恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「見えない絆、変わらぬ祈り」(ヨハネ20:19-31)

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 みなさん、おはようございます。
最近の住宅では、防犯のために玄関のドアに二重ロックをつけたり、内側にチェーンをかけたりすることが当たり前になりました。
外の危険から生活を守るためには、鍵は多ければ多いほど安心だと感じるかもしれません。
しかし、外からの侵入者を防ぐために何重にも鍵をかけた部屋は、時として、中にいる自分自身を孤独な密室に閉じ込めてしまうのです。

 実は、私たちが何重にも鍵をかけるのは、家のドアだけではありません。
私たちは自分自身の「心」にも固く鍵をかけてしまうことがあります。
現代を生きる私たちは、多くの不安や痛みを抱えています。
将来への見えない不安、人間関係でのすれ違い、あるいは自分の隠れた罪。
そうした痛みに直面した時、私たちはこれ以上傷つかないように心のシャッターを下ろし、内側からいくつも鍵をかけます。
「誰にも踏み込まれたくない」「本当の弱い自分を知られたくない」という自己防衛の思いからです。

 本日の聖書箇所には、まさにそのような状態にある弟子たちが登場します。
彼らは主を十字架で失い、「次は自分たちかもしれない」という恐れから、家の戸を固く閉ざして隠れていました。
今日の聖書箇所は、恐れで閉ざされたこの部屋に目を向けさせます。
そして私たちの心の密室に、復活の主がどう訪れるのかを見つめていきましょう。

 場面は、イエス様が復活されたまさにその日の夕方です。
弟子たちが集まっていた家は、ユダヤ人たちを恐れて、すべての戸に鍵がかけられていました。
当時のエルサレムは、イエス様を処刑した興奮がまだ冷めやらず、弟子たちに対する社会的な圧力と危険は現実のものでした。
彼らは息を潜め、わずかな物音にも怯えながら、互いに身を寄せ合っていたことでしょう。

 また、彼らの心には外側への恐怖だけでなく、内側からの深い自責の念もありました。
イエス様が捕らえられた時、彼らは皆、主を見捨てて逃げてしまったのです。
「最後まで従う」と豪語していたのに、一番苦しい時に主を見捨ててしまった。
彼らの鍵は、世間から身を隠すためのものであったとともに、重苦しい心の鍵でもあったのです。
自分たちの不甲斐なさと罪悪感をそこに閉じ込めていました。

 しかし、ここで聖書は驚くべき事実を告げます。鍵はかけられたままでした。
それなのに、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。
誰かが内側から開けたわけではありません。
復活の主は、物理的な障壁も、弟子たちの不信仰や罪悪感という心の壁も突き抜けて、彼らの「真ん中」に立たれたのです。
そして、叱責の言葉ではなく、「シャローム(平和)」という完全な慰めと回復の言葉を語りかけられました。

 主がもたらしてくださったこの「シャローム」の平和は、怯えていた弟子たちの心をどれほど温め、解放したことでしょうか。
しかし、この最初の喜ばしい回復の場に、ただ一人、居合わせていなかった弟子がいました。
トマスです。彼は後から仲間たちの弾むような証言を聞かされます。
しかし彼は喜びの輪に入れず、「自分の目で釘の跡を見、この指を入れたみなければ決して信じない」と拒絶したのです。
皆が主の平和に包まれている中で、トマスの心だけは固く鍵がかけられたままでした。

 しかしここで私たちが目を向けたいのは、疑いにとらわれたトマスに対する、他の弟子たちの振る舞いです。
彼らは「なぜ信じないのか」とトマスを責め立てたり、部屋から追い出したりはしませんでした。
トマスが疑いと孤独を抱えたまま、さらに「八日の間」、彼らは一つの部屋で共に過ごし続けたのです。
信仰の温度差があっても、価値観がすれちがっていても、共に生き続ける。
これが、主の平和を受け取った共同体、すなわち信仰の家族の本来の姿です。

 19世紀のイギリスに、アメリアという女性がいました。
彼女の十代の息子は信仰から離れ、冷笑的な態度をとっていました。
彼女は息子を言葉で説得することを諦め、ある日、部屋に鍵をかけて神様に祈り始めました。
「どうか主ご自身が、あの子の心に触れてください」。
彼女が祈りの平和に包まれたまさにその数時間後でした。
遠く離れた町にいた息子が、偶然手にした小冊子を読んだのです。
そして自室で劇的にキリストと出会いました。
この青年こそ、後に中国で偉大な働きをしたハドソン・テーラーです。

 私たちがどんなに言葉を尽しても、他者の心に信仰を植え付けることはできません。
トマスに触れることができるのは、復活の主だけなのです。
私たちは時として焦りから、相手の心の扉を無理にこじ開けようとしてしまいます。
しかし私たちがすべきことは、彼らの葛藤を否定せず共に祈り、主の真実な時を待つことです。

 またもう一つ、ユダヤでは日にちを数えるとき、当日も含めて「何日」と数えます。
「三日目によみがえり」だと、実際には二日後になるわけです。
ですからここで「八日後」とは、実際には七日後、ちょうど一週間後になります。
主が再び現れた「八日後」とは「次の日曜日」、すなわち主日の礼拝の原型です。
トマスは深い疑いと疎外感を抱えながらも、仲間から離れず集まりに身を置いていました。
だからこそ次の日曜日、主と出会えたのです。

 私たちも時に、自分の信仰に自信が持てなくなることがあります。
また、一番身近な人たちと信仰の思いを分かち合えず、一人で寂しさを抱えている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、どうか希望を失わないでください。
たとえ今、愛する人たちが皆様とは違う場所で歩んでいるように見えても大丈夫です。
皆様がここで集い祈り続ける限り、祈りは見えない絆となって、確かに彼らへと繋がっているのです。
疑いや痛みを抱えたままで構いません。どうかこの礼拝の場にとどまり続けてください。
主は、今ここに集う私たちだけでなく、私たちが心に祈り抱いている大切な人々をも、決して見捨てることはないからです。

 復活の主は、私たちが不安で固く鍵をかけている場所にいつでも入ってこられます。
「平和があるように」と語りかけてくださるのです。
それは、弱さや失敗に沈む私たち自身への言葉です。
と同時に、私たちが心を痛めている大切な人々への約束でもあります。
かつて「私の主、私の神よ」とひざまずいたトマスのように、私たちの愛する者たちもまた、同じように主を見上げる日が必ず来ます。
人生の歩みの中で、ご自身の目で主の愛の傷跡を見る日が来るのです。
主は決して彼らを見捨てることはありません。
私たちが恐れを手放し、主の愛に信頼する時、私たちのいるその場所は、主が臨在される恵みの部屋へと変えられていくのです。

 これから新しい一週間が始まります。
皆様のそれぞれの家庭に、職場に、そして人間関係のただ中に戻っていく時、どうか思い出してください。
皆様の行くところには、常に復活の主が伴っておられます。
主が息を吹きかけてくださる聖霊の風に背中を押されながら、焦らず、主の時を信頼して歩んでまいりましょう。
主が与えてくださった「シャローム」の平和が、皆様の心に豊かにとどまりますように。
そして皆様の愛する全ての方々の上にも、同じ平和がありますように。
これからの歩みの上に、復活の主からのあふれるばかりの祝福と平安が豊かにありますように。
お祈りをいたします。

 

「いのちのパンを握りしめて」(ルカ24:13-35)

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 みなさん、おはようございます。本日は復活節、イースターです。
教会に初めて足を運んでくださった皆様も、心から歓迎いたします。
イースターは、十字架にかかったイエス・キリストが死を打ち破って復活されたことを祝う、希望の祭典です。
 ちょうど今は4月の初め、学校や職場などで新しい年度がスタートする時期と重なっています。
新しい環境の中で期待に胸を膨らませる一方で、慣れない人間関係や新しい役割への緊張から、知らず知らずのうちに肩に力が入り、一日の終わりにはどっと疲れを感じてしまう方も多いのではないでしょうか。
 人生の歩みの中で、私たちは時として、足取りが鉛のように重く感じられることがあります。
例えば、大きなプレッシャーのかかる仕事を終えて帰る夕暮れ時や、思い通りにいかない現実を抱えながら家路につく時の、あのなんとも言えない重い足取りです。
それは単なる日常の疲れだけでなく、愛する家族のこと、子どもたちの将来、あるいはこれからの生活や新しく始まる物事に対する漠然とした不安など、目に見えない重荷を背負うこともあります。
それらを抱えながら歩く道は、見慣れた景色も色あせ、目的地が果てしなく遠く感じられるものです。

 今日読まれたルカによる福音書24章には、エルサレムからエマオという村へ向かう二人の弟子たちが描かれています。60スタディオンの道のりはキロメートルに直すと約2キロ、歩いて二時間ばかりの距離です。
しかし彼らの心は深い絶望に覆われていました。
「この人こそ世界を救ってくれる」と希望をかけていたイエス様が、十字架で処刑されてしまったからです。
 聖書には、彼らが道中「話し合い、論じ合っていた」とあります。
実は人間というものは、自分の中に大きすぎる絶望や不安がある時、その痛みに真っ直ぐ向き合うことができず、理屈や議論に逃げ込んでごまかそうとする弱さを持っています。
私たちの日常でも同じようなことがないでしょうか。
家族の将来のことや、本当に向き合うべき深い悩みがある時ほど、不安で胸がいっぱいになり、あえて核心には触れず、些細なことでムキになって言い争ってしまうことがあります。
それは、本当の不安から目を背けたいという、人間の切実な防衛本能なのです。

 弟子たちも同じでした。
「仲間が復活を見たと言っていた」「いや、そんなはずはない」。
彼らは水かけ論のような議論を続けることで、イエス様を失った本当の悲しみや、「もし本当に復活していたら」という大きすぎる希望に直面することから逃げていたのです。
自分の弱さを直視するのは、誰にとっても怖いことだからです。
 そこに、一人の見知らぬ旅人が近づいてきて、共に歩き始めます。
復活されたイエス様ご自身でした。
しかし、二人はそれに気づきません。
自分の不安や目の前の議論で頭がいっぱいだと、すぐそばにある救いの光すら見えなくなってしまいます。
それでもイエス様は彼らを論破したり、急かしたりはしませんでした。
「何をそんなに議論しているのか」と静かに問いかけ、彼らの強がりも、その奥にある悲痛な思いも、すべて聞き尽くしてくださいました。
そして、頑なになった心を解きほぐすように、優しく語りかけられたのです。
 宿に到着し、共に食卓に着いた時、驚くべきことが起こります。
本来であれば客人として招かれたはずの旅人が、まるでその家の主人のようにパンを取り、感謝の祈りを捧げ、そのパンを裂いて二人に渡したのです。
その瞬間、彼らの目はハッと開かれ、それが復活したイエス様であることに気づきました。
「パンを裂いて分け与える」。
それは、生前のイエス様がいつもしてくださった、ご自分のいのちと愛を人々と分かち合う姿そのものだったからです。

 先ほど、私たちはこの礼拝の中で「聖餐式」を行い、小さなパンとぶどう液を分け合いました。
今日初めて教会に来られた方には、少し不思議な光景に見えたかもしれません。
しかし、キリスト教会が二千年もの間、代々この食卓を守り続けてきたのは、決して単なる古いしきたりや、形式的な儀式を継承するためではありません。
それは「いのちの継承」なのです。
 キリストから永遠のいのちを与えられた者が、同じキリストを仲立ちとして、隣の者たちへバトンをつないでいく、それが聖餐です。
同じパンとぶどう酒をいただきながら、「神様はあなたを愛し、あなたの人生とともにおられる」という、目に見えない命の温もりを手渡していく行為です。
そこに私たちは、子どもたちや親、兄弟、大切な友人がそこに加わってくださることを願いながら、信仰を伝え続けています。
それは「あなたは決して一人ではない」という絶対的な安心感を手渡すことに他なりません。
しかしイエス様だと気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなりました。
それはイエスさまがいなくなってしまったのではありません。
見えなくなったのです。
いいえ、もはや目に見える姿に頼る必要がないと、イエスさまに認められたのです。
いのちをわかち合うこの食卓の交わりの中に、目には見えなくても神様が確実に一緒にいてくださる。
彼らはその確信へと引き上げられたのです。

 『目に見えない確信が与える安心感』とはどのようなものでしょうか。
ここで、第二次世界大戦後のヨーロッパであった、ある実話をご紹介したいと思います。
戦火を生き延びた孤児たちが施設に保護されました。
彼らには十分な食事と温かいベッドが与えられたのですが、夜になると多くの子どもたちが不安で泣き叫び、眠ることができませんでした。
「明日になったら、もう食べるものがないのではないか」という恐怖が消えなかったのです。
 そこで、ある賢明な職員が、夜眠る前の子どもたちの手に、一切れのパンを握らせるようにしました。
すると驚くべきことに、子どもたちはそのパンを小さな手でしっかりと握りしめたまま、安心してぐっすりと眠るようになったのです。
「明日も命をつなぐパンがある」。
その確かな保証が、彼らに深い安息を与えました。

 私たちもまた、家族の将来や、新しく始まる物事に対して、先が見えず不安な夜を過ごすことがあります。
しかし、神様は今日、この教会の集いを通して、安心という名の「命のパン」を私たちの手に握らせてくださいます。
「私が共にいる。明日も私が守るから安心しなさい」と。
この安心感を得たとき、「こうしなければならない」という義務感や重圧は消え去り、内側から喜びが溢れ出してくるのです。
 手の中にある確かな希望を得た二人の弟子たちは、すぐさま立ち上がり、夜の暗い道をエルサレムへと引き返しました。
もはや彼らの足取りは、逃げ出す時のように重くはありません。
同じ11キロの道のりが、今度は「希望は生きていた!」という喜びを伝えるための、軽やかな行進へと変わったのです。

 これから新しく始まる生活や、私たちの新しい教会堂での歩みの中にあっても、神様は常に豊かな食卓を備えて待っておられます。
私たちはただ、その恵みの席に招かれ、安心を受け取り、喜びに満たされて歩み出すだけでよいのです。
あの孤児院の子どもたちが、パンを握りしめて深い安心を得たように、神様の深い愛と伴走に触れた私たちの心から、「神様、ありがとう」と自然にこぼれ落ちる、自発的な喜びのしるしなのです。
 今日、イースターのこの日に、新たな希望と力をお一人お一人が豊かに受け取られますように。
皆様の新しい一週間の歩みの上に神様の平安と守りが豊かにありますように。
それでは、お祈りをいたします。

 

CS紙芝居「復活」(ルカ24:1-12)

イースターおめでとうございます。
といってもこれを書いている段階では、まだ洗足の木曜日なのですが。
生成AIによる紙芝居、今回はいよいよ「復活」です。
前回が少々暗い画風だったので、今回は明るい雰囲気で作成を指示したら、案の定、ジブリ風味に寄せてきました。
まずは合格した最初の1枚から。

墓に行った女性たち「やだ・・・なにこれ・・・墓があいているじゃない」

まあまあうまくいった1枚ですが、じつはここに至るまでは失敗の連続でした。

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