恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.3.23「今日、愛に答えて」

週報はこちら 聖書箇所 ルカ23:39-43
 39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
20140323  「何かを始めるのに、遅すぎるということはない」、そのような言葉を聞くことがあると思います。明治時代の人ですが、かつて小林富次郎というクリスチャンがいました。彼は36歳の時に洗礼を受け、その3年後の39歳の時、会社を立ち上げました。当時の日本人男性の平均寿命は43歳、遅すぎる独立でした。そして小林は石巻でマッチの製造を始めます。しかしマッチの軸の材料として購入していた大量の材木が、水害ですべて流されてしまい、自殺を考えるところまで追い込まれました。そんな小林を救ったのは、洗礼を授けてくれた牧師から送られてきた、ヘブル人への手紙12章11節のみことばでした。「すべてのこらしめ、今は喜ばしと見えず、かえって悲しと見ゆ、されどのち、これによりて練習する者に、義の平安なる果(み)を結ばしむ」。彼は東京に移り、また一から会社を始めました。ある牧師の助言から、歯磨き粉を製造するようになり、それ以来彼の会社は120年以上経った今でも発展を続けています。おそらくご存じの方もいるでしょう、その会社の名前は「ライオン」です。私が子どもの頃は、ライオンのCMには「おはようからおやすみまで、暮らしを見つめる。ライオン」という台詞が流れていました。これが2年前から別のキャッチコピーに変わり、「今日を愛する。ライオン」になりました。ライオンから何かもらったわけではありませんが、今日の聖書のことばにつながっているようで、うれしいですね。イエス・キリストは、悔い改めた犯罪人に向かってこう語られました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。  イエス様は「きょう」と言われました。今日、あなたの命があるならば、救われるのに遅すぎるということは決してないのです。すでに70年、80年の生涯を歩まれてきた方々がおられます。その人生の大半を、イエス・キリストの名を聞かずに歩んでこられたでしょう。しかし生まれたばかりの赤子であれ、齢100歳を過ぎた人生の先達であれ、すべての人が例外なく、イエス・キリストを必要としています。イエス・キリストだけが、私たちのすべての罪を身代わりになって引き受けてくださったお方だからです。すべての人がイエス・キリストを信じなければなりません。イエス・キリストを信じないまま死を迎えたならば、もはや私たちが罪のさばきから免れる道は残されていないからです。だからこそ私は懇願します。今日、あなたの命が与えられている今日、イエス・キリストを信じ、罪の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。イエス・キリストを信じるのに、決して遅すぎるということはないのです。この十字架につけられた犯罪人のように。  マタイの福音書には、この犯罪人も、最初のうちは隣の者と一緒になってイエス様をののしっていたと書かれています(27:44)。しかしイエス様は決してののしり返すことなく、かえって自分を十字架につけた者たちのために祈り続けました。その救い主の姿を見つめている中で、この犯罪人は、イエス様をまことの神の子として認めるようになりました。この犯罪人が何の罪を犯して十字架刑にかけられたのか、聖書には一切書いてありません。しかし確かなことがあります。彼の人生がたとえどんなものであろうとも、その人生の最後で、彼は悔い改めたということです。彼は自分が罪人であることを認めました。自分の最後がその罪にふさわしい終わり方であることを認めました。それでも、そこで終わらなかったのです。彼はイエス様のあわれみにすがりました。  「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。なんという信仰でしょうか。死刑囚として朽ち果てようとしているイエスに対し、あなたはやがて御国の位にお着きになると告白しているのです。だからどうか忘れないでください。人生に手遅れはないのです。昨日までのあなたがどんな人間であろうと、今日、あなたがイエス様を心に信じるならば、人生だけではなく心の内側から私たちは変わります。クリスチャン作家の故・三浦綾子さんは「この犯罪人こそが最初のクリスチャンだったのだ」と、驚きと感動をもって記しています。どんな人間であっても、キリストを救い主として信じるときに、必ず変わります。自分で努力して変わるのではありません。神が私たちの心の内側から造りかえてくださるのです。  ところで十字架刑は人類の歴史上、最も残酷な刑罰と言われます。それは、絞首刑のように一瞬で死が訪れるのではなく、十字架刑は何日ももだえ苦しんだあげくに死に至る刑罰だからです。イエス様は十字架にかけられてからわずか6時間で死に至りましたが、通常の十字架刑では、それはあり得ないことでした。おそらく、残りのふたりは、イエス様が死に至った後も、何日間も十字架の上でもだえ苦しんだことでしょう。しかしイエス様は、信じた犯罪人にこう言われたのです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。パラダイスは天国のことではありません。正しい人が死んで行くところがパラダイスではないのです。信じるならば今日、あなたはパラダイスにいるのです。死後ではなく、今日、つまり信じた今このとき、あなたはわたしと共にパラダイスにいる、とイエス様は約束されました。私たちの人生は、ときどき、あるいはしょっちゅう、きわめて耐えがたいものに思われます。しかしイエス様を救い主として信じるならば、私たちはパラダイスにいます。この犯罪人は十字架の上で数日間もだえ苦しみながらも、彼の心はパラダイスにいました。その心の中にイエス・キリストが入ってくださり、彼の命が絶えるときも、そしてそれからも、いつまでも共にいてくださったのです。  イエス・キリストを信じるならば、もはやパラダイスにいる。そう信じるクリスチャンは、世の人々からあざけられ、馬鹿にされます。救いとは、もう悩まなくてもすむとか、病気にかからなくなるということとは違います。この信じた犯罪人は、信じたからといって激痛から解放されたわけでも、十字架から降りられたわけでもありません。しかし肉体は十字架の上でもだえ苦しみ続けても、心は平安に満たされて、最後の数日間、天を仰ぎ続けたのです。パラダイスは死者の国ではなく、生きている者たちの国です。どんなに人生がつらくても、問題が次から次へと襲いかかってきても、イエス様と共にその中に立ち続ける、それがパラダイスに生きる者たちです。きょう、イエス・キリストを信じるならば、あなたはそのパラダイスにいるのです。キリストを信じた、この犯罪人の最期がどうであったか、誰も知りません。しかしもうひとりの犯罪人が怒りと痛みを浮かべた死に顔であったのに対し、この犯罪人はほほえみを浮かべていたに違いありません。信じるのに遅すぎるということはないのです。今日まだ命があるならば、手遅れということはないのです。イエス・キリストはこの犯罪人だけでなく、すべての人間に語りかけておられます。「信じるならば、あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と。  私たちがかたくなな心を悔い改めて、十字架のキリストを見上げるとき、必ず救いが起こります。信じてももはや遅すぎる、ということは決してありません。イエス様はあなたのために命を捨ててくださいました。もしあなたに残された時間が数日間、数時間、あるいは数分間であったとしても、あなたと共に生きたいとイエス様は願っておられるのです。人生は、かくも耐えがたいものであるとしても、今日キリストを信じるならば、あなたはパラダイスにいる、とキリストは約束してくださいました。今が恵みの時、今が救いの時です。どうかひとり一人が、イエス・キリストを心に受け入れてくださいますように。