恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2013.6.23「主はすべてを知っておられる」

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聖書箇所 詩篇139篇1-18節

1 【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。

6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、

私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、

10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

11 たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、

12 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。

私のたましいは、それをよく知っています。

15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。

 私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。

20130623.MTS

1.主の全知

 先週、教会員のY兄のお父様が突然、天に召されました。訃報を受けた私自身も最初、その早すぎる死に動揺しました。しかし司式を私がさせていただくことになり、ご家族からお父様のお話を聞かせていただく中で、私自身の心にも平安が与えられてきました。「主はすべてを知っておられる」。この厳然たる事実が、私たちに平安を与えます。人生には私たちの理解できないことが数多く起こりますが、主はそのすべてを知っておられる。私たちは、乗り越えることが不可能に思われるような戦いも経験します。しかししかし神は私たちが耐えることのできないような試練に会わせることは決してありません。私たちの痛みも知っておられます。私たちの涙も知っておられます。私たちの弱さも知っておられます。私たちに何が必要かも知っておられます。「主はすべてを知っておられる」。だからこそ、私たちは安心して悩むことができます。心ゆくまで悲しむことができます。試練の中でも、次なる神の一手を期待することができます。

 兄弟のお父様の葬儀で、私はご遺族に向けてこう語りました。「悲しみは死を乗り越えるためにどうしても必要な時間です。だからその時間をどうか大切にしてほしい」と。人間は、悲しみを喜びの対極として考えがちです。だから悲しみなんかないようがいい、と言います。しかし福音歌手の森祐理さんの手記を紹介します。彼女は、阪神淡路大震災で実家が被災し、弟さんの命を失いました。父母それぞれが息子の死をどう受けとめていったか、彼女はこう書いています。

 私の両親は、互いにタイプが違います。母は明るく、感情表現が豊かです。泣くときは泣くし、笑うときは笑うし、怒るときは怒る、そういう母です。ですから、息子の死に対して、母は、最初のころ、どうなるんだろうと思うほど取り乱しました。けれども結局、母のほうが回復が早かったのです。父は何も言わず黙って、泣くこともせず、お葬式ではただ下を向いていました。多くのテレビや雑誌のインタビューがありましたけど、よくあんなに淡々と応対ができるなと思いました。けれども、何年か経った時に、父のほうがまだ癒されていないことが見えてきたのです。新聞に震災の報道があると読まない、テレビで震災の悲しい番組があると「消しなさい!」と言い、受け入れられないなど・・・。弟は新聞社に内定しており、コーヒーが大好きでした。ですから、父は毎朝、コーヒーとその日の朝刊を、まず弟の写真のところへお供えのように持っていかなければ一日を始められませんでした。父もクリスチャンなのですが・・・・・・。

(聖書と精神医療研究会編「喪失が希望に変わるとき」いのちのことば社、2007年)

 そして彼女はこう書いています。「あるとき母から、『祐理、このあいだお父さんとふたりでやっと祈ったのよ。お父さんがようやく私とふたりっきりのときに泣いたの。お父さんの涙、はじめて見たわ』と聞きました。父は、妻の前でも泣けなかった。その父が泣くことによって、ようやく朝の儀式をすることもなくなり、癒しの過程が始まりました」。

2.主の遍在

 詩人はこう告白します。「たとい、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」(8)。天にも、よみにも、海の果ても、暗やみも、どこにでも主はおられる。私にとって明日はやみかもしれない。その次の日にはよみにいるかもしれない。しかしたとえそうだとしても、何も恐れなくてよい。恐れないとは、悲しまないということではない。安心して泣き叫ぶことができる。どんなに泣き叫んでも、必ず泣き止むのを待っていてくださる方がいるからです。その方はいつまで泣いているんだとは言わない。どこまでも、どこまでも私たちに寄り添って、付き添ってくださる方です。

 以前もお話ししたことがありますが、私が洗礼を受けたのは19歳の時でした。その数年後、社会人生活を歩む中で信仰生活に疲れてしまったことがありました。もともと神学校に行く前の社会勉強というつもりでしたが、そんな生半可な人間を会社は求めていない。仕事も満足にできず、教会でも疲れ果てて何もできない。そんな毎日、毎週の中でもうクリスチャンであることをやめたいと願いました。泣きながらトイレにうずくまっていたときに心に響いてきたのが、聖書のことばでした。今でも忘れることはありません。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。

 その時、私はキリスト教から「脱会」できないのだとわかったのです。そこであきらめました。もうどうにでもなれと。しかしあきらめたら、逆に楽になりました。そしてあきらめたら、逆に信仰生活に喜びがわいてきたのです。それまで自分の理想とする信仰生活を求めていた私は、いわば「信仰ごっこ」をしていたのです。それは自分の理想を神としていただけでした。自分の理想の実現に神を利用していました。しかしそれでも神は見捨てず、「ごっこ」につき合ってくれていました。いつかごっこではなく、本物に気づくときが来ると、主は知っておられたのです。

3.主の創造

 神はいつも私たちを見つめておられ、私たちを決して離すことはありません。天、よみ、海の果てという巨大なものに目を向けていた詩人の目は、やがて虫けらのようにちっぽけな自分自身へと移っていきます。この天地宇宙に比べたら、自分の存在などどれだけちっぽけなのだろう。しかし詩人は気づくのです。神はこのちっぽけな自分の、ちっぽけな臓器、細胞のひとつにさえまったく妥協せず、自ら造ってくださったお方なのだと。

T先生という仙台の牧師先生と、ある集会がきっかけで知り合いになりました。この方はもともと大学教授であり、進化論の過ちを聖書と科学の両方から正しく説明できる、貴重な専門家です。あるとき、こんな話をしてくださいました。

 生まれる前、母親の羊水の中にいる胎児は、肺呼吸ができません。肺がまだ造られていないからです。そこで酸素を含んだ血液が、母の胎盤からへその管を通って心臓へと送られます。しかし心臓そのものも未発達の胎児に、そのまま血液が送られてきたら、心臓はたちどころに破裂してしまいます。そこで、胎児の心臓には「卵円孔」というひとつの小さな穴が空いているそうです。その穴がバイパスとなって、血液の流れをコントロールし、心臓がパンクしないようにしているのです。

 いったい、誰がこのような不思議な仕組みを考え、造ってくださったのでしょうか。T先生の結論は、「神しかいない、神しかできない」です。人間、あるいは進化のメカニズムではこれは説明できません。進化論では、この卵円孔も長い世代をかけて取得したといいますが、これがなければ胎児は死んでしまうのです。時間をかけて手に入れたではなく、はじめからなければ人間は生まれてくることができないのです。

 詩人は言います。「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。あなたは私にくすしいことをなさって恐ろしいほどです」。三千年前の詩人が卵円孔の存在を知っていたはずもありません。だが彼は神が自分を造ってくださったことを確信をもって告白しました。彼よりもさらに知識を得た現代の私たちは、なおのこと創造主なる神の御名をあがめるべきではないでしょうか。

 「私が目ざめるとき、私はなおもあなたとともにいます」。一日を歩み出すとき、私たちを支える力がここにあります。主はすべてを知っておられます。私は生きるにしても死ぬにしても、神の御手が届かぬ所に行くことは決してありません。私を造ってくださった主は、私の命に全責任を負ってくださいます。もちろん私たちは試練の中で神の愛を疑うこともあるでしょう。もういやだ、と神から離れようとすることもあるでしょう。しかし神は、そんな私たちの弱さも知っておられます。そのために十字架があるのです。神の愛にこれだけ取り囲まれていながら、それに気づかず、神など必要ないと言っていた私たちです。その私たちのために、イエス・キリストは身代わりになって死んでくださいました。その犠牲の死の報酬として、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。この方を信じる者に対して、神がその手を離すということは決してありません。どうか、ひとり一人がイエス・キリストの御名を信じることができますように。