恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.3.30「マリヤはなぜ叫ばなかったのか」

週報はこちら 聖書箇所 ヨハネ19:23-27
 23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
20140330 1.ふたりの「母」  今から30年以上前の事件ですが、東京のある団地の屋上から、父親が二人の幼い息子を抱きかかえて飛び降り自殺をしました。兄の方は小学校4年生の「敏広」くん、弟はまだ小学校1年生の「正人」くん、という名前でした。父親は妻に蒸発されたあと、まじめに子どもを育てていたが、最近は知り合いに「疲れた」ともらしていたそうです。父親のズボンのポケットには10円玉が一枚残っていただけでした。そして子どもの手帳にはこう書きなぐってありました。「おかあさん、ぼくたちが天国からおかあさんのことをうらむ。おかあさんもじ国(地獄)へ行け、敏広、正人」。この事件を知ったある文学者は、こんなコメントを寄せました。なによりも胸をしめつけられるのは、「このこどもたちが母親を怨み、呪っていることである。自分にとって最も愛情をもってくれる最後の人であるはずの「母」を怨んでいる。・・・・(中略)・・・・この世に生を受けた人たちのうちで、最も悲惨な人と言わずして、何と言えようか」と。
(五木寛之『人生の目的』、幻冬舎、p.14。なおこのコメントは仏教学者の故中村元氏のもの)
 「お母さんも地獄へ行け」と書き残し、父と共に飛び降りた子どもたちの心はどんなものでしょうか。そして彼らの母親はその後どんな人生を歩んだのでしょうか。もうひとつ、まったく別の事件ですが、もうひとりの母親の姿を紹介することをお許しください。今から半世紀近く前になりますが、古い方は知っておられるかもしれません、「吉展ちゃん事件」というのが起こりました。当時4歳の村越吉展ちゃんが何者かに誘拐、殺された事件ですが、2年以上の捜索のすえ、犯人として小原保という青年が逮捕されました。彼の母親が記した謝罪の手記が残っているので、一部ですがそれを読んでみます。
 保よ、大それた罪を犯してくれたなあ、わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、お前をかわいがっていたつもりだ、お前はそれを考えたことはなかったのか。保よ、お前は地獄に行け、わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする・・・・。どうか皆様許してくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けて下さいまし。
(正木茂『この日この朝』、一粒社、p.145)
2.なぜマリヤは叫ばなかったのか  「お母さんも地獄へ行け」と書いた幼い兄弟。「お前は地獄へ行け、わしも一緒に行ってやる」と書いた老いた母。時代も状況も違いますが、この二つはどこかでつながってはいないでしょうか。一方は母の愛に絶望した子の叫び。もう一方は絶望の中でも愛し抜こうとする母の叫び。神もまた、イスラエルに対する愛を母の愛にたとえてこう叫びました。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(イザヤ49:15)。神は、母が子どもを見捨てることなどあり得ない、と言われています。そのうえで、だがたとえそのあり得ないことが起こったとしても、わたしはあなたを忘れない、と語られているのです。母の愛は、神の愛です。「お母さんも地獄へ行け」と書かれた母親は、敏広、正人という名前を新聞で知り、泣き叫んだことでしょう。何が原因で子どもたちのもとを離れたのかはわからない。だが母の愛は、子どものために命を捨てます。子どもを助けるためならば、母親は半狂乱にさえなります。そのうえで、今日私はこう問いかけてみたい。「なぜマリヤは叫ばなかったのか」ということです。  十字架にかけられたイエスを助け出せる人がもしいたとすれば、それは母マリヤ以外にはおりません。息子の潔白を主張できるのは、ただ母マリヤ以外にはおりません。私たち信者は、イエスの十字架を神のみこころとしてあっさり受け止めますが、もし自分が十字架のそばにいたマリヤだとしたら、どうでしょうか。しかしマリヤは我が子を助け出すために叫ばなかった。ひなを奪われた母鳥のように、死にものぐるいになって取り返そうとしなかった。いや、彼女は泣き叫んだのかもしれない。取り返そうとしたのかもしれない。ただ聖書が、それについて沈黙しているだけであって。  ではもしそうだとしたら、なぜ聖書は、十字架のそばでもがくマリヤを描かないのか。ここで私たちはひとつのメッセージを受け取ります。それは、マリヤもまたイエスと同じように、黙って毛を刈られる羊のように、沈黙の中で十字架の苦しみに耐えたのだということです。すべての人間の罪を背負い、十字架の苦しみに耐えておられるイエス・キリスト。マリヤは目の前で我が子の苦しみを見ながら、自分には何ができるのかと自らに問いました。そして彼女は選び取った。息子が背負っているのと同じ十字架を私も背負う、と。もちろん彼女はわかっている。イエスが背負っている十字架は、たとえ母親といえど罪ある人間が背負えるようなものではない。それでも私はイエスが背負う十字架を背負う。  それが、「マリヤはなぜ叫ばなかったのか」あるいは「聖書はなぜマリヤの叫びを記録しないのか」という答えです。彼女はイエスの苦しみを、自らもただ黙して耐え忍ぶという道を選び取った。すべての人々を救おうとするイエスを見つめながら、母としての叫びもすべて封印した。ここに私たちは、マリヤの信仰を見るのです。 3.マリヤの苦しみは私たちのため  しかしマリヤの苦しみは、決してこのときに始まったものではありませんでした。イエス様は、十字架の上から母に向かってこう語りかけました。「女の方。そこに、あなたの息子がいます」(26節)。これが、息子から母親に送る最後の言葉でした。「お母さん」と呼びかけることもなく、「女の方」と。たとえ子どもから「お母さんも地獄へ行け」と言われたとしても、「お母さん」という血のつながった言葉で呼んでもらえるならば、まだ幸せでしょう。だがイエス様が飼い葉桶に生まれたときから、マリヤもまた常に十字架を見つめながら歩んでいました。イエスがまだ生まれて数日しか経っていない頃に、マリヤはある預言者からこんな言葉を投げかけられてもいたのです。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです」(ルカ2:34、35)。イエスの苦しみを見つめながら、親子の情さえも十字架の前に奪われたその一日一日が、「剣」に象徴される戦いそのものでした。  今日、家族関係で苦しんでいる人は多いことでしょう。クリスチャンにはそういうことがないかと言えばまるで反対で、クリスチャンだからこそ、親を赦せない、子どもを愛せないという現実と信仰のギャップに苦しみます。しかし私たちは、マリヤがイエス様の十字架を見つめ、背負っていった姿を心に刻みつけるとき、次のことを知るのです。私の苦しみは私ひとりだけのものではない。同じ苦しみをイエス様が背負われ、また母マリヤも背負っていたのだ、と。確かに、あなたが背負っている戦いは、すでに二千年前に聖家族が背負っていたものなのです。そしてそのうえで、私たちはもうひとつのイエス様の言葉に目をとめるべきです。27節、「それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」。  このヨハネ福音書は、他の福音書のように群衆やパリサイ人たちがイエスをののしったという記事がありません。代わりに、十字架に群がる兵士たちの姿に、人の心のみにくさが集約されています。彼らはイエスの着物を四分し、下着をくじで引くことに熱中していました。目の前にあるイエスの十字架が、自分たちの罪のゆえであると考えもしませんでした。しかしそれと対照的に、十字架のそばにいた数名の女性と弟子は、肉の家族を越えた霊の家族としてひとつになるべく、イエス様のことばによって召し出されたのです。十字架を光と闇の境界線とするならば、一方には闇の中で、闇に気づかない兵士たち、そしてもう一方には光の中で、光の家族として生きることをゆだねられた者たちに分けられました。  私たちはどちらにいるのでしょうか。もちろん、光の中にいます。たとえあなたの家庭の中にどれだけ問題がひしめいていても、それは決して闇のままでは終わりません。私たちはイエスの十字架の血潮によって、闇の誘惑と罪の鎖から解き放たれた者たちだからです。十字架のかたわらにいたマリヤのように、また彼女を引き取った愛する弟子のように、私たちもまた自分の十字架を背負っていきましょう。教会という霊の家族の交わり、礼拝、みことばの分かち合いを通して力をいただきましょう。そしてその恵みを肉の家族のもとへと持ち帰り、証ししていくときに、闇は光へと変えられていきます。心から神に感謝して、新しい一週間を歩んでいきましょう。