として、私たちが受けるべき罪のさばき、十字架の苦しみを引き受けてくださったことに他なりません。もしあなたが、自分の苦しみを誰にもわかってもらえないと考えてしまうなら、「わたしは渇く」と口にしてくださったイエス様を見上げましょう。私の苦しみを、私と同じ弱さを抱えながら、共に背負ってくださる方を見つめましょう。  しかしさらに大事なことがあります。イエスが言われた「わたしは渇く」とは、肉体の苦しみだけを指しているのではないということです。聖書はこう記しています。「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」と。からだが渇きにあえいでいるからこう言われたのではなく、「聖書が成就するために」言われたのだというのです。これはどういう意味でしょうか。みなさんが聖書、つまりここで言う旧約聖書を全部読めばわかります。旧約聖書には、数え切れないほどの人々が、いかにたましいの飢え渇きをおぼえていたかが書いてあるからです。とくに旧約聖書の詩篇に納められている、ダビデのことばを聞けば、彼がどれだけたましいの渇きを感じながら生きていたのかがわかります。いくつか引用してみます。
「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」(詩42:2) 「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(詩63:1) 「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」(詩69:3)
ダビデのこれらの詩は教えています。すべての人間にとって、本当の渇きとは何なのかということを。それは、神に飢え渇いているということなのです。人間は、ひとりの例外なく、神によって造られたものです。ある人々が考えているような、偶然の結果として発生したもののなれの果てでは決してありません。ひとり一人の創造者は神であり、だからこそその人生の責任者は神ご自身です。神が特別の計画をもって私たちをこの世へと生み出してくださったのです。  しかしすべての人間は、神に造られた者であると同時に、罪を背負って生まれてきます。最初の祖先であるアダムとエバの罪を引き継いで、生まれてくるからです。アダムとエバは神に造られた者でしたが罪を犯し、神の御声を避けて、神の御前から逃げ出しました。それ以来、すべての人間は神の前から逃げ続けています。そして同時に、渇き続けているのです。その渇きは肉の渇きではありません。霊の渇きであり、たましいの渇きです。泣き叫びながら生まれてくるあらゆる人間は、その後も生涯にわたって涙を流し続けます。なぜ悲しいのか、なぜ心がふさぐのかわからないまま、それでも生きていきます。神によって造られた者は、神のもとに戻る以外に、たましいの渇きを満たすことはできません。しかし生まれつきの人間には神がわかりません。だからこの渇きの理由が何なのか、どうしたらこの渇きを癒やすことができるのかがわからないのです。  その結果、あらゆる人間は一生をかけてそれぞれの偶像を拝み続けます。たましいの深いところではまことの神との出会いによって心の渇きをいやしたいと願っています。しかし知性が罪によって盲目とされているがゆえに、まことの神の代わりに「神っぽい」もので渇きをいやそうとするのです。ある人々は、木や石や珍しい動物を神に祭り上げ、それを拝むことで渇きをごまかしています。また富や名声や様々な欲望を人生の目標とすることで、渇きをいやそうとする人もいます。しかし、たとえその「神っぽい」ものが信念や愛情のように正しく見えるものであったとしても、それは神ではないのです。私たちの渇きを完全にいやしてくれるものではないのです。むしろ神から遠ざける結果となっています。  この世には、本当の渇きをごまかして、先延ばしさせてしまう、偽りの水があふれています。それが先ほど話した、「神っぽい」もの。神のように見えます。正しいもののように見えます。しかしどんなに似ててもそれは本物ではありません。だから人々は渇き続け、ごまかされ続けます。私たちの渇きを本当にいやしてくれるのは、まことの神に近づくしかありません。ダビデの叫びにもう一度耳を傾けてください。 「私のたましいは、生ける神を求めて、渇いています」。「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」。 ダビデは気づいていました。彼が手に入れた、王としての地位、勇者としての名声、イスラエル王国が勝ち得たすべての富、それらは彼の渇きを永遠に満たしてくれるものではない、ということを。しかし多くの人々は気づきません。この世にはびこる、束の間の喜びや、はかない楽しみでたましいの渇きをごまかし、ダビデのように神のもとへ出て行こうとしないのです。そこから自分を変えていく鍵はどこにあるのでしょうか。  それは十字架の上にあります。今日の聖書箇所にもう一度目を留めてみてください。このように書いてあります。「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」と。「すべてのことが完了した」、それはダビデのようにたましいの渇きを自覚していても、不完全な方法でしか神に近づくことができない、旧約時代は終わったということです。「わたしは渇く」、それはイエス自ら、旧約時代の満たされないつぶやきを終わらせてくださった、決別の言葉です。イエスの十字架で私のために死んでくださったと信じる者は、決してもはや渇くことはありません。イエス・キリストはかつて人々にこう約束されました。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)
わたしは渇く」。私たちも、自分に向けてきたこのつぶやきを終わらせましょう。私たちが人生で繰り返してきた心の渇きを本当に満たしてくださるのは、このイエス・キリスト以外にはおりません。どうか、ひとり一人がキリストを心に受け止めてください。どうにもならない心の渇きをごまかし続けていく人生に決別してください。イエス・キリストがいのちをかけて取り戻してくださった、まことの潤しを受け取ってください。