真ん中の再生ボタンを押さず、左下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます
ここをクリックすると説教原稿が出てきます
みなさん、おはようございます。アドベントも第二週に入りました。
「アドベント」という言葉が「待ち望む」を意味することは、毎年この時期に繰り返し語られてきました。
しかし、少し皮肉を込めて言えば、私たちが本当にクリスマスを待ち望んでいるか、疑わしく思えることがあります。
今年は新会堂工事がありましたので秋のバザーは行いませんでしたが、例年ですと10月にはバザーがあり、一仕事終えたなあという余韻の中で11月があっという間に過ぎていきます。
気づくと月末になり、「来週からアドベント?早いね」と口にしながら、キャロリングの練習もしなければならない。
今年はもう時間がないから来年こそ夏から練習を始めよう。
あれ、去年の今ごろもそんなこと言っていたな、と。
待ち望むどころか、「クリスマスが一ヶ月先だともう少し余裕があるのにな」と願うほど、忙しさに追われています。
しかし聖書を読むと、神が人を召されるのは、むしろその人が忙しく働いている時です。
モーセは羊を追っている時に、ギデオンは酒ぶねで小麦を脱穀している時に、ペテロやヨハネは網を修理している時に、
そして祭司ザカリヤは神殿で香をたいている時に、神の呼びかけを受けました。
ある方がこう証ししてくださいました。
若い頃、仕事が忙しくて、12月24日、教会ではイブ礼拝が開催される夜も残業の時があった。
礼拝より仕事が優先なのかと、自分の心を責めていた中、ふと心に讃美歌の一節が響きました。
「神の御子は今宵しもベツレヘムに生まれたもう」。
そのときこう思ったそうです。
「イエスさまは今夜、私のために生まれてくださる。
イブ礼拝には出られなかったけど、家に着いたら、クリスマスの箇所をじっくり読んでみよう。」
彼は今牧師をしています。
そのクリスマスの晩に読んだみことばが、彼の献身のきっかけになったそうです。
忙しさの中でこそ、聞こえてくるみことばが、確かにあるようです。
さて、祭司にとって、神殿で香をたく務めは一生に一度あるかないかの名誉でした。
ザカリヤは一生懸命、その務めに向き合っていた中で、御使いと出会います。
何か粗相をして、神を怒らせてしまったのか。
と思ったのかはわかりませんが、旧約時代、人は御使いを見たら死ぬと考えられていました。
ザカリヤはもはや香をたくどころではない、取り乱し、恐怖に襲われます。
しかし御使いは彼に言いました。
「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」。
さらに御使いはすばらしい知らせを彼に告げました。
待望の子どもが与えられ、その子は母の胎にいる時から聖霊に満たされ、多くの人々を悔い改めへ導くのだ、と。
しかしザカリヤはそれが信じられません。
「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。
この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています」と答えます。
その不信仰ゆえに、彼は口を閉ざされ、言葉を失いました。
この場面は、私たち自身の姿を映しているかのようです。
ある教会員の方は母親の救いを何十年も祈っていました。
しかしあるとき、その母親が「信じたい」と言ったとき、その方の口から出てきた言葉は「本当に?」だったそうです。
喜びよりも、お母さん、義理で信じるとか言っているんじゃないの、と疑いが先に立ち、神の恵みも、神の力も、素直に信じられなかった。
幸いにも、このお母さんは「じゃあやめる」とは言わなかったし、
その方自身も舌がもつれて話せなくなるという罰はなかったそうですが、
この経験の中で「自分の信仰は弱いな」と思ったそうです。
クリスチャンが何年も、何十年も、一つのことを祈り続けることができるのは、神の約束のことばを信じているからでしょう。
神のことばを信じるとは、神の力を信じる、ということです。
神のことばを信じることができなかったザカリヤの姿から、私たちが学ぶことは多いのです。
ザカリヤの沈黙は厳しい裁きに見えますが、それは彼が祭司であり、人々に神のことばを語る務めを負っていたからです。
もし語るべき者が沈黙すれば、誰が救われるでしょうか。
私たちクリスチャンも同じです。
イエスの救いを体験しながら、世に対して沈黙してはいないでしょうか。
ある青年は、妹さんから「クリスマスって結局ケーキ食べる日でしょ」と言われた時、何も答えられなかったと告白しました。
「本当のクリスマスを語る勇気がなかった」と。
その沈黙は、ザカリヤの沈黙と重なります。
祭司である彼は、ふだんは民に対して、神のことばに従って生きることの大切さを語っていました。
その自分が、神のことばを信じなかったゆえにさばきを受けているという無力感や失望は計り知れないものだったでしょう。
彼は大声で恵みを叫びたかったのに、一年近く沈黙を強いられました。
しかしクリスマスは「イエスは主なり」と叫ぶ日です。
十字架で私たちの罪を贖い、いのちを与えるためにイエスさまが生まれてくださったことをほめたたえる日です。
もし私たちが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできません。
先ほどの青年は、妹の言葉に対する沈黙を反省し、「クリスマスって何を祝う日?」と友人が聞いてきたとき、勇気を出して「イエス様の誕生日だよ」と答えたそうです。
すると友人は「初めて知った」と驚き、しかし同時に彼の一言が、友人の心に何かを与えたようです。
教会のクリスマス集会に来てくれたということでした。
今、私たちは語ることができます。叫ぶことができます。「イエスは主なり」と。
ザカリヤが沈黙を強いられた一年を思う時、私たちに与えられている「語る自由」がどれほど大きな恵みかを知ります。
私たちが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできないのです。
今週も、周りの人々にイエスの恵みを語っていきましょう。


