恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2014.3.9「怒りは十字架と共に」

週報はこちら 聖書箇所 マタイ27:45-46
 45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
20140309 1.投げ込まれたのは「怒り」  すでに亡くなられましたが、星 新一という小説家がおられました。この方の短い小説、ショート・ショートと言いますが、「おーいでてこーい」というものがあります。あらすじを紹介するとこのようなものです。  ある日、突然ひとつの大きな穴が現れました。まるで地球の中心にまでつながっているような、深い穴です。最初に見つけた人が、穴に向かって「おーいでてこーい」と叫んでみましたが、何の気配もありません。次に石ころを投げ入れてみましたが、穴に吸い込まれてしまいました。そこで人々はこれ幸いと、ゴミをその穴に次々と投げ入れていくのです。一般の人たちは大量の家庭ゴミを投げ入れました。政府の役人は極秘書類を投げ入れました。警察は身元不明の死体を投げ入れました。そして科学者たちは、放射性廃棄物を投げ入れました。それでも穴はあふれもしない。あらゆるゴミを飲み込んだ穴は、やがて人々の記憶から忘れられていきました。それからしばらく経ってのこと。高層ビルの屋上で作業をしていた人が、ふと手を休めました。空から「おーいでてこーい」という声が聞こえたような気がしたのです。空耳かと考え直し、再び作業を始めました。すると今度は、石ころがひとつ、空から落ちてきて彼のヘルメットに当たりました。ここで小説は終わるのです。  3年前、福島の原発事故が起きた直後、この小説が再び注目されました。原発は絶対安全という言葉を信じ、私たちは原発という穴に放射性廃棄物をどんどん投げ込んできたのです。石ころの後に空から降ってきたのはゴミではなく、津波でした。しかしそのときにはすでに遅かったのです。しかし私が今日改めてこのあらすじを紹介したのは、原発を語るためではありません。被災地の人々の心です。かの人々がこの三年間、穴の中に投げ込んできたもの、それは「怒り」です。穴とは彼ら自身の心、そして投げ込まれ続けてきた怒りは、人々の心を食い破ります。あの3.11から、被災地の人々は苦しみの中を歩み続けてきました。崩れた家を後にし、不安定な避難所生活、県外への疎開、仮設住宅・・・そんな中、被災地である東北の人々は、忍耐強く、決して不平を言わないと賞賛されました。しかし本当にそうなのでしょうか。失礼な言い方かもしれませんが、忍耐強いのではなく、むしろ怒りを出さずに来た、と思うのは間違っているでしょうか。原発への怒り、行政への怒り、人々への怒り、そして神仏への怒り、そういうあらゆる方向への怒りを、被災地の人々は自分の中に溜め込んできたのではないでしょうか。自分自身の心という穴に、その怒りをひたすら投げ入れてきたのではないでしょうか。 2.十字架の「怒り」  震災後しばらくして、「震災離婚」という本を読みました。震災で家族のすべてを失った人々がいる一方で、夫婦、子供たち共に無事だったのに、あの日以来一緒に歩むことができなくなり、離婚に至ってしまった夫婦もまた多かったのです。行き場を失い、ただ自らの心に溜め込むしかない怒りは、やがて心の皮を破って、自分より弱い人へと向かっていきます。夫は妻へ、妻は子供へ、子供はより弱い子供へ。この震災後の三年間を振り返ってみたとき、私たちは、被災地をむしばむ「怒り」から目をそらしてきました。ここで言う「怒り」とは、政府や行政にプラカードや抗議文を出す人々のわかりやすい「怒り」ではなく、怒りそのものを自分と家族の中に溜め込んでしまう人々の「怒り」です。私たちは「怒り」を悲しみ以上に好ましくないものとして無意識に自分の心に禁じようとします。だからこそ、私たちクリスチャンにだけできること。それは「怒り」さえも代わりに引き受けてくださったイエス・キリストが、あなたのそばにおられると伝えることです。イエスの十字架は、苦しみや悲しみという言葉だけで言い表すことのできるものではありません。それはまさに「怒り」です。  「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」。救い主が私たちすべての罪人の汚れを身に受けて、父なる神に向かって叫ぶのです。見捨てられた怒り。私たちは「怒り」という感情を押し殺し、それを外に出さないように細心の注意を払います。しかし怒りは人が受け止めきれるような生やさしい感情ではありません。それは、ただ神の前に出して、神に取り扱っていただかなければなりません。私たちの心がたとえどんなに深い穴のようなものであったとしても、そこに怒りを投げ込んでいくならば、やがてそれは心を破り、自分と周囲を傷つけていきます。私たちの心よりも広い、神の御心へ、永遠無限なる神のふところへ、私たちは怒りを持っていくことができます。怒りを神のもとへ持ち込むなど許されることではないと思う方もいるでしょう。それは信仰ではない、と。しかし十字架のイエスの心を想像してみてください。その心は、私たち罪人のすべてを背負っておられます。生半可な痛みではなく、単純な悲しみとか苦しみではなく、怒りという忌むべき言葉でしか表現しようもないもの、それをイエスは引き受けてくださいました。そして子なるイエスの必死の叫びに、父なる神もまた見つめ続け、涙を流されたのだと私は確信しています。 3.私の代わりに叫ばれた  茨の冠をかぶせられ、十字架につけられたイエスの姿を想像してみてください。茨のとげが頭に突き刺さる。流れ出る血のしずくが目に入る。天を仰ぐというよりは、天を睨みつけながら、主イエスは絶叫する。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは私たちの姿そのものです。この世に生を受けたとき、すでに罪ある者として産声をあげたすべての人間の姿がイエスの十字架に集約されています。私たちは人生の泥沼から抜け出したいと努力します。しかしその努力は空をつかむだけ。どんなにもがいても泥沼から抜け出すどころか、泥が目をふさぎ、泥水が口に入り込む。もし救い主が本当にいるのなら、この泥沼から引き上げて欲しい。数え切れない人々が同じように泥沼にはまっています。自分を愛したい。家族を愛したい。しかし怒りが私たちの心を突き破り、かえって苦しめてしまう。どこにも出すことのできない、この怒りをだれが引き受けてくれるのか。ただ自分の中に溜め込んでいくしかない、この怒りを知ってくれる人がいてくれたなら。「どうして自分がこんな目に会わなければならないのか。神がいるなら、どうして私をこんな泥沼に見捨てたままなのか」。この叫びをわかってくれる人はいないのか。この苦しみをわかってくれる人はいないのか。  だからこそ、聖書は救い主の叫びをはっきりと記録しているのです。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。救い主にもっともふさわしくないように聞こえる叫び。神の力を疑わせるかのような情けない叫び。今、ここでうめいている罪人  まるで私のような  それとまるで変わらない叫び。しかしこの叫びゆえに、この方は私のまことの救い主です。イエスは見捨てられそうになったのではありません。本当に見捨てられたのです。私の代わりに、見捨てられたのです。イエスが見捨てられたゆえに、私は見捨てられていないのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは泣き言のように聞こえる。うらみ節のように聞こえる。しかしそれは勝利の叫びです。聖書の別の箇所にははっきりとこう書いてあります。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13a)。私たちのかわりに見捨てられた。私たちのかわりにのろわれた。私が叫ぶべき怒りの叫びを、イエスは代わりに引き受けてくださいました。どうか忘れないでください。痛み、苦しみ、悲しみ、そして怒りさえも、すべてがキリストの十字架によって完全に打ち消されたのです。その恵みは何があっても決して私たちを離れることはないのです。