19b サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。 26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。 31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。20140302 序. 月一回、聖餐礼拝の直前の水曜祈祷会を私たちの教会では「バルナバ祈祷会」と呼んでいます。その名前は、今日の後半部分に由来しています。エルサレム教会の交わりに入れなかったサウロのために、とりなし手となったのがバルナバでした。バルナバ祈祷会は、別帳会員・長期欠席者のために祈っています。ひらたくいえば、教会生活から離れてしまったクリスチャンの回復のために祈っています。私自身も、救われて数年後、教会を離れてしまったことがありました。そのとき、日曜日に礼拝行かなくてもいいと、せいせいしていたかと言えばまったく逆で、早く日曜日が終わればいいと思っていました。一度救いにあずかり、礼拝の喜びを知ったクリスチャンは、そこに繋がることなしには平安はないのです。しかし教会から一度離れてしまうと、なかなか戻れないのも事実です。プライドがあり、かつての心の傷があり、あらゆる肉の思いが礼拝復帰を妨げます。そこにはとりなしが必要です。バルナバがサウロのためにとりなしたように、私たちもとりなしていく、そういう願いと決意を込めて、毎月数名の教会員がバルナバの祈りをささげています。 1. さて、サウロがダマスコで伝道した期間は3年間であることがわかっています(ガラ1:18)。なぜエルサレムに戻らずに3年間もダマスコにとどまったのか。そして3年間も、ユダヤ人がうろたえるほど大胆に宣教していた彼を、なぜエルサレムの教会は受け入れようとしなかったのか。その答えは、彼が救われる前にエルサレムで行ってきたクリスチャンへの迫害は、何年経っても人々の記憶から消えることはない、あまりにも苛烈なものだったということです。かつてのサウロは手当たり次第に教会を破壊し、クリスチャンを捕らえ、あまつさえ殺害にまで及びました。そのことに一番苦しんだのは誰だったでしょうか。それはこの救われた後のサウロだったはずです。ユダヤ人からは裏切り者とみなされ、エルサレムのクリスチャンからは決して信用されることがない。彼はその十字架を背負いながら、ダマスコにとどまり続けました。そんな彼の心が悲しみを感じないはずはないのです。しかし聖書はこう記録します。22節、「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた」。 あらゆる人間は、過去を背負って生きています。忘れようとしても忘れられるものではありません。人はその過去の傷にしばしば打ち倒され、何年経ってもうずき、もがきます。そこから逃れる、いや、それを乗り越えるにはどうすればよいでしょうか。自分の心に福音を伝えるのです。「私が生きてきた人生において、すべてのことは何一つとして無駄ではない」と。どんな苦しみも、人生に無駄のない経験です。どんな悲しみも、人の痛みに寄り添うための経験となります。どんな人も、過去の一瞬一瞬を積み上げてきたてっぺんに、今という瞬間があるのです。どんなにもみ消したい過去だとしても、もし本当にそれを抜きとったらどうなるでしょうか。(ジェンガのように)すべてが崩れていきます。サウロが迫害者という自分の過去を背負いながらも「ますます力を増し」、福音を伝えることができたのは、すべてのことを神は益としてくださったという確信です。それが福音です。キリストがあなたのために十字架で死んでくださったのは、過去を封印するためではありません。過去を見つめながら、すべてを感謝に変えるためです。私たちが罪を悔い改めて生きるのは過去を美化しないためです。過去に蓋をせず、さりてときれいに包み直すのでもなく、事実として受けとめましょう。聖霊の御声に耳を傾けながら、すべての経験が私の人生の大事な一部であると告白しましょう。それがサウロの力の源であったのです。 2. サウロをこぞって拒絶したエルサレム教会で、ただひとりサウロの友になろうとしたのがバルナバでした。このバルナバを私たちの模範にしたいというのは、最初に語ったとおりです。しかしなぜバルナバだけが彼の友となれたのでしょうか。私はこう思うのです。その理由は、バルナバもまた、サウロと同じように過去の悲しみを見つめながら歩んでいた人だったからではないか、と。 バルナバが聖書に初登場するのは、彼が自分の地所を売って、その代金をエルサレム教会にささげたという使徒4章36節の記録です。そしてその直後には、バルナバのように地所を売って教会にささげながらも、嘘をついて一部を残したために、聖霊のさばきを受けて死んでしまうアナニヤとサッピラが登場します。この出来事は、バルナバの心にぬぐえない痛みと悲しみをもたらしたことでしょう。バルナバ自身は、ささげることが苦ではなかったし、この献金によって神も喜ばれると信じていました。しかし彼はすべての人が自分のようではないということに、このとき気づかされました。バルナバの行いはまねた、しかし彼の信仰はまねることができず、かえってさばきの死を招いた一組の夫婦の姿をバルナバは知った。そのとき、彼は気づいたのです。ささげるべきは土地でも金品でもなく、むしろ兄弟姉妹への関心であったということを。 聖書の中には、神が求めているいけにえは肥えた牛でも金銀でもなく、謙遜な心であり、正義と誠実を貫くことである、という言葉が何度も語られます。たとえこの世の富をすべてささげたとしても、兄弟姉妹の心の隙間に目を向けることがないのなら、そのささげものは自己満足でしかない。アナニヤとサッピラの亡骸を目にしながら、バルナバの心にはそのような思いが生まれていたはずだと私は確信しています。その思いこそが、サウロのために私が仲介者となるという覚悟を生み出したのです。バルナバの高潔な人格といったものに、この行動の理由を求めるならば、私たちの誰ひとりとしてバルナバのようにはなれないでしょう。しかしバルナバを動かしていたのは悲しみでした。一組の兄弟姉妹を失ってしまった悲しみでした。それは、私たちが教会生活において経験するのと同じ悲しみです。いつのまにか教会から離れてしまった兄弟姉妹に対して、私たちが感じるのと同じ悲しみです。 3. サウロもバルナバも、悲しみの人でした。イエスが悲しみの人であったと同様に、彼らも悲しみを知る人でした。私たちキリストの教会は、そのように悲しみを知る人々によって建て上げられてきました。教会生活の中で、私たちは悲しみを経験します。教会に来なければ、こんな悲しみを経験することもなかったのに、と思えるときさえあります。しかしあらゆる経験は、喜びであろうと、悲しみであろうと、一切は無駄になることはないのです。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむというパウロの言葉を、私たち教会は聞いています。しかし悲しんでいる人に対して「考えすぎだ」とか「疲れているんだよ」で終わらせているとすれば、私たちはこのみことばに逆らっているということでしょう。 私たちは、悲しみというものを好ましくないものとして考えやすいものです。自分が悲しんでいるとき、一刻も早くそこからの脱出を願い、他人が悲しんでいるとき、信仰を強く持てばそこから解放されるとか言います。しかしパウロ、つまり後のサウロ、彼の手紙を通して聖霊はこう語られました。「神のみこころにそった悲しみは救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」。悲しみにも二種類あるのです。しかし神に召された人々にとって、悲しみはそのうちの一つしかありません。救いに至る悔い改めを生じさせる、神の御心にそった悲しみです。だとすれば、一刻も早くその悲しみを打ち切ろうとすることは過ちです。むしろ、その悲しみを通して、自分を見つめ、自分の罪を見つめる。他人の悲しみを通して、その人が自分を見つめ、自分の罪を見つめ、そして救い主を見上げることができるようにとりなしていく。今、悲しみの中にある人はその悲しみを大事にしてほしい。それは必ずあなたを生かすものとなります。悲しみを切り捨てて歩んできた人は、なぜそのとき悲しかったのか、記憶の糸をたぐり寄せて思い巡らしてほしい。その悲しんだ経験がそれからの自分の人生にどれだけ大きな影響を与えてきたのかを忘れてはなりません。
2014.3.2「悲しみのススメ」
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聖書箇所 使徒9:19b-31