32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。 33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。20140316 序. 「四旬節」の第2週に入りました。「四旬節」の「四旬」とは40日という意味です。聖書では40は、試練や苦難を象徴する数字です。イスラエルが荒野をさまよった40年、イエスが荒野で過ごされた40日といったように、「四旬節」は苦しみをおぼえる期間でもあります。キリスト教会では、イースターの前の40日、つまり日曜日6週分を、イエスの十字架を特別におぼえる期間として守ってきました。それが四旬節の意味です。そして四旬節とは別に、「十字架上の7つの言葉」というものもあります。福音書の中に、イエスが十字架にかけられた中で残した言葉が7つあります。これもまた、この時期に教会の礼拝で語られることの多い言葉です。すでに私たちは先週、7つの言葉の一つを聞きました。一週間経ちましたが、おぼえておられるでしょうか。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ、わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。これからイースターまで、残りの6つのことばをひとつずつ学んでいきたいと思います。順番が変わってしまいましたが、四旬節第2週の今日は七つの言葉のうちの1番目です。手足を十字架に釘付けにされながらイエスは叫びました。34節、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。 1. このイエスの第一の言葉をまず後ろから見ていきましょう。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、それはいったい誰のことでしょうか。イエスの着物をくじ引きしている兵士でしょうか。人ごとのように眺めている民衆でしょうか。それとも口汚くあざける宗教指導者たちでしょうか。「何をしているのか自分でわからない」、それは二千年前の「どくろ」の丘にいた特定の誰かではなく、むしろあらゆる時代に生きる、すべての人間に対しての叫びです。 なぜこの世界には、ここまで悲しみが多いのでしょうか。なぜ目を覆いたくなるような犯罪があふれるのでしょうか。誤解を恐れず言うならば、人を悲しませたくて悲しませる人などいないのです。罪を犯したくてたまらない人などいないのです。しかしこの世には悲しみがあふれ、罪が覆います。悲しませるよりも喜ばせたい、ナイフで心臓をえぐるよりも暖かく抱きしめたい、抱きしめられたい、そう願いつつも、そう願うように生きることができない。それは私たちが生まれながらの罪人だからです。「何をしているのか、自分でもわからないのです」。愛したいと願いながら憎み、いたわりたいと願いながら傷つける。 そしてその矛盾は、自分自身だけではなく、周りを確実に汚していきます。ある夫婦の物語です。結婚当初からトラブルが絶えず、かんしゃくを起こしては翌日には何もなかったかのように過ごす二人でした。その晩も、夫がテーブルや床をドンと叩いて、妻に向かって叫びました。「おまえなんか大嫌いだ!もういやだ!もうたくさんだ!もう終わりだ!もうだめだ!だめだ!だめだ!だめだ!」しばらく日が経って、彼は真夜中に目をさまし、二歳の息子が寝ている部屋で奇妙な音がするのを聞きます。廊下をそっと歩き、息子の部屋のドアの外に立ったとき、体に震えが走り、息が止まりそうになりました。二歳の息子が、穏やかな声で、しかし両親のけんかを正確な抑揚で一語一語繰り返していたのです。「おまえなんか大嫌いだ・・・・もういやだ・・・・だめだ!だめだ!だめだ!」(1) 「何をしているのか、自分でもわからない」。それは酒に酔った者の姿に似ています。旧約聖書の「箴言」という書物の一節に、悪い酒に酔いながら、それでもこんな独り言をいう人が出てきます。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ」(23:35)。たとい酒を飲んで酔ったことがなくても、私たちすべての人間は、罪に酔っているのです。自分がどれだけ神を悲しませているのかわかりません。むしろ「俺はよくやっている、私はがんばっている」と。二千年前のゴルゴタの丘にもう一度目を向けてみましょう。兵士たちにとって、極悪人の着物を分けることは仕事の役得の一つでした。民衆も、偽の救い主に何年間もだまされてきたのだ、我々は被害者だと考えたでしょう。宗教指導者たちは、さんざんイエスに悪態をついた後、翌日の安息日にはユダヤの会堂で、説教の務めを果たしたことでしょう。彼らは決してならず者ではありません。一人の社会人であり、家庭人であり、常識人でした。しかし「何をしているのか、自分でわからないのです」。それは一人の例外なく、あらゆる人間が犯されている病です。そして自分がその病人だとは決して気づきません。彼らが十字架のイエスに向けたあざけりには、ひとつの共通点があります。「救い主なら、自分を救ってみろ」。「ユダヤ人の王なら、自分を救え」。どちらの叫びにも忘れられているものがあります。それは、救いを必要としているのは自分自身なのだ、ということです。 2. 救いを必要としているのは誰でしょうか。それはほかならぬ、私たち自身です。クリスチャンは、すでに救われた者だと自覚しているでしょう。でもあえてこう質問させてください。自分がすでに救われているという事実を、何を証拠として他の人に説明しますか。もし真っ先に思い浮かぶのが、何年何月何日にバプテスマを受けたということならば、ここから私が語ることをよく聞いてください。聖書のどこにも、バプテスマが救いの証明であるとは書いていません。では何か。今日のイエス様の言葉が答えをくださいます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でもわからないのです」。 この「彼ら」がすべての人間を指すことを今まで述べてきました。すべての人間がキリストを十字架につけたのです。言い換えるならば、すべての人間の罪は、神の子が十字架にかかって死んでくださらなければ解決できない、途方もなくやっかいなものだということです。「救い」とは、その途方もなくやっかいな罪が確かに解決されることです。ではまたはじめの質問に戻りますが、その「救い」をどうやって人々にわかるように伝えることができますか。 その答えが「赦し」です。自分に害を与える者、傷を与えた者を愛し、その祝福を祈ることができる力。それが「赦し」です。「赦し」こそ、私たちが救われていることを最もはっきりと人々に示すことができるものです。なぜならキリストは弟子たちに「赦し」を神の愛のかたちとして教えられたからです。みなさんは「主の祈り」をご存じでしょう。豊栄の礼拝では「主の祈り」を礼拝の最後に歌っています。しかし残念なことですが、新聖歌の「主の祈り」は最も大切な部分が歌詞から外されました。それは「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」ということばです。イエス様は弟子たちに主の祈りを教えた後、こう言われています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14,15)。 クリスチャン生活の中で最も困難なのは、救われたのにまだ赦せない人がいるという事実を認めることです。救いとは神様に自分の罪を赦されたということです。それは私が人を赦したから、赦されたのだとイエス様は語っています。それなのになぜ、私はあの人をまだ赦せないのだろう、と葛藤します。そればかりでなく、赦さなければ私も赦されないのだ、という強迫観念の中に自分を追い込んでしまいます。愛の最もわかりやすい形である「赦し」が、かえって自分を追いつめ、苦しめるものとなってしまうのです。 救い主イエスは、赦せない人を抱えている、私の心を知っておられます。その上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。その言葉が、私たちを救います。「彼ら」とは私のことです。赦したいけど赦せない、赦すべきだと頭ではわかっていても心が拒む、そんな私のためにもキリストは十字架の上からとりなしてくださいました。赦せない私を責めるためにではなく、赦せない私が赦すことができるように、祈ってくださいました。それが私に向けられたイエスの愛です。 ある人を赦すことができないという現実が、いったいどれだけの力と時間を私から奪ってきたことでしょうか。ある人を赦すとは、その人を赦すというよりは、いつまでもその人に縛られている私を解放するということなのです。相手が悔い改めたら私も赦す、それを待つ必要はありません。私の中で相手を造りかえるということ、それが赦しです。「赦せない」相手は、私が誰かと話している時も、音楽を聴いているときも、運転しているときも、いつも心に顔をのぞかせ、私を緊張と歯ぎしりへと引っぱります。しかし赦すならば、私は自分の心を敵意と緊張から解放します。私にはできないと一度は言います。しかし信仰は、神にはできると繰り返し呼びかけてきます。イエス様がその証であり、模範です。十字架の七つの言葉、その一番目、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でもわからないのです」。それが他ならぬ私のための言葉であったことを心に刻みつけて、四旬節を歩んでいきましょう。 (1)フィリップ・ヤンシー「この驚くべき恵み」(いのちのことば社、1998年)、pp.152-153。
2014.3.16「赦しはあなたのために」
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聖書箇所 ルカ23:32-38