恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「キリストの『続き』を生きる」(使徒1:1-14)

真ん中の再生ボタンを押さず、右下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
今日はペンテコステ、聖霊がキリストの弟子たちに与えられたことを記念する日です。
私たちも、信じたときに聖霊を与えられました。
というよりもむしろ逆で、聖霊を受けたからこそ、信じることができたのです。
私たちはもともと、福音を信じることができるようなやわらかい心ではありません。
見えるものしか信じない、というかたくなな心の持ち主でした。
しかしその私たちを、なぜ神は救いに選んでくださったのでしょうか。
その答えが、1節のところに記されています。
「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました」。

 ここで「前の書」と呼ばれているのは、同じルカが記した福音書のことです。
福音書には、神の御子イエスが貧しい人々に寄り添い、十字架にかかって私たちの罪を身代わりとして背負い、そして三日目によみがえられた生涯が描かれています。
しかしルカは、その十字架と復活という偉大なみわざすらも、キリストが『始められた』ことにすぎないと語るのです。
キリストの地上での歩みは十字架と復活で一つの頂点に達しましたが、神の救いのご計画はそこで「終わった」のではなく、むしろそこから「始まった」のです。

 しかし、いわば仕事の途中で、イエスは天に昇っていかれました。
それは、ご自分の仕事を引き継いでくれる者たちがいたからです。
じつはそれこそが、私たちが救われた理由です。
二千年前のペンテコステの日に聖霊を注がれ、「キリストのからだ」として生み出された教会であり、今も聖霊によって生きる私たち一人ひとりなのです。

 当時の弟子たちはこの壮大な計画を理解できず、イスラエルがローマ帝国から独立するという、目に見える分かりやすい結果ばかりを期待していました。
それは、日々の生活の中で『すぐに目に見える解決』ばかりを求めてしまう、私たち自身の姿と重なるかもしれません。
しかしイエスは「エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊を待ちなさい」と命じます。
人間の力や血気盛んな情熱だけでは、この神の国の働きは引き継げません。
私たちのかたくなな心を打ち砕き、真の変革をもたらす聖霊の力によらなければ、誰もキリストの続きを生きることはできないのです。

 イエス・キリストは弟子たちに約束されました。8節をご覧ください。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。
「聖霊が臨む」と聞くと、私たちはつい、天から炎が降り注ぎ、外国語で語り出すといった、劇的な奇跡ばかりを連想してしまうかもしれません。
しかし、聖霊が与えてくださる最も本質的な力とは、「キリストの証人となる力」です。
証人とは、自分の正しさを巧みに主張する弁論家や、無理に相手を説得しようとする人ではありません。
自分が実際に見て、触れて、味わったキリストの愛を、ありのままに指し示す人のことです。

 聖霊が私たちを通して働かれるとき、証しとは決して雄弁な言葉だけに頼るものではないのです。
私たちがキリストのからだである教会に連なり、自ら体験した神の愛に深く留まって生きるとき、私たちの言葉を超えた「生き方そのもの」が、もっとも力強い証しとなっていきます。

 ここで、そのことを鮮やかに示している、歴史の中に刻まれた一つの実話をご紹介したいと思います。
19世紀の終わり、イギリスの野心的なジャーナリストであったヘンリー・スタンレーは、特ダネを狙ってアフリカの奥地へと足を踏み入れました。
彼の目的は、消息を絶っていた有名な探検家であり宣教医師である、デビッド・リビングストンを発見することでした。
当時のスタンレーは、聖書など信じない、冷笑的で野心に満ちた男でした。
過酷なジャングルの旅の末、彼はついに、物資が尽き果て重病に倒れていた老宣教師リビングストンを発見します。
スタンレーは彼を救出し、その後数ヶ月間、彼と寝食を共にしました。
やがてスタンレー自身もマラリアの高熱に倒れてしまいます。
その朦朧とする意識の中で彼が見たのは、自らも満身創痍でありながら、現地の人々のために薬を配り、彼らの痛みに寄り添い、そしてテントの片隅で人知れず静かにひざまずいて祈りを捧げる一人の老人の後ろ姿でした。

 スタンレーは後に、自らの回心についてこう語っています。
「リビングストン博士は、私に向かって一言の説教もしなかった。
ただの一度も『信じなさい』とは言わなかった。
しかし、ただ彼と共に生活し、その姿を見ているだけで・・・・私は完全に、キリスト者にさせられてしまったのだ」。

 これこそが、御霊に満たされた歩みです。
私たちは「伝道しなければ」と、自分の言葉や力で相手を説得しようと焦り、疲れてしまうことがあります。
しかし、聖霊のバプテスマとは、私たちが必死に頑張るためのエネルギー補給ではありません。
私たちが自分の弱さを認め、ただキリストの十字架の愛に留まり続けるとき、私たちの存在そのものから、隠しきれないキリストの香りが放たれていく。
それこそが、人の魂を根底から揺さぶる、聖霊の真の力なのです。

 今日、私たちはそれぞれの「エルサレム」へと遣わされていきます。
それは、アフリカの奥地のような遠い場所ではないかもしれません。
毎日の職場のデスク、学校の教室、あるいは、人間関係で行き詰まっている、あの痛みを伴う家庭の食卓かもしれません。
しかし、恐れることはありません。
あなたのために命を捨てられたイエスが始められた愛の物語の続きを、今日、あなたが生きるのです。
立派な言葉を語れなくても大丈夫です。
あなたが置かれたその場所で、愛する者のために誠実に生きようともがく時、その不完全な歩みのただ中に聖霊の風が吹き抜け、必ず誰かの魂にキリストの福音が届いていきます。
この一週間、復活の主があなたと共に歩んでくださることを信じ、御霊の豊かな導きに委ねて、希望をもって歩み出していきましょう。

 

「日々の暮らしという名の神殿」(列王第一8:54-61)

真ん中の再生ボタンを押さず、右下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
先週、私たちはこの新しい会堂で初めての礼拝を捧げました。
そこで私たちが体験したのは、驚くべき「動と静の調和」でした。
ふだん奏楽に用いている自動演奏機の合成されたピアノ音でさえ、この空間では心に深く染み入るような圧倒的な共鳴をもたらしてくれました。
また、日曜の朝、すぐ目の前の道路では活気ある朝市が開かれていました。
しかし、一歩この建物の扉をくぐると、外の喧騒がまるで嘘のように、深い静寂に包まれた空間が守られていました。
この見事な静けさの中で、私たちはみことばを聞くことに深く集中し、同時に、響き渡る声で心からいっぱいの賛美をささげることができました。
教会とは、この静寂の中で神様の恵みをたっぷりと味わい、魂の力を蓄える場所です。
そして、礼拝を終えてこの会堂の扉を開け、一週間の激しい生活の場へと向かうときには、蓄えた恵みを胸に、元気いっぱいに飛び出していくための出発点なのです。

 本日の聖書箇所には、神殿での荘厳な祈りを終えたソロモン王が、まさに民を現実の生活へと送り出す、力強い祝福の場面が記されています。54節をごらんください。
ここでソロモンの姿勢が大きく転換したことがわかります。
それまでソロモンは、祭壇の前でひざまずき、天に向けて両手を広げて深く祈っていました。
神様だけを見つめる「静寂」の時間です。
しかし祈りを終えると、彼はすっと立ち上がり、今度は目の前にいる会衆全体に向かって、大声で祝福を宣言し始めました。
神に向かう「垂直の姿勢」から、今度は人々を祝福し、現実社会へと送り出す「水平の姿勢」へとシフトしたのです。

 立派な神殿が完成したとき、人々は「これからはいつでもここに来れば神様に会える」と、建物そのものに寄りかかろうとします。
しかしソロモンは57節でこう祈りました。
「私たちの神、主が、私たちの先祖とともにいてくださったように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちをお見捨てになることがありませんように」。
神様は、この神殿の建物の中に閉じこもっているお方ではありません。
むしろ、礼拝を終えてそれぞれの家庭や日常の仕事へと帰っていく民と「共に歩んでくださる」お方なのです。
ソロモンは、神殿が信仰のゴールではなく、神の臨在を胸に抱いて、日常へと遣わされていくための出発点であることをここで明確に語ったのです。

 現在、同じ敷地内では、私たちが三年間お世話になった仮会堂の取り壊し工事が始まっています。
約一ヶ月の工事を経て、いよいよ私たちが自由に集える十分な広さの駐車場が完成します。
工夫して駐車すれば最大30台ほどの車を迎え入れることができるようになります。
完全な車社会であるこの豊栄において、これほどの駐車場を備えた新会堂が与えられたことは、まさに神様の奇跡です。
安心して礼拝に来ることができますし、勇気を出してご友人をお招きすることもできます。
しかし、忘れてはならないことがあります。
どれほど良い立地と広さが備えられても、それにふさわしい「霊性」が伴わなければならないということです。
ソロモンも61節で「心を私たちの神、主と一つにしなさい」と命じています。
神様がこの素晴らしい土地と建物を与えてくださったのは、私たちがここで自己満足に浸るためではありません。
私たちがみことばを深く味わい、その恵みを携えて社会へと出ていくためなのです。

 その「ふさわしい霊性」の実践として、今日、教会として加入した自治会の地域清掃がありました。
かつて高度経済成長期、教会が右肩上がりだった時代には、「地域が欲することと逆のことをするのが伝道だ」とさえ真剣に言われたことがありました。
しかし今日、教会は福音を「語る」前に、まず地域の方々からの「信頼」を築かなければなりません。
高齢化が進む中で清掃活動一つとっても簡単ではありませんが、教会の初めての地域接触の試みに、多くの教会員がボランティアとして参加してくださったことは感謝の極みです。

 こうした「日常のささいな行いを神への奉仕とする」ことの尊さを教えてくれる、一つの歴史的なエピソードがあります。
昔、フランスの修道院に、ローレンスという修道士がいました。
彼は神学の教師ではなく、台所で食事を作り、鍋を洗い、床を掃くという雑用係でした。
しかし彼は「鍋を洗うときも、神への愛のゆえに行う」と決め、黙々とそれを実践しました。
すると、ただ鍋を洗っているだけなのに、彼の周りには神の深い平和が漂い、多くの高名な神学者たちが彼に霊的な助言を求めにやって来たのです。
 私たちが軍手をはめ、地域で空き缶やゴミを拾うことも、彼が鍋を洗ったことと同じように尊い、神への愛の証しなのです。
今回、体力的なことなどで清掃に参加できなかった方も、決して恥じることはありません。
それぞれが置かれた場所で、自分にできる小さなことで教会と地域を支え、祈る。
それこそが、主と心を一つにする霊性なのです。

 ソロモンが民を祝福し、日常へと送り出した最大の目的は、60節に記されています。
「地上のあらゆる民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るに至りますように」。
 私たちがこの新しい会堂に集められた目的も、まさにこれに尽きます。
この会堂は、外の喧騒を遮断する静けさを持っています。
私たちはこの静まりの中で、神様のみことばに耳を傾け、魂の深くまで共鳴する賛美をささげます。
しかし、私たちはここに留まり続けるわけではありません。
私たちは礼拝後、それぞれの車に乗り込み、家に戻り、主こそ神であることを伝える尊いわざを、自分の家庭からまず始めるのです。
私たちはこの工事中の敷地から、ご近所の方々と挨拶を交わし、家庭へ、職場へ、地域社会という一週間の戦いの場へと、元気いっぱいに飛び出していくのです。
私たちが語る言葉、誠実な働き、そして拾い上げる小さなゴミ一つを通して、この町の人々が「主こそ神である」ことを知るようになります。
今週も、主とともに歩み、私の証しを用いてくださいと祈りつつ、歩んでいきましょう。