恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「語れる自由を生かしつつ」(ルカ1:5-25)

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 みなさん、おはようございます。アドベントも第二週に入りました。
「アドベント」という言葉が「待ち望む」を意味することは、毎年この時期に繰り返し語られてきました。
しかし、少し皮肉を込めて言えば、私たちが本当にクリスマスを待ち望んでいるか、疑わしく思えることがあります。
今年は新会堂工事がありましたので秋のバザーは行いませんでしたが、例年ですと10月にはバザーがあり、一仕事終えたなあという余韻の中で11月があっという間に過ぎていきます。
気づくと月末になり、「来週からアドベント?早いね」と口にしながら、キャロリングの練習もしなければならない。
今年はもう時間がないから来年こそ夏から練習を始めよう。
あれ、去年の今ごろもそんなこと言っていたな、と。
待ち望むどころか、「クリスマスが一ヶ月先だともう少し余裕があるのにな」と願うほど、忙しさに追われています。

 しかし聖書を読むと、神が人を召されるのは、むしろその人が忙しく働いている時です。
モーセは羊を追っている時に、ギデオンは酒ぶねで小麦を脱穀している時に、ペテロやヨハネは網を修理している時に、
そして祭司ザカリヤは神殿で香をたいている時に、神の呼びかけを受けました。
ある方がこう証ししてくださいました。
若い頃、仕事が忙しくて、12月24日、教会ではイブ礼拝が開催される夜も残業の時があった。
礼拝より仕事が優先なのかと、自分の心を責めていた中、ふと心に讃美歌の一節が響きました。
「神の御子は今宵しもベツレヘムに生まれたもう」。
そのときこう思ったそうです。
「イエスさまは今夜、私のために生まれてくださる。
イブ礼拝には出られなかったけど、家に着いたら、クリスマスの箇所をじっくり読んでみよう。」
彼は今牧師をしています。
そのクリスマスの晩に読んだみことばが、彼の献身のきっかけになったそうです。
忙しさの中でこそ、聞こえてくるみことばが、確かにあるようです。

 さて、祭司にとって、神殿で香をたく務めは一生に一度あるかないかの名誉でした。
ザカリヤは一生懸命、その務めに向き合っていた中で、御使いと出会います。
何か粗相をして、神を怒らせてしまったのか。
と思ったのかはわかりませんが、旧約時代、人は御使いを見たら死ぬと考えられていました。
ザカリヤはもはや香をたくどころではない、取り乱し、恐怖に襲われます。
しかし御使いは彼に言いました。
「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」。
さらに御使いはすばらしい知らせを彼に告げました。
待望の子どもが与えられ、その子は母の胎にいる時から聖霊に満たされ、多くの人々を悔い改めへ導くのだ、と。
しかしザカリヤはそれが信じられません。
「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。
この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています」と答えます。
その不信仰ゆえに、彼は口を閉ざされ、言葉を失いました。

 この場面は、私たち自身の姿を映しているかのようです。
ある教会員の方は母親の救いを何十年も祈っていました。
しかしあるとき、その母親が「信じたい」と言ったとき、その方の口から出てきた言葉は「本当に?」だったそうです。
喜びよりも、お母さん、義理で信じるとか言っているんじゃないの、と疑いが先に立ち、神の恵みも、神の力も、素直に信じられなかった。
幸いにも、このお母さんは「じゃあやめる」とは言わなかったし、
その方自身も舌がもつれて話せなくなるという罰はなかったそうですが、
この経験の中で「自分の信仰は弱いな」と思ったそうです。
クリスチャンが何年も、何十年も、一つのことを祈り続けることができるのは、神の約束のことばを信じているからでしょう。
神のことばを信じるとは、神の力を信じる、ということです。
神のことばを信じることができなかったザカリヤの姿から、私たちが学ぶことは多いのです。

 ザカリヤの沈黙は厳しい裁きに見えますが、それは彼が祭司であり、人々に神のことばを語る務めを負っていたからです。
もし語るべき者が沈黙すれば、誰が救われるでしょうか。
私たちクリスチャンも同じです。
イエスの救いを体験しながら、世に対して沈黙してはいないでしょうか。
ある青年は、妹さんから「クリスマスって結局ケーキ食べる日でしょ」と言われた時、何も答えられなかったと告白しました。
「本当のクリスマスを語る勇気がなかった」と。

 その沈黙は、ザカリヤの沈黙と重なります。
祭司である彼は、ふだんは民に対して、神のことばに従って生きることの大切さを語っていました。
その自分が、神のことばを信じなかったゆえにさばきを受けているという無力感や失望は計り知れないものだったでしょう。
彼は大声で恵みを叫びたかったのに、一年近く沈黙を強いられました。
しかしクリスマスは「イエスは主なり」と叫ぶ日です。
十字架で私たちの罪を贖い、いのちを与えるためにイエスさまが生まれてくださったことをほめたたえる日です。
もし私たちが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできません。

 先ほどの青年は、妹の言葉に対する沈黙を反省し、「クリスマスって何を祝う日?」と友人が聞いてきたとき、勇気を出して「イエス様の誕生日だよ」と答えたそうです。
すると友人は「初めて知った」と驚き、しかし同時に彼の一言が、友人の心に何かを与えたようです。
教会のクリスマス集会に来てくれたということでした。
今、私たちは語ることができます。叫ぶことができます。「イエスは主なり」と。
ザカリヤが沈黙を強いられた一年を思う時、私たちに与えられている「語る自由」がどれほど大きな恵みかを知ります。
私たちが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできないのです。
今週も、周りの人々にイエスの恵みを語っていきましょう。

 

「暗やみに光さすとき」(イザヤ9:1-7)

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 みなさん、おはようございます。

 本日の聖書箇所は、イザヤ書の一節からの招きです。
私たちはここで、「暗やみの中にいる民に光が差す」という約束を聞きます。
それははるか昔、あるいはどこか遠くにいる人々のことを指しているのではありません。
神の光をいただいていながら、いまも自分の我に引きずられて歩んでいる、私たちをも指しているのです。
イザヤの言葉は時を超え、私たち一人ひとりの人生に直接語りかけてきます。
今日はその言葉を丁寧に読み解き、私たちの現実にどのように適用されるのかを共に考えていきたいと思います。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」。

 この箇所に出てくるゼブルン、ナフタリ、ガリラヤという地名は、イザヤが語った当時、すでに荒廃し、人々の生活は破壊されていました。
町は残っていても、そこに住んでいた人々は捕らえられ、連れ去られ、代わりに異邦の民が移住させられ、民族の純血や誇りは傷つけられました。

 しかし忘れてはならないのは、イザヤが現実の暗やみを否定していないことです。
彼は現実を直視しています。
町は荒れ、人々は恥を受け、希望は奪われていました。
それでも彼は、「やみがなくなる」と宣言します。
現実の苦しみから目を背けず、そのうえで、神の圧倒的な光がやみを飲み込むのだと約束しています。

 注目すべきは、ここでイザヤが「受けた」「見た」「照った」といった過去形で語られている点です。
現実は暗く、未来は不透明であるにもかかわらず、イザヤはあたかもその光景がすでに起こったかのように語ります。
これは単なる詩的表現ではありません。
信仰から生まれる、揺るぎない確信の言葉です。

 私たちも同じように、苦しみの中にいるとき、未来を「まだ来ていないもの」として待ち続けることが多いでしょう。
しかし聖書は、神の約束が時を超えて「すでに」私たちの上に働いていることを教えます。
イザヤの言葉は、信仰とは未来を待つだけでなく、神の約束を現在の現実として受け取ることであると示しています。

 私自身の経験を一つ分かち合います。
30年前、私は病院のベッドで点滴につながれ、動けないままクリスマスを迎えました。
窓の外に見えるのは隣の病棟の壁と、わずかに差し込む太陽の光だけでした。
母が「来年は家で迎えられるよ」と言ってくれたとき、私は力なく頷きました。

 人は時間の中で生き、時間に希望を託します。
苦しみがいつまで続くのかを考え、時が来れば変わるだろうと期待します。
しかし、神は時間を超越しておられます。
私たちが「いつか」と待つ間に、神にとっては暗やみも光も一瞬の出来事に過ぎません。
だからこそ、神の視点をいただくことができれば、夜明けの光はすでに私たちの上に差し込んでいるのです。

 私の病床でのクリスマスも、後になって振り返れば、神の導きと回復の一部であったことが分かりました。
苦しみのただ中にいるときでも、神の永遠の視点は私たちに希望を与えます。

 同じイザヤ書には、神のことばについて、次のように書かれています。
「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。
まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 神のことばは、単なる道徳的教訓や慰めの言葉ではありません。
それは神ご自身の宣言であり、時を超えて成就する力を持っています。
イザヤが「光が照った」と過去形で語ったのは、神のことばが既にその力を持っていると確信していたからです。

 しかし問題は、その確信をどうやったら私たちは自分のものにできるのか、ということでしょう。
その秘訣の一つは、「希望」についてのイメージを変えることです。
多くの人は希望を「未来の良い出来事が起こること」としてのみ捉えます。
しかし聖書は、希望とは、良いことが待っている未来のことを言うのではなく、神の約束が既に働いている、いま現在のことを言っています。
暗やみの中にあっても、神の光はすでに差し込んでいると信じることが、私たちの心を支えます。
具体的には、苦しみや不安に直面したとき、まず聖書の約束に立ち返る習慣を持ちましょう。
祈りの中で神の言葉を思い起こし、神の約束を口に出して告白することは、信仰の目線を「未来」から「現在」へと移す助けになります。

 その神のことばが、私たちすべての人類に対して、福音を告げています。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
 この預言は、単に未来の出来事を予告するだけではありません。
神が人となって来られるという驚くべき真実を示しています。
救い主は人として生まれながら、神の性質を持ち、私たちのために十字架の道を歩まれました。
イエス・キリストはまさに「平和の君」として、私たちの罪と死に対して勝利を宣言されました。
イザヤの預言は、単なる歴史的予告ではなく、私たち一人ひとりに向けられた招きです。
イエスは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として来られ、私たちのために命を捨て、復活によって勝利を成し遂げられました。

 この方を救い主として受け入れるとき、私たちは救われます。
そして救われるとは、人生の支配権を神に委ねることです。
罪恐れ、孤独に支配されているならば、その支配から解放される道がここにあります。
教会はその出会いの場であり、互いにその喜びを分かち合う者たちが集まる場所でもあります。

 ですから、今日ここにいる皆さんに問いかけます。
あなたはどこに希望を置いていますか。
地上の状況にですか、それとも永遠の神の約束にですか。
もしまだ救い主との出会いを経験していないなら、今がその時です。
もし既に信じているなら、日々の生活の中でその希望を実践し、周囲に光を放つ者となりましょう。
それでは、お祈りをいたします。

 神様、私たちの暗やみを知っておられる方、あなたのことばによって私たちに光を与えてくださることを感謝します。
苦しみの中にある者、傷つき疲れた者、希望を見失いかけている者に、どうかあなたの光を見させてください。
私たちがあなたの約束に立ち、日々の歩みの中でその希望を生きることができますように。
救い主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。

 

「キリストの足跡に続く道」(マルコ8:27-38)

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 みなさん、おはようございます。
信仰の歩みは、螺旋階段のようだとよく言われます。
一周回っても、見える景色は前と同じ。進んでいるのか不安になる。
でも、立ち止まらずに歩き続ければ、確実に高みに近づいている。
そんな歩みが、私たちの人生にもあるのです。
クリスチャンであっても、時にこう思うことがあります。
「何年も信じているのに、なぜこんなに弱いのか」。
けれど、弟子たちも同じでした。奇跡を見たかと思えば、パンのことで言い争う。
浮き沈みの激しい歩み。でも、確実に成長していたのです。
だから、私たちも希望を持っていい。信仰は、少しずつでも前に進んでいるのです。
今日は、イエスさまが弟子たちを時に諫め、時に諭しながら、十字架へ続く道へと導いてくださる信仰のすばらしさを一緒に学んでいきたいと思います。

 それでは、今日の聖書の舞台を丹念に見ていきましょう。
舞台はピリポ・カイザリヤです。
カイザルというのはローマ皇帝のことですが、「ピリポ・カイザリア」とは、「ユダヤ人の王ピリポから、ローマ皇帝へささげられた町」という意味です。
一面、田んぼしかなかっただだっ広い所に、突然、ローマ本国にも負けないような最先端の町が作られました。
それがピリポ・カイザリア、ローマ皇帝の権力と富を象徴する町。
大理石の神殿、巨大な劇場、豊かな生活がそこを訪れる者たちには約束されました。
しかしたった一つだけ、条件がありました。
ローマ皇帝を、己の神として拝むことです。

 イエスが弟子たちをこの町に連れてきたのは、もちろんローマ皇帝を拝ませるためではありません。
むしろその逆です。
皇帝を拝めば、すべての快楽が手に入ることを約束しているこの場所で、あなたがたはわたしをだれだと言いますか、と聞きました。
その時彼らは、こう答えたのです。「あなたはキリストです」。
「キリスト」とは、救い主という意味。
そして、王や皇帝にまさる、まことの神の子という意味です。
彼らは、目に見える富や権力ではなく、目に見えない神の栄光を選んだのです。

 ピリポ・カイザリヤの町は、弟子たちにこう語りかけていたでしょう。
「おまえたちは、いつまでそんな貧乏たらしい、自称神の子につき従っているのか」。
しかし彼らは、その声に抗いました。
あなたはキリストです!と目の前のイエスだけを見つめながら。
現代の私たちも、同じ問いに直面します。
何を選ぶのか。目に見える成功?それとも、永遠に価値あるもの?
SNSで「いいね」を集めること、安定した収入、快適な生活。
それらは悪いものではありません。
でも、それが人生のすべてになってしまうなら、私たちは本当に大切なものを見失ってしまうのです。

 しかしじつは、ここで弟子たちが考えていたキリストと、イエスさまご自身が考えておられたキリストのあいだには、大きな食い違いがありました。
弟子たちが考えていたキリストとは、この地上の王としてローマ帝国さえも打ち倒し、イスラエルを再興してくださるお方です。
あらゆる剣や弓矢もはねのけ、どんな者も傷一つ与えることができないような、力と栄光に溢れたお方、それが彼らの信じていたキリストでした。
しかしイエスは弟子たちにこう語られました。31節、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と。

 この言葉は、弟子たちにとって衝撃でした。
勝利ではなく、敗北のように見える道。彼らは混乱します。
それも当たり前、なぜなら、神の救いの計画は、人間の常識とは違うからです。
力ではなく、犠牲によって救いがもたらされる。
その道を、イエスは選ばれました。
現代の私たちも、同じように「苦しみを避けたい」と願います。
問題のない人生、平穏な毎日。
しかし、聖書は別の箇所で、「苦しみを通してこそ希望は生まれる」と語っています。
苦しみは、無意味ではありません。
神はそれを用いて、私たちを成長させるのです。

 しかしこのときの弟子たちは、みな未熟でした。
一番弟子であるはずのペテロでさえそうでした。
ペテロはイエスをわきへ連れて行き、「そんなことがあってはならないことだ」と諫め始めたのです。
それは、彼なりの、師弟愛であったのでしょう。
しかしその師弟愛は、師であるイエス自身から、極めて厳しい言葉で否定されてしまいました。33節をご覧ください。
「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 なんと厳しい言葉でしょうか。
しかしその厳しさの下にある、十字架への道を見落としてはありません。
ペテロは、イエスを守りたいという人間的な思いにとらわれていました。
しかし神の視点は違います。
救いは、十字架を通してしか成し遂げられないのだ。
私たちも、時に「人のこと」を優先してしまいます。
居心地の良さ、現状維持。それが、神のことを見失わせるのです。

 礼拝説教の中で、愛や恵みを語る時には喜んで聞くけれども、さばきや地獄については、どこか居心地の悪さを感じることがあります。
それは、クリスチャンが説教を聞くとき、いつも自分のことよりも、教会に来ている求道者の人がこの説教を聞いたら、どう思うだろうかということを考えて、もっとマイルドに語ってくれたら良いのにとか思ってしまうのです。
そしてもし、たまたまその日の礼拝はクリスチャンだけで求道者の人はだれもいないのに、さばきや地獄について聞くとそわそわしてしまうのは、私たちの頭の中がパターン化してしまっているのです。
福音を必要としているのは自分自身なのに、すぐに求道者とか子どものことばかり考えてしまうわけですね。

 「下がれ、サタン」とは、ペテロがサタンに取り憑かれていたという意味ではなく、あらゆる信者の中にふつふつと生きている、人にとっての受け入れやすさを神のことばの厳しさよりも優先する、その心です。
そして神のことばの厳しさは、イエスさまの次の言葉によって頂点に達します。34節をご覧ください。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
 十字架刑は、当時もっとも残酷な刑罰でした。
死刑囚は、自分がかけられる十字架を担いで刑場まで歩き、群衆の嘲りを受けながら処刑されます。
イエスは、その道を歩まれました。
そして、私たちにも同じ道を歩むように招いています。
このとき弟子たちと一緒に呼び寄せられた群衆の多くは、パンを求めてイエスについてきました。
でも、弟子は違います。十字架を背負ってついていく。
それは、苦しみを避けない生き方です。
現代で言えば、価値観の衝突、人間関係の緊張、時に孤独。
それでも、イエスに従う道を選ぶこと。それが、まことの弟子の姿です。

 「自分を捨てる」とは、単なる自己否定ではありません。
ギリシャ語では、一度きりの決定を意味します。
イエスを信じたとき、私たちはすでに自分を捨てたのです。
なのに、また拾ってしまいます。欲望、安心、承認欲求。
あまりにも多くのものを抱え込みすぎて、十字架を背負えなくなっていることはないでしょうか。
イエスさまは36節でこう問いかけておられます。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか」。
この問いは、現代にも響きます。成功、富、快楽。
それらは本当に、命と引き換えにできるほど価値があるのでしょうか?
 後にペテロは手紙の中でこう書き残しています。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(「ペテロの手紙 第一」2章21節)。
苦しみは、神に喜ばれることです。なぜなら、その先に栄光があるからです。
イエスが歩まれた道を、私たちも歩みます。
それは決して楽な道ではないでしょう。
でも、その道を最後まで歩き続けたとき、私たちは永遠のいのちのすばらしさに気づくことでしょう。

 この一週間、あなたはどんな十字架を背負いますか?
それは、人間関係の中での誠実さかもしれない。誘惑に抗う勇気かもしれない。
小さな決断の積み重ねが、キリストの足跡に続く道になるのです。

 

「岩の上に家を建てよう」(マタイ7:24-27)

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 みなさん、おはようございます。

 先週の礼拝メッセージでは、旧約聖書のエズラ記から、神殿の再建工事について語らせていただきました。
神殿の基礎ができあがったとき、老いも若きも、あらゆる民が、ある者は喜びの涙を流し、ある者は悔い改めの涙を流しながら、叫び声をあげました。
いま、私たちの教会堂の工事も、基礎工事をほぼ終えました。
聖書と違って、実際の工事に携わったのはレビ人ではなくて大工さんたちですが、私たちも神さまに感謝しつつ、教会堂が建て上げられていくことを喜び、祈っています。
今日の礼拝メッセージでは、旧約聖書から新約聖書にまた戻り、イエスさまの有名なたとえ話、家を建てた二人の人の姿から、私たちの人生に必要なものを一緒に考えていきましょう。

 みなさん、想像してください。
大雨が降り、川があふれ、強い風が吹き荒れる中、二つの家があります。
一つは岩の上に建てられた家、もう一つは砂の上に建てられた家。
どちらが倒れないでしょうか。
イエス・キリストは、このたとえ話の直前に、みことばは聞くだけではなく、実践してこそ意味があるということを語っておられます。
そのうえで、聞くだけではなく実践することを岩を掘りぬいてそこを家の礎とすることにたとえて、こう語られました。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。
岩の上に土台が据えられていたからです」と。
このたとえ話は、私たちの人生に深い意味を持っています。
今日は、この言葉から「揺るがない土台を持つ人生」について、一緒に学んでいきたいと思います。

 日本には、「四季」という言葉があるように、一年は春夏秋冬、四つの季節に分けられます。
春から夏へ、夏から秋へ、という次の季節へは、少しずつ変わっていきます。
一方、聖書の舞台である、イスラエルという国は、乾期と雨期がはっきり分かれています。
乾期にはほとんど雨が降りませんが、雨期になると、空の巨大な水タンクが一気に開いたような豪雨が襲います。
しかも地面は岩や石ばかりで、水がしみこまず、洪水になります。
家を守るためには、岩まで深く掘って土台を作るしかありません。
時間もお金もかかりますが、それを怠れば、家は必ず流されます。
現代の建築では、基礎工事や、地盤補強工事をしっかりと行うことは常識ですが、イスラエルでは何千年も前から、家を建てるときに必死で岩まで掘りました。
なぜでしょうか。嵐が必ず来ることを知っているからです。
嵐に立ち向かうには土台が必要です。これは私たちの人生にも当てはまります。
嵐は必ず来ます。病気、失敗、悲しみ、死…避けられない現実です。
だからこそ、しっかりした土台が必要です。

 みなさんの人生の土台は何でしょうか。
お金でしょうか、仕事でしょうか、健康でしょうか。
それらは、多くの人々が、人生に必要なものと考えています。
ですから、これらがもし失われたときのために、保険が用意されています。
健康保険、盗難保険、失業保険、などなど。
しかし保険そのものは嵐に耐えられる土台にはなりません。
どんなに高額の保険を、あらゆるものにかけていたところで、私たちを支えるものはお金そのものではないからです。
事故や病気になったとき、どんなにお金があっても不安な人もあれば、一切のお金が入ってこなくても、平安な人たちがいます。
それがクリスチャンです。しっかりした土台を持っている人たちです。
みなさんのことです。

 クリスチャンが平安を知っているのは、この人生にやがて訪れる「終わり」を正しく理解しているからに他なりません。
聖書は、人生には必ず「終わり」があると教えているからです。
終わりを考えない人は、不安を抱えたまま生きます。
しかし、終わりを見つめる人は、安心して人生を楽しめます。
伝道者の書12章13、14節にはこう書かれています。
「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神はすべてのわざをさばかれるからだ。」
 最近「終活」という言葉をよく聞きますが、多くは家族に何を残すかという話です。
でも本当に大切なのは、神の前に立つ準備です。
あるクリスチャンの高齢者がこう言いました。
「死は怖くない。イエスさまが待っていてくださるから。」
この言葉には深い平安があります。
では、どうすれば、神の前に立つ準備をすることができるのでしょうか。
聖書の答えは、シンプルです。準備などしなくてもよい。
この人生の中で、唯一、イエスを信じるという選択をしたならば、あとは特別な準備がなくても、すべては神が導いてくださる、と。

 お金や人間関係は死後に持っていけません。必要なのはイエスを信じることです。
イエスを信じるとは、イエスの言葉を聞いて、それを行うことです。
これは単なる道徳ではありません。
イエスは私たちを愛し、十字架で罪の代わりになってくださいました。
キリストの十字架が、私のさばきの代わりであったのだと信じるなら、もはや私たちは、死を恐れる必要がなくなります。
神の前でさばかれることはありません。さばきはすべてイエスが受けてくださったからです。
むしろ死は、私たちがイエスさまと一緒に生きてきた、よい報いを受け取ることができる幸いへの旅立ちの時となります。

 昭和29年、北海道で大型台風があり、洞爺丸という船が沈みました。
千人以上が亡くなる中、カナダから来た宣教師たちが乗っていました。
彼らは恐れる人々を励まし、救命具を配り、最後まで助け続けました。
ある宣教師は自分の救命具を学生に譲りました。ヨハネ15章13節にはこうあります。
「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない。」
なぜそんなことができたのでしょう。イエスの愛を知っていたからです。

 あり得ない仮定ではありますが、もしこの洞爺丸の乗客が、この宣教師と、その学生の二人しかおらず、そして救命具は一人分しかなかったとしたら、この宣教師はどうしたでしょうか。
おそらく、同じことをしたでしょう。
そしてイエス・キリストも同じです。
もしこの世界に、人間は私一人しかいなかったとしても、その私のためだけに、十字架にかかって死んでくださったでしょう。
私という人間が社会に必要だとかいう理由など一切なく、私が今ここで自分の罪におぼれかけているという事実のゆえに、私のために、いな、あなたのために、十字架にかかってくださいました。

 ローマ8章38~39節にはこうあります。
「死も、いのちも、あらゆるものも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。」
イエスを信じる人は、死んでも生き続けます。
仏教や神道を含め、あらゆる宗教に共通して描かれている、死後のさばきを一切、恐れる必要はありません。
イエスがすべてを引き受けてくださったことを心から信じるときに、私たちの人生は、そのときから恐れが消えていくのです。
祈りましょう。主よ、私の人生の土台をあなたに置きます。
嵐が来ても倒れない人生を歩ませてください、と。