恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

会堂建設工事①10月前半

10/1から会堂建設工事が始まっています。

今は基礎工事の段階、まだ地面を掘っているところですが、

約250坪の敷地のうち1/3が工事現場、1/3が古民家(臨時礼拝堂)、その狭間の1/3に、約15台の車が駐車します。

しかし実際には15台も駐められず、毎回、パズルのような感じで車を入れたり、出したり。牧師としてはケガ人が出ないのを祈るばかり。

とはいえ、教会員の方にとって、毎週日曜日のたびに工事の進捗が目に見えて伝わってくるのは、「いま、建てているんだなあ」というのが実感できる経験です。

とりあえず、工事現場は、10/12の段階では、こんな感じです。

もう少しアップ

おまけ。牧師は研修会で松原湖にいきました

 

「愛が歪んでしまう前に」(創世25:19-34)

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 みなさん、おはようございます。
今日は旧約聖書、イサクとリベカの夫婦の物語から、信仰を学んでいきましょう。

 リベカはパダン・アラムという遠い国からイサクのもとへ嫁いできました。
けれども、彼女を待っていたのは不妊という苦しみでした。20年間、子どもが与えられない痛みに耐えなければならなかったのです。
私たちの人生にも、「こんなはずじゃなかった」と思う瞬間があります。
クリスチャンであっても例外ではありません。
「神は祝福してくださるはずなのに、なぜこんなことが起こるのか」と思うこともあるでしょう。
しかし神の祝福は、単なるご褒美ではありません。
それは、神の働きのために私たちが用いられるための準備でもあるのです。
財産が与えられるなら、それは神のために用いる責任が伴います。
健康が与えられるなら、それは神に仕える力として用いられるべきものです。

 神が私たちを祝福される、とはその祝福を自分ではなく、誰かのために用いるためのものです。
だからこそ、神は祝福の前に試練を与えます。
用いるためには、私たちの信仰が育てられなければならないからです。
イサクの両親であるアブラハムやサラもたくさんの失敗を犯しました。
しかし神はその失敗を用いて、彼らの信仰を練り上げてくださいました。
そしてイサクとリベカも、さまざまな試練を通して神の計画にふさわしい者へと整えられていったのです。

 私たちは生活が自分の思うようにいかない時、「こんなはずじゃなかった」と口走ります。
しかし私たちの人生の主導権は、ただ神が握っています。
「こんなはずかどうか」は、ただ神だけがご存じです。
もし私たちが今、暗闇を歩んでいるように見えたとしても、それは私たちを神のこどもにふさわしい、内側から光を発する者として練り上げていくためです。
イサクもリベカも、そして私たちも、試練の中でそのことを学ばなければならないのです。

 ではまず夫であるイサクはこの試練にどう答えていったのでしょうか。
聖書は21節で、このように述べています。
「イサクは、自分の妻のために主に祈った」。
聖書には、信仰をもった夫婦が数え切れないほど登場します。
しかし聖書の中で、「妻のために」祈ったと記録されているのは、後にも先にもこのイサクだけです。
パウロは、愛弟子テモテへ送った手紙の中で、男がするべきことは「きよい手を上げて祈ることだ」と語っています。
とくに新潟では、杉の木と男の子は育たないということわざがあるくらいで、教会でも、男性は女性に引っ張られる傾向にありますが、しかし夫のほうから妻に「よし、祈ろう」と声をかける信仰がほしいと思います。

 二十年にわたる夫の祈りを通して、ついに神はリベカの体に子どもを宿してくださいました。
よかったよかったという感謝も束の間、今度は、胎内の子どもたちが激しく争います。
しかし二十年の夫の祈りは、妻の胎を開くだけではなく、彼女自身の心も開いていました。
初めは、経験したことのないことを前にして「こんなことではいったいどうなるのでしょう、私は」と口にしたリベカでしたが、しかし彼女はすぐに「主のみこころを求めに出て行った」のです。

 私たちは、毎日神の取り扱いの中で生きています。
昨日まではほほえみを向けて下さっていた主が、今日は態度を豹変し怒りをむけられているような思いにとらわれることも、信仰生活の中では時として起こります。
しかしそのような時、私たちは思い起こすべきでしょう。
神は私に特別の計画を持っておられるということを。
私たちにはそれを完全に知ることはできません。
しかしそれを求めにいくことはできます。
一人みことばの前に静まり、ただ神の思いを共有しようとする、幸いなる祈りと黙想の時。
主との交わりの中で立ち上がる力をいただくことができる場所。
それを私たちも持ちたいと願います。

 しかし、イサクとリベカの家庭には、やがて新しい問題が起こってきます。
それは「偏った愛」でした。
イサクは兄エサウを、リベカは弟ヤコブを、それぞれ愛しました。
しかしそれは純粋な子どもへの愛ではありません。
自分の欲望のために子どもを利用する、エゴでした。
聖書は、そんたくなしにこう記しています。

28節、「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。
しかし、リベカはヤコブを愛していた」と。

 イサクは、エサウそのものではなく、彼が持ち帰る獲物を愛していたのです。
エサウは山で猟をすることを好む少年になりました。
獲物を持ち帰れば父が喜んでくれるからです。
しかし山に入っても獲物がとれなければ、父は露骨にがっかりしたことでしょう。
そんな育て方をされたエサウは、「結果がすべて」という価値観を持つようになります。
愛は条件付きでしか得られないものだと、彼は思い込むようになったことは想像に難くありません。

 リベカもまた、ヤコブを愛しました。
しかしそれもまた、純粋な愛ではありませんでした。
父に愛されない弟ヤコブへのあわれみですらありません。
リベカ自身が夫イサク、息子エサウと関係が薄くなっていくなかで、ヤコブを愛することで自分の存在価値を見出すような、偏った感情でした。
自分が必要だと認めてくれる者であれば、ヤコブでなくても、誰でもよかったのです。
愛と呼ぶにはあまりにもいびつ、しかしそのようないびつな関係の中でようやく支えられている夫婦や親子、家庭が、今日の社会ではあふれているのもまた事実です。

 夫婦関係、親子関係を支える基盤が、それぞれの間のコミュニケーションであることは言うまでもありません。
クリスチャン家庭においては、それは自分に語られている神のことばをいかに分かち合っているかということです。
それがなければ、家庭は分裂します。
神はリベカに、これからこの家庭から始まる、神の計画を確かに語っておられました。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。
一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」と。
イサクとリベカは、この神の計画を共有し、双子の子どもたちを愛をもって育てるべきでした。

 しかし、彼らは話し合わず、それぞれが自分の思いで子どもをえこひいきしました。
家庭は分裂し、兄弟も傷つきました。
このような家庭を回復するために必要なものは「悔い改め」です。
父と母の偏った愛、兄弟の争い、それらすべてを神の前に悔い改めることが求められていたのです。
私たちもまた、問題が起こったとき、それを隠すのではなく、明らかにし、話し合い、信仰をもって赦し合うことが大切です。
しかし話し合う力も、赦す力も、私たち人間から生まれるものではありません。
イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを思うとき、赦しの力が私たちの中に生まれます。
イサクとリベカの夫婦の記録の中には、私たちにとって光と影、両方が描かれています。
偏った愛に生きるのではなく、本物の愛に生きるべき、と。
本物の愛、それは、いのちを捨ててまで私たちを愛してくださったイエス・キリストの中にあります。
これからの一週間、キリストにある愛をかみしめながら、それぞれの置かれている場所で歩んでいきましょう。

「いのちのパンを手渡して」(マルコ8:1-10)

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 みなさん、おはようございます。

 今日の聖書箇所は、食べるものにも事欠く人々が集まった中で、イエスさまがパンを増やして人々に与えたという物語です。
じつは同じマルコ福音書の6章にも、これとよく似た話が記されています。
そこでは、五つのパンと二匹の魚が、五千人に与えられて、残ったパン屑を集めたら十二のかごに一杯になったという奇跡が記されています。
それに対して今日の箇所では、パンは五つではなく七つ、小魚は二匹ではなく少し、
そして五千人ではなく四千人に分けられて、
残ったパン屑は十二ではなく七つのかごに一杯になった、
とそれぞれの数字が微妙に異なっています。

 なぜマルコは、似たような話を二度も記録したのでしょうか。
それは言うまでもなく、この出来事がとても大切だったからです。
マルコがとても大切だと考えた、というよりも、
イエスの後を継いで宣教の働きを担っていた弟子たちにとって、この奇跡は何度でも書かなければならないものだったということでしょう。
彼らは、このパンと魚を与えるという奇跡の中に、イエス・キリストというお方の本質を見ました。
このイエス・キリストは、心とたましいの飢え渇きを満たしてくださるお方です。
しかしイエスさまが満たしてくださるのは心の飢えばかりではありません。
物質的な飢えもまた、満たしてくださるお方なのだ、ということなのです。

 先日、ある政治家が子ども食堂を視察した際、誕生日のケーキをごちそうになったというSNSの投稿がたちまち炎上するという出来事がありました。
いろいろと厳しい意見が飛び交いましたが、子ども食堂のような場所が地域に用意されていることに、素直に感謝したいと思います。
イエス・キリストが生きていた時代にはそのようなものはありませんでした。
人々は毎日の食事にも事欠き、常に空腹を抱えていました。
イエス・キリストが教えた「主の祈り」の中にも「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉が出てきます。
食べものがあることは当たり前、という社会ではありませんでした。
そんな中、イエスさまは群衆を見て言われました。
「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。
空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります」と。
イエスさまは、現実の苦しみに目を向け、「かわいそうに」と心を寄せてくださる方です。

 教会に電話がかかってくるとき、「お金を送ってください」と求められることも多くなりました。
詐欺なのか、本当なのか、どちらなのだろうと思いつつ、話を聞きますが、そのときにすでに疑いながら相手の話を聞いてしまっている自分自身に気づくのです。
仮に詐欺だとしても、それをせざるを得ない苦しい事情もあるのかもしれません。
いずれにしても私は無力だ、と思います。
しかし私は無力でも、イエスさまは無力ではありません。
イエスさまは別のところで、「何を食べるか、何を着るかで悩んではいけない。
神は必要なものを与えてくださるお方なのだから」と語っています。
父なる神が、現実の問題を必ず解決してくださるという自信、確信に溢れています。
神の子どもである私たちが、決して見捨てられることはないのです。
しかしまず私たちがそれを信じなければなりません。
天に向かって叫ぶことをあきらめてはいけないのです。

 アジアから来ている留学生が、日本人の学生にこう聞いたそうです。
「物はこんなに溢れているのに、なぜ日本では自殺者が多いのか」。
そしてその友人が「物は溢れていても、人々は心が飢えているのだ」と答えると、納得したそうです。
イエスさまは、そんな私たちを見て、きっと今も「かわいそうに」と言われることでしょう。
確かにイエスさまは、私たちの現実の必要に答えてくださるお方です。
しかし本当に必要なものは、食べ物や着物だけではありません。
心に空いた穴、そこから湧き出るむなしさ、それが解決しなければ、どんなに物で穴を塞いでも私たちは飢えから逃れ出ることはできません。

 イエスさまが与えてくださったパンは「いのちのパン」でもありました。
目には見えないが、人の心を満たす霊的な糧です。
イエスさまは人々を地面に座らせた後、弟子たちにパンと小魚を分け与えていきました。
そして弟子たちがそれらを人々に手渡していくあいだに、パンと小魚はどんどん増えていきました。
これは、聖書のことばが人から人へと伝えられることで、心の飢えを満たす力になることを表しています。
聖書のことばは、ただ持っているだけでは意味がありません。
それを人に伝えるとき、奇跡が起こるのです。

 ユダヤ人も、異邦人も、そして今の日本人も、イエスさまの目には「羊飼いを失った羊」として映っています。
イエスさまは、どんな時代、どんな国の人にも、変わらないあわれみの目を向けてくださいます。
私たちもその視線を持ちたいのです。
家族、同僚、隣人を、イエスさまのように見つめていきましょう。
そして、私たちの手にあるみことば、「いのちのパン」を、周りの人に手渡していきましょう。
時には拒まれるかもしれません。でも、それでも差し出し続けるのです。
この一週間、与えられているみことばをかみしめ、周りの人と分かち合っていきましょう。

「十字架だけが私のすべて」(ガラテヤ2:15-21)

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 みなさん、おはようございます。

 今から約60年前、敬和学園高校が創立されたとき、校長である太田俊雄先生は開校式でこう祈ったと伝えられています。
「もし敬和学園の教育が右や左に曲がるようなことがあったら、どうか御名の栄光のために、学園をつぶしてください」。
一つの学校を始めるためには何十年の時間、何十億の資金、そしてそれ以上の人々の思いを必要とします。
「学園をつぶしてくれ」なんていう祈りは、それらに対する裏切りではないのか。
しかしもし学校が神の御心からそれるならば、潔く原点に立ち返る覚悟、それを太田先生はお持ちでした。
そして私たちにもその力の源、信仰があります。
神がすべてを始め、すべてを導き、すべてを完成される。
だからこそ私たちは、過去の伝統に縛られず、いつでもゼロからやり直すことを恐れません。
たとえ一度、あるいは何度でも、それまでのすべてが壊れても、神は必ず再創造してくださる、という信仰です。

 信仰とは何でしょうか。
多くの宗教は、人が心の拠り所を得るために、献金、宗教団体への奉仕、あるいは社会への善行、それらを信仰と説明します。
しかしキリスト教は、「人が何をするか」ではなく、「神がすでに何をしてくださったか」に焦点を当てます。
信仰の本質は、私たちの行いではなく、神の成し遂げられた事実に目を向けることなのです。

 ここで私たちは、このガラテヤ教会への手紙の作者、パウロの言葉に目を留めてみましょう。
彼はかつて熱心なユダヤ教徒であり、律法を守ることこそが救いへの道だと信じていました。
イエス・キリストを、偽物の救い主とみなし、クリスチャンを迫害していた人物です。
しかし、復活のキリストに出会った彼は、自分の信じていたことが誤りであったと悟ります。
そしてイエス・キリストを真の救い主と信じ、人生が180度変わりました。

 彼の信仰は、16節の言葉に表されています。

 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。
律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。
というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」

 人は皆、罪人です。
どんなに努力しても、神の命令を完全に守ることはできません。
だからこそ、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架にかかり、神の御心に従ってくださった。
そのイエスを信じることが、救いの唯一の道なのです。
すべてのクリスチャンが、その信仰にとどまることができたら、何も問題はありません。
しかしパウロはガラテヤ教会の中で起きているうわさを聞き、嘆きます。
十字架の恵みによって救われたはずのクリスチャンが、再び律法によって救いを得ようとする姿に心を痛めているのです。18節をご覧ください。

「もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。」

 この言葉の意味はこうです。
ガラテヤ教会の中に信仰を踏み違えている者がいる。
すなわち、十字架の恵みに、律法の行いを「上乗せ」しようとする人々が起きている。
彼らは、律法を行うことで義と認められる者はいないという言葉をかつて聞いたにもかかわらず、律法も守ればもっと神に喜ばれるだろう、と勘違いしている。
十字架にしか救いはない。
しかしその十字架だけでは不十分だと考え、十字架に混ぜ物をすることこそは、自分自身を違反者にしてしまうことなのだ、と。

 正しいものと間違ったものが並んでいれば、人はすぐに気づきます。
しかし、正しいものの中に間違ったものが入り込んでしまうと、人は間違いに気づくことができません。
それを正しいものの一部だと誤認してしまうのです。

 最後に、その一つの事例を紹介します。
繰り返して語ってきたことなので、耳にたこができたという方もいるかもしれませんが、私と同じ過ちを犯すことがないように語ります。
私がクリスチャンになったのは高校三年生の時でした。
洗礼を受けた翌週から、礼拝の司会や教会学校の教師を務めました。
最初は喜びに満ちていました。
救われた感動があり、時間もあり、教会からの期待も感じていました。

 しかし大学を卒業して社会人になり、忙しさの中で奉仕を続けるうちに、喜びが失われていきました。
礼拝に出席することがつらくなり、奉仕の中でもイライラすることが多くなりました。
なぜ自分がそうなってしまったのか、最初はただのストレスだと思いました。
仕事の要領をつかみ、自分のペースでやっていけば、礼拝の居心地の悪さや、イライラも収まってくるはずと考えていました。
しかしそうはならなかったのです。

 私にとって、何が問題であったのか、今ではわかります。
私にとって奉仕は、神への喜びのいけにえではなく、厳格な神との関係を穏便につなぐための糸、あるいは手土産のようなものでした。
ただ十字架によって救われた恵みではなく、奉仕を通して、自分はクリスチャンとして何とか認められているという、間違った信仰に陥っていました。
聖書を読むのは神の声を期待して聞くためではなく、聖書を読まなければクリスチャンとは言えない、という自分で作ったルールのためでした。
祈り、交わり、証し、本来はすべてそれは喜びが原動力のはずですが、喜びはなく、義務感が私の中を支配していました。

 それでも神は私をあわれみ、信仰から完全に離れてしまう前に、私に気づきを与えてくださいました。
その気づきは、私にとって信仰の原体験であると共に、自分の醜さをこれでもかと見つめなければならない経験でしたから、みなさんにもそれを経験してほしいとは思いません。
しかし私の場合は、それを通して、偽物の自分の義と、本物の十字架の義を取り分けることができました。
私が何かを行うから救われているのではなく、ただキリストの十字架の犠牲によって救われたのだと信じることができたのです。

 パウロはユダヤ人のエリートでした。
しかし彼は、キリストを知ったとき、自分の積み重ねてきた努力を「ごみのようなもの」と言い切りました。
あなたの人生が栄光に満ちるのは、あなたが何をするかではありません。
すでにキリストが、あなたのために、あなたを愛し、あなたの罪の身代わりとして死んでくださった――その一度きりの歴史的事実を信じることによって、人生は変わるのです。
パウロは19、20節でこう告白しています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 私もまた、この言葉によって八方ふさがりの中から解放されました。
私の人格や実績ではなく、ただキリストが私のために死に、私の中に生きてくださることだけが、私のすべてです。
一人ひとりが、十字架、ただそれだけにしがみつく者として歩み続けましょう。

「エパタ-神が開かれるもの」(マルコ7:31-37)

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 みなさん、おはようございます。
 先週の礼拝メッセージでは、イエスさまがツロ・フェニキア地方というところにまで行かれて、外国人女性の幼い娘から悪霊を追い出すという出来事について語りました。
そのときイエス様は、その娘本人には会っていません。
家から遠く離れたところでイエスさまに助けを求めてきた、その女の子の母親の信仰をご覧になって、
「家に帰りなさい。あなたの娘から悪霊は出て行きました」と約束してくださいました。
そして母親が家に帰ると、確かに娘にとりついていた悪い霊はいなくなっていた、というところで物語は終わっています。

 このように、イエス・キリストは、ただ言葉だけで病の人をいやし、ただ言葉だけで悪霊を追い出し、ただ言葉だけで人をよみがえらせることのできるお方です。
しかし今日の物語では、言葉だけで何でもおできになるイエスさまが、耳が聞こえず、口がきけない人に対して、指を両耳に入れ、唾をつけてその舌に触られたということが描かれています。
ここに私たちは、先週の物語とは別の意味で、励ましを受けるのです。
先週の物語は、母親の信仰を喜んだイエスさまが、遠く離れたところにいる娘を一瞬でいやしてくださる、いわば、私たちの想像を超えた大きなお方、ということでした。

 しかし今日の物語は、その大きなお方が、私たちの耳の穴に指を差し込み、私たちの舌に触ってくださる、というスキンシップ、私たちひとり一人に直接触れてくださっていやしてくださる、ということが描かれています。
宇宙よりも大きなお方が、けし粒のように小さな私たち一人一人をも決してないがしろにされないのだ、ということです。
このイエスさまが私たちの友であり、救い主であることを心から感謝して歩んでいきたいと思います。

 ツロの地方からガリラヤ地方に戻ってきたイエスさまの前に、一人の人が連れてこられました。
耳が聞こえず、言葉を出すこともできません。
彼は音のない世界に生き、言葉を交わせない孤独の中にいました。
人間のコミュニケーションを司る器官の中で、彼には目だけが残されました。
現代であれば、そのような人であっても、音が聞こえず、口が閉ざされていても、筆談、パソコン、スマホなどで、意思を伝えることができるかもしれません。
しかしこの二千年前の時代において、それでも生きる希望を持て、というのは残酷すぎる励ましであったことでしょう。
彼は確かに生きていました。
しかし生きてはいても、この世界の中で、彼は孤独でした。
誰の声も聞こえない。誰にも声を聞かせられない。
世界から切り離されてしまった、いやされることのない疎外感。
それこそが、彼の心を覆っていた闇の正体でした。
現代に生きる私たちも、形は違えど「閉ざされた世界」に生きていることがあります。
誰にも言えない悩み、心の奥にある傷、神との関係が途絶えているように感じる時。
しかしこの聖書箇所は、そんな私たちに語りかけます。
イエスは、閉ざされた者に近づき、触れ、語り、癒してくださるお方なのだ、と。

  イエスさまは言葉だけで人をいやすことができます。
しかし言葉だけの関わりでこの人との関係を終わらせたくはなかったのです。
彼だけを群衆の中から連れ出したイエスさまは、そして指を耳に入れ、唾で舌に触れ、天を見上げて深く息を吐き、「エパタ」すなわち「開け」と言われました。
この一連の動作は、単なる儀式ではありません。
イエスの深い共感と祈りの表れです。
彼の痛みを感じ、彼の世界に入り込み、彼の閉ざされた部分に触れられたのです。
私たちが誰にも言えない思いを抱えている時、イエスさまは私たちを連れ出し、一対一で向き合ってくださる方なのです。

 「エパタ」とは、アラム語で「開け」という意味です。
「エパタ」はもちろん「開けゴマ」のような呪文ではありません。
しかしこの言葉は、いつの時代においても、耳だけでなく、心、魂、人生そのものを開く言葉です。
「エパタ」だけではありません。
イエスさまの口から出る言葉、すなわち聖書に記されたことばひとつひとつに、閉ざされたものを開く力があります。
傷ついた心に「開け」。
閉じ込められた希望に「開け」。
途絶えた祈りに「開け」。
神のことばは、私たちの内側にある閉ざされた扉を開き、新しい命の息吹を吹き込むのです。

 耳が聞こえず、口のきけない人は、イエスさまの指、唾、そして言葉によって、すべてを取り戻しました。
そしてイエスさまはこの奇跡を目撃した人々に対して、「このことをだれにも言ってはならない」と命じられましたが、人々はかえって言い広めました。
それは、神のなさることがあまりにも素晴らしかったからです。
「この方のなさったことは、みなすばらしい。
耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた」と。
これは、神の働きを目の当たりにした者の自然な反応です。
私たちも、神の恵みを体験したなら、それを語らずにはいられないのです。

 証しは、神の栄光を広げる力となります。
そしてその証しは、他の閉ざされた心を開く鍵にもなるのです。
私たち、この豊栄キリスト教会という小さな群に繋がる者たち一人一人の証しが、豊栄はもとより、それぞれが暮らしている場所に至るまで、そしてさらにこの日本そのものを変えていく、ということを、今日の箇所は約束しています。
私たちは決して無力ではありません。
いや、私たちは無力であっても、私たちの中に生きておられる方は、この世界よりも大きなお方なのです。
家庭や職場、近所でクリスチャンは私だけ、という人も多いでしょう。
しかし必ずあなたの証しは実を結んでいくのです。

 最後に、今日、あなたの中に閉ざされた部分はありますか?誰にも言えない悩み、祈っても届かないように感じる思い、自分には価値がないと思う心。
イエスさまは、あなたに語られます。
「エパタ」、開け、と。
その言葉は、いやしと希望、そして新しい歩みへの扉を開くのです。
神は、あなたを人々の中から連れ出し、個人的に向き合い、触れ、語りかけてくださいます。
そして、あなたの人生に新しい音を、言葉を、証しを与えてくださるのです。
それでは、祈りましょう。

 主よ、私たちの閉ざされた心に、あなたの言葉「エパタ」を語ってください。
あなたの優しさと力によって、私たちの耳を開き、口を開いて、あなたの恵みを語る者としてください。
私たちがあなたの癒しを体験し、それを証しとして広める者となれますように。アーメン。