恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「神が壁となったとき」(マルコ7:24-30)

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 みなさん、おはようございます。
本日も、マルコの福音書の中から、ともにみことばを味わっていきたいと思います。
 幼い娘が汚れた霊に取り憑かれて、たいへん苦しんでいた母親がいました。
イエスさまならば助けてくれるはずと信じて、その足元にひれ伏して悪霊を追い出してくれるようにと必死で求めます。
しかしそれに対してイエスさまはこう言われたのです。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。
子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです」。
まるで謎かけのような答えですが、少なくとも「子犬」が、彼女の娘を指していることだけはわかります。
 この時代のイスラエルでは、犬は自分の吐いたもの上を転がる汚い動物、ましてや子犬など、何の役にも立たないもの、といったイメージがありました。
なんとひどいことを言うのか。これが本当に救い主なのか。
多くの人は、ここでイエスさまが語っておられる、容赦ない言葉のゆえにつまずいてしまいます。
しかしその容赦ないイエスさまの言葉は、この女性の信仰をさらに高みに引き上げるためのものであったことをどう読み取っていただきたいと思います。
 同じようなことが、言葉ではなく、実際の出来事として私たちの上には起こります。
つまり、これが本当に愛の神が与えることなのかと思うような、苦しいこと、悲しいこと、傷つけられるような出来事が、私たちの上に起こります。
しかしどんなことであっても、それが私たちの上に起こる背後には、神さまが用意された愛のご計画があると信じることができる人は幸いです。
この女性もまたそうでした。
イエスさまの言葉を受け止め、最後には確かに娘のいやしをいただいたのです。

 今日の聖書箇所を読み解くにあたり、まず私たちはイエスさまのことばをつぶさに見ていくことにしましょう。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません」。
この「子どもたち」とはだれのことなのか。
結論から先に言えば、それはユダヤ人、すなわちイスラエル民族のことでした。
イエスさまは、すべての人にとっての救い主ですが、十字架にかかられるまでの三年半の公生涯の中で、働きを絞らなければなりませんでした。
やがては世界のあらゆる人々にむけて福音が語られていくことは確かなことでしたが、そのためには限られた時間の中で弟子を育てなければなりません。
ですから、イエスさまの宣教の働きは、ご自分の民である、ユダヤ人に限られていたのです。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません」とは、イエスさまに与えられた限られた時間の中で、まずユダヤ人に対しての伝道を優先しておられた、ということです。
 それに対してこの女性はギリシア人でした。
シリア・フェニキアの生まれであったとも書かれていますが、いずれにしてもユダヤ人ではなく、外国人です。
たとえユダヤ人から犬と言われてもガマンできる。
ユダヤ人から自分の子どもを子犬と呼ばれようと耐えてみせる。
でもユダヤ人でも、イエスさまだけは違うと信じていたのに、そのイエス本人から娘を子犬と呼ばれ、子犬にパンを投げてやるのはよくないことです、などと言われてしまっては、いったいどこに救いを求めたら良いのか。
もし私がこの女性の立場であったなら、悔しさで顔を真っ赤にし、イエスに平手打ちして帰って行ったかもしれません。

 しかしそんな場面を頭の中で想像してみたとき、私に平手打ちされるイエスさまは、それまでどこを見つめていたのだろうかというイメージが迫ってきました。
確かにイエスさまの言葉は、単純に見れば、冷淡そのものに見えます。
しかしその冷淡な言葉を発するときも、イエスさまはどこを見つめながら語っていたのでしょうか。
彼女の方を見向きもせずに、さぞめんどくさそうに語っていたのでしょうか。
決してそうではなかったでしょう。
常にこの女性を真っ正面から見つめながら、この容赦ない言葉を語られたはずです。
子犬という残酷な言葉を発するときも、彼女の目をまっすぐに見つめながら、語っていたはずです。
彼女の信仰をより高みへ導くために、イエスさまはあえて冷たい言葉を用い、それに彼女がどう答えるかを見つめておられたのです。
私たちは、信仰生活の中でさまざまな問題に直面します。
神さまからすぐに助けが差しのばされることもありますが、多くの場合、待機と忍耐を強いられます。
神がすべての計画を導いておられるのであれば、なぜこんなことが次から次へと起きてくるのか。
まるで神ご自身がもっとも大きな壁となって立ちはだかっているとしか思えないことさえも起こります。
しかしそれは、神が私たちの信仰をより高みへと引き上げるための、神の試練です。

 今から400年前、この箇所から語った牧師(もちろん外国人ですが)は、こんな言葉を残しています。
「信仰は、神の荒々しい一撃からさえも、その愛と優しさをかぎわけることができる力である」と。
信仰とは、何か問題が起こったらすぐに逃げ出して神の懐に飛び込むといった、現実逃避のための安易な手段ではありません。
追い迫る問題の一つ一つの中に、神の愛と優しさをかぎわけ、その壁を乗り越えるための力を与えてくれるのが信仰です。
そしてこの女性は、イエス・キリストご自身が壁となって立ちふさがる状況の中で、その壁を信仰によって越えていきました。
 この女性はただ一言で、彼女の持てる信仰のすべてを表しました。28節をご覧ください。
「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」。
彼女は、イエスさまが謎かけのように語られた「子ども、パン、小犬」というたとえを一瞬で理解するほどに目が開かれていました。
そして本来、神の子どもであるユダヤ人の宗教指導者たちが、イエスさまを救い主として信じず、その恵みを拒み続けたことも知っていました。
そのうえで、私は犬であり、娘は子犬と蔑まれていても、子どもたちが拒んで床の上に捨てているパン屑をいただきとうございます、と訴えました。
その信仰に対して、イエスさまは答えました。
「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」。
ここは「そこまで言うのなら」というよりは、「よくぞ申した」というやや古めかしい訳のほうが合っていることでしょう。
まさにイエスさまはこの女性の信仰に、目を細めて喜び、恵みを与えてくださったのです。

 もしあなたの目の前にある現実が絶望的でも、決して気落ちしてはなりません。
信仰の試練を通して、私たちは神の荒々しい一撃からさえも、愛と優しさをかぎわける信仰の高みへと引き上げられます。
それはただみことばだけに希望をおく信仰。
出口の見えないトンネルというたとえがありますが、出口どころか、壁の隙間から差し込むわずかな光も、出口から吹き込む風の動きも感じられない絶望的状況でも、決して勇気を失わない信仰。
それは、ただ神のみことばを素直に受け止め、ただそこにすがりついていく、この女性のような信仰です。
どうかこの一週間、この一ヶ月も、今日みことばにあずかった一人ひとりがそのような信仰の高みへと引き上げられていきますように。

「恵みは0点から始まる」(マルコ7:14-23)

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 みなさん、おはようございます。
今日もイエスさまが語られたみことばを通して、私たちは恵みをいただきたいと願います。
しかし今日の箇所も、イエスさまのみことばは、厳しい言葉だなあと思います。
この前、コロナウイルスの新しい変異種の特徴が、まるでカミソリを口から飲み込むような喉の痛みということを紹介しましたが、まさにイエスさまの言葉は厳しいどころか、カミソリのを飲み込むほどに恐ろしいと言ってもよいかもしれません。20節でイエスさまは弟子たちに言われました。
「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。」
そして続く21節からは、その「人から出て来るもの」を、これでもかこれでもかというくらいに挙げています。
「悪い考え、淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪い行い、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」。
イエスさまの口をふさぎ、私たちの耳をふさぎたいくらいの罪と汚れのオンパレード。
しかしそれが人の内側から発し、外にしみ出していくものなのだ、と言うのです。

 この箇所は、もともとはパリサイ人たちがイエスさまの弟子たちに対して、なぜ食事の前に手を洗わないのかと非難したところから始まっています。
彼らは何かを食べるという行為は、汚れたものが自分の中に入ってくることだ、という教えを、昔からの言い伝えとして守っていました。
だから手を洗え、からだを洗え、器を洗え、と、本来神さまが命じてもいないことをあらゆる人々に強要していたのです。
しかしイエスさまは、外から入ってくる食べ物で、人を汚すものなど何もないのだ、はっきり宣言されました。
人を汚すもの、それは外から入ってくるのではなく、もともと自分の中に潜んでおり、それが人の内側から出てくるものなのだ、と。
それが先ほど触れた、悪い考えや、淫らな行いといったオンパレードです。

 悪いものはすべて人の内側から起こってきて人を汚す、外からは入ってこない、とイエスさまは言われました。
それではよいものはどこから来るのか。
私たちの中からは悪いものだけではなく良いものも出てくると言えることができたら、どれだけ良いことでしょうか。
しかし聖書が教えていることは、私たちを絶望させるのです。
悪いものはすべて人の内側から出てくる。
そして良いものは人の中からは決して出てこない、と。

 もし人の中からも良いものがたとえわずかであっても出てくるようであれば、私たちにイエス・キリストは必要なかったでしょう。
もし生まれつきの人の中に、わずかでもよいものがあるとしたら、それにしがみついていけばいい。
事実、世の中の多くの人はそういう人生観の中で生きています。100%善人がいないように、100%悪人もいない。
だからこの世の中、捨てたものじゃない、と。

 しかし聖書は、人間もこの世界も、そんな生やさしいものではないと教えています。
神に作られた最初の人間アダムとエバは、神の最高傑作でした。
しかし神のことばを破ったとき、彼らの中に罪と死が生まれました。
それ以来、彼らの子孫であるあらゆる人間は神にのろわれた汚れたものとなり、人が作り上げる世界は、傍目には美しく見えてもそれは滅びに向かって走り続けるものになりました。
いまや人は、99%の闇の中に1%の光が宿っているようなものではありません。100%の闇。
真っ暗闇です。
闇にうごめくあらゆる人々は、まことの神がわかりません。
ですから自分で神を作り出し、それを拝みます。
それを聖書では偶像礼拝と呼んでいます。
しかしどんなに偶像を拝んでもそこに救いはなく、満足もありません。
常に偶像をとっかえひっかえして、信じる対象も変えていく。
それがあらゆる人々の姿です。

 これは、世の中の人には受け入れがたいことでしょう。
なぜならあなたがその真っ暗闇の人間なのだと言われているわけですから、とうてい認めたくないからです。
クリスチャンでさえそうかもしれません。
生まれつきの人間は100%闇だというけど、救われる前の私はそこまでひどくなかった。
自分から神を求めて教会に来たんだ、という人もいるかもしれません。

 しかしもし私たちが考える罪や暗やみがその程度だとしたら、救いの恵みもその程度でしかない、ということです。
イエスさまの十字架は、私たちを完全に救い出しました。
かつての私たちが100%真っ暗闇の生き物であったからこそ、神ご自身であるイエスが十字架にかからなければなりませんでした。
かつての私たちが、自分で自分を変えることのできない、100%罪の固まりであったからこそ、父なる神は、ご自分の一人子であるイエスを十字架につけて身代わりにする、という方法でしか、私たちを救う道はありませんでした。

 自分が暗やみそのものであったと認めるとき、むしろ私たちの中には決して尽きることのない感謝が生まれてきます。
そんな私たちを決して見捨てようとしなかった、神の愛が心の中に広がっていきます。
この神の前では、私たちは長所を伸ばすとか、可能性だとか、誰かに必要とされているとか、そういう耳に聞こえのよい言葉にすがる必要がなくなります。
私は100%罪人である、誰も私を必要としていなくても、そして何も私は与えることができなくても、それでも神は私を愛しておられる。
この事実は決して変わりません。
神は私たちを必要としているから愛しているのではありません。
私たちが善き存在であるから愛しているのではありません。
頭の先からつま先まで汚れで満ちていたとしても、神は私たちひとり一人を愛しておられます。
だからこそ、イエス・キリストを私たちの身代わりとして、十字架にかけられたのです。

 求道者として教会に通っていた頃の私は、自称99点の人間でした。
口では私なんかと言っていても、心の中では自分はよくやっていると自分を慰めて、なんとなく洗礼を受けた人間でした。
しかし自称99点なので、神さまへの感謝は1点分の枠しかありません。
礼拝のお祈りで感謝を口にしても、それは口先だけであり、自分が救われたのはそのうちどでかいことをやってのけるために神に選ばれたのだなどと考えていました。
しかし教会生活から離れた約二年間の最後に、神は私を0点の人間なのだと気づかせてくださいました。
そこに至るまでは、自分に絶望するという苦しい経験がありましたが、自分に絶望したときに、初めて神は私を離さないのだとわかりました。

 今でも私は0点です。
教団の上の人からはもっと教会を成長させろとか洗礼者出せとかいろいろ言われているような気がするのですが、もともと0点だしなーとか思いながら、自分にできることを精一杯やるのみです。
しかし0点というのは、素晴らしいのです。
神さまへの感謝の枠が100点分まるまるあります。
私が地上に残せるものはやがてすべて消え失せたとしても、約束されている永遠のいのちは決して消えることはありません。
私たちを罪から完全に救うために死なれたイエス・キリスト。
このお方が私たちに与えられていることが、私たちの信仰の出発点であり、ゴールでもあります。
自分自身は0点だとしても、100点に足りない部分は、すべて神が満たしてくださいます。
ただ神が私たちひとり一人を愛し、用いてくださることを心から感謝して、歩んでいきましょう。

「聖書で十分」(マルコ7:1-13)

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 みなさん、おはようございます。
今日の説教は、マルコ福音書の中から、「聖書で十分」というシンプルなタイトルで語らせて頂きたいと思います。

 先日、ある方から統一教会やエホバの証人などのキリスト教の異端について質問を受けました。
私たち正統的な教会で教えられていることと、彼らの教えを見分けるのは、決して簡単ではありません。
というのは、彼らは十字架についても語りますし、聖書を神のことばとして認めているからです。
しかし彼らは、聖書や十字架については認めても、聖書だけでは十分ではない、十字架の救いだけでは足りない、というところです。
この「足りない」という意識から、それを満たすための方法として、聖書以外の教典が生み出されます。
しかしそれは神のことばではなく人の言葉にすぎず、そこから組織に都合の良い、さまざまな反社会的な活動や、信者に対する束縛が生み出されていきます。
そしてその異常さに気づかないまま、信者たちは家庭崩壊や、行きすぎた伝道活動や献金を賄うために体を壊し、場合によっては自死にさえ至ります。

 今日の聖書箇所に登場するパリサイ人たちは、そんな現代の異端の姿と決して遠く離れていません。
彼らは3節や5節にある「昔の人たちの言い伝え」を、聖書そのものよりも権威のあるものとして、人々に押しつけていました。
彼らからすれば、自分たちは聖書を信じている、昔からの言い伝えは、その聖書をよりわかりやすく解説するものだ、という理屈だったでしょう。
しかしイエスさまは、彼らが自分でも気づいていない間違いに、はっきりと気づいておられました。
8節をご覧ください。
「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」。
さらに9節ではこうも言われています。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」。
 神の戒め、それは言うまでもなく旧約聖書のことです。
地上のあらゆる民族の中で、神はイスラエルだけを選び、彼らだけにみことばを与えられました。
それは、この神のことばだけにとどまり、この神のことばだけに従って歩みなさい、そしてそれによって、地上のあらゆる民族は、あなたがたの姿を通して、神のことばだけに従う人生の祝福を知るであろう、と神は約束してくださいました。
しかしイスラエル、つまりパリサイ人の先祖たちは聖書に満足できなかったのです。
聖書に言い伝えを付け足していき、これを守らなければ、十分ではないと人々に教えたのです。
食事をする前には手を洗え、市場から帰ってきたら水浴せよ、そんなことは聖書のどこにも書いていません。
杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることも聖書のどこにも書いていません。

 後半に書かれているコルバンの規定などは、現代の統一教会のような異端の姿を見ると、あまりにも似通っていることに恐ろしささえ感じます。
両親や子どもたちに与えるべき財産や不動産などを自分たちの団体に寄付させることで家族を分裂や離散に会わせるようなことも平気で行うような人たちと、このパリサイ人たち。
聖書のことばだけでは満たされず、この世での富や栄華を求める宗教指導者たちの醜い姿が、時代を超えてここには描かれています。
 しかし、異端の団体だけでなく、私たち正統的教会に所属するクリスチャンの中にも、その芽のようなものは隠れているのです。
聖書だけでは物足りない。
聖書だけでは私の信仰は不十分だ。
信仰を成長させるために、まだ私の試していないことがあるのではないか。
そんな理由から、本来の建徳的な信仰の道を踏み外し、信仰の喜びを見失ってしまう人々を見てきました。
しかし「信仰のため」「成長のため」、そのために神が聖書を与えてくださったのに、その聖書では足りないかのような教会生活は、たいへん危ういものとなります。

 旧約聖書の最初の書、創世記には、この世界に罪が入り込んだ原因は、最初の人アダムとエバが、神のことばを守って生きることだけでは不十分だと感じたことから始まった、と記しています。
アダムの妻エバに蛇、すなわち悪魔がこうささやきました。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」。
悪魔は人に対して、みことばに対する疑いを起こさせました。
そして善悪の知識の実を食べてごらんなさい、と誘惑しました。
そうすれば、あなたがたの目は開け、神のようになるのだ、と。

 聖書は、それだけでいのちを受け取ることのできる神のことばです。
これに従って歩むとき、私たちは救われるのです。
しかしそれで十分なの?もっと目が開かれる方法があるんだよ?悪魔は常にそのように疑いを持たせることで、人を惑わしていきます。
ユダヤ人たちは、聖書だけでは不十分であると、自分たちの言い伝えのほうを優先しました。
そしてキリスト教会の二千年の歴史でも、それが絶え間なく起きてきました。
 初代教会の時代には、イエス・キリストを信じる福音だけでは足りない、律法も行わなければ救われない、という異端がはびこりました。
それからしばらくすると、ギリシャ哲学が教会に入り込み、キリストへの信仰だけでは足りない、神から特別の光を受けて、他の人には知り得ない奥義を与えられた者だけがまことのクリスチャンだ、と主張する者が現れました。
 手を変え、品を変え、教会は常に誘惑にさらされてきました。
異言が語れなければだめ、悪霊を追い出す力がなければだめ、 細かいところは変わっても、その主張の中心はいつも同じです。
聖書を信じているだけでは足りない、キリストを受け入れただけでは足りない、と。

 「蛇足」という中国の故事があります。
何人かが集まったとき、その場に酒が一杯分だけありました。
蛇を最も早く書けた者が、この一杯の酒を手に入れることにしよう。
一番早く書いた者が、杯を手にしながらこう言いました。
「俺が一番だ。まだ余裕がある。蛇に手足も書けるぞ。」
すると隣の男が、蛇には手足などない、おまえの書いたものは偽物の蛇だと、杯を奪い取りました。
ここから余計なものを付け加えることを「蛇足」というようになりました。

 私たちの信仰には、言うまでもなく蛇足は必要ありません。
聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ。
蛇足に惑わされないために、私たちは聖書だけに聞くべきです。
聖書にも答えがない、などと言わずに、聖書を何度も何度も読み返す。
この聖書の中に、必ず私への神の答えがあると信じる。信じ続ける。
この時代は、ユーチューブで検索すれば、肉じゃがの作り方から核ミサイルの製造方法まで何でも調べることができます。
「聖書で十分」という言葉は、時代錯誤として笑われますし、その聖書さえ、ネットを開くと、簡単にメッセージに触れることができます。
しかしみなさんは、メッセージではなく、聖書そのものから答えを探し続けてください。
読んでもわからない、というのは言い訳です。
神はクリスチャン一人一人に御霊を与えてくださいました。
その御霊が私たちに必ず聖書を悟らせてくださいます。
もしそれを経験したことがないとしたら、それは初めからあきらめてしまっているからです。

 神さまは、聖書66巻の中に、私たちに十分なものを用意してくださいました。
一人一人が、勇気を出して「聖書で十分」と告白することを願います。
イエスさまのことばは聖書の中だけに書かれています。
それ以外には書かれていません。
この一週間も、聖書だけに聞き、聖書だけに従って歩む、そのような信仰生活を進んでいきましょう。

「一人になってこそ聞こえるもの」(第一列王19:1-14)

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 みなさん、おはようございます。

 今日の説教は旧約聖書から、預言者エリヤについて語らせていただきます。
とはいえ、今日の聖書箇所に出てくるのは、預言者エリヤの華々しい活躍ぶりではありません。
むしろ、この直前に描かれている、バアルの預言者に対する大勝利から一転しての、エリヤのどうしようもない疲れと無力感です。
しかし神は彼を見捨てず、静かに、じっくりと、取り扱われるのですね。
今日の箇所を読むと、エリヤについて少しでも知っている方は、これがあの大預言者エリヤなのかと思うほどに、情けない姿をさらしていると感じることでしょう。
エリヤがバアルの預言者たちを皆殺しにしたと聞いた王妃イゼベルは、「今から24時間以内にぶっ殺してやる」とエリヤを脅迫するわけです。
するとエリヤは何と荒野から一日の道のりまで逃げていくのです。
「自分のいのちを救うために」とありますが、彼は神さまに「私のいのちを取ってください」と祈っています。
もう疲れてしまった。何もしたくない。
このまま死んでもいいですわ、という投げやりな姿を感じます。
もちろん、本人は真剣なのでしょうが。

 昨日までバリバリ働いていた人が、今日になってガクッと落ち込んでいる、これは決して珍しいことではありません。
一つのことを成し遂げたとき、私たちには達成感が生まれます。
しかしその達成感は麻薬にも似ています。
自分の内側に疲労がたまり、それが臨界点にまで達していることを忘れさせてしまうからです。
クリスチャンの場合には、さらにやっかいです。
神のため、教会のため、それが喜びや自発性から生まれるのではなく、自分がやらなければ立ちゆかないという歪んだ使命感に結びつくと、自分を客観的に見つめることができなくなります。
信徒の場合、牧師が「そこまで」と言ってくれると手を離すことができるのですが、牧師の場合、どこまでやっても牧会の一区切りが見えず、ひたすら走り続けるということもあるのです。

 いやいや、本物の信仰者は走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
疲れるのは信仰がないからではないか、という人もいます。
しかしもしそうであれば、ダビデが作った詩篇の多くは生まれなかったことでしょう。
信仰があるからこそ、ダビデは疲れ苦しみました。
神が遠いと感じ、神に向かって叫びました。
信仰があるから疲れないということはないのです。
では信仰とは何か。
それは、この世で常にトップギア、ハイスピードで走り続けることを求められている私たちが、しばし神の前に静まるようにという神の招きです。
信仰をもって静まるとき、神はエリヤ、そして私たちにこう語られます。
「あなたはここで何をしているのか」。
それは決して責めているのではありません。むしろ招いているのです。
どんなに華々しい勝利を収めても、それは私たちではなく神が与えてくださったもの。
私たちはそれに気づかず、高ぶり、知らないうちに疲れを宿している。
だからこそ御前に静まり、みことばに自分の姿を映し、恵みをかみしめながらたましいを安らがせること、それが大切、いや、必要なことです。

 「あなたはここで何をしているのか」という呼びかけに、エリヤは今まで自分が行ってきたこと、それに対する民の姿を訴えました。
しかしそこで神は、エリヤは外へ連れ出し、嵐、地震、炎を体験させます。
しかしその中には神はおられなかった。
ただ、火の後にかすかな主の声が聞こえた、とあります。

 エリヤが経験した嵐や地震、炎は、私たちが信仰生活の中で経験する、多くの恵みや勝利を表しています。
しかし恵みの体験や、勝利の体験、それは神が与えてくださるものではあっても、神そのものではありません。
劇的な信仰体験に引きつけられ、かえって神のみことばが聞こえなくなることもあります。
しかし神がおられるところは嵐の中でも炎の中でもない。
エリヤが無力感をおぼえ、もがいていたとき、神は静かな、ごく静かな御声を通して語ってくださいました。
そしてこの経験は、エリヤが神の山ホレブに導かれてのことでした。
つまり私たちにとって、礼拝とは何かということなのです。

 礼拝で大切なことは、そこにどれだけの人が集められるかではありません。
なぜなら礼拝の本質は、それぞれがみことばの前に一人になることだからです。
確かに多くの人が集まります。一緒に賛美をし、告白をします。
でも私たちはここで一人になるのです。一人にならなければならないのです。
自分が抱えている問題、言い換えると、心に空いている穴や傷に対して、神は同じみことばを、それぞれに違った形で語りかけておられます。
私たちは一緒に礼拝を守りつつも、しかし本質的には、それぞれが神と一対一で、みことばを受け取るのです。
そしてそれを分かち合います。
こうしてそれぞれがみことばを受け止めていくとき、これからの一日は昨日までの日々とは異なるものとなるでしょう。
みことばが静かに、しかし確実に、私たちに息吹を与え、永遠のいのちの喜びを溢れさせてくださいます。

 新約聖書の中に、イエスさまが弟子たちを休ませるために、むりやり船に乗り込ませたという記事があります。
弟子たちも、毎日毎日、神の大いなるみわざを経験する中で、いつのまにか心が疲れていたことを主は知っておられ、それゆえにやでもか船で送り出して、寂しいところで休ませたのです。
私たちは、この礼拝を通して、神さまの前に自分の心を注ぎ出しましょう。
自分でも気づいていない、たましいの疲れを神さまに取り扱っていただき、そして新しい一日を、神の恵みを喜び楽しんでいきたいと願います。

 

 

「私をあわれんでください」(ルカ18:9-14)

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 みなさん、おはようございます。
今日の礼拝説教では、イエス・キリストのたとえ話の中から、私たちがどのように生きるべきなのかということを考えていきたいと思います。

 最初に9節をお読みします。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された」。
たいへんストレートな言い方ですね。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」。
いったいだれのことでしょうか。
少なくとも私のことではないな、と思えたら、ある意味幸せかもしれません。
しかしここで「たとえ」と書かれている意味は何でしょうか。
別のところでイエスさまは「たとえ」について、こう説明しておられます。
それは、真剣に聞く者にはその心の中で豊かに実を結ぶが、真剣に聞かない者に対しては、ますます心を鈍らせ、かたくなにするものなのだ、と。
つまり、たとえというのは、聞く側の態度によって、いのちに導くものにもなるし、滅びにとどまらせるものにもなる、と。
たいへん恐ろしいものなのです。
もう一度、最初の言葉に戻ってみましょう。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」。
それはいったい誰のことなのか。
イエス様は、わかりやすいたとえ話を通して、じつは鋭い刃を私たちひとり一人に向けています。
その刃の先を手でつかんで、自分の喉元に近づける者、それがみことばを真剣に聞く、ということです。
一歩間違えれば、その剣は自分の喉を突き刺す。
しかし神のことばが私に語られている。
命をかけてそれを聞くときに、それは私を内側から変える神の力となる、と信じて、自分自身に神のことばをあてはめる者、それが私たちひとり一人であってほしいと願うのです。

 パリサイ人は、私たちひとり一人の中に眠っている、他人を見下し、自分を正しいとする、高ぶった心であると言えましょう。
そして彼はこのように、神の前に祈りました。11節、12節をお読みします。
「神よ、私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております」。
言葉はたいへん丁寧ですが、祈りと呼ぶのもおこがましい、自己顕示欲の匂いがぷんぷんします。
週に二度断食する者。十分の一を献げている者。
それ自体は悪くなくても、だから私はほかの人々とは違い、神さまに忠実な人間なのだ、とひけらかしています。
それも一つや二つではなく、いくつもの肩書きを並べなければ、満足できないのでしょう。
パリサイ人は勘違いをしていました。
週に二度断食という霊のささげもの、十分の一という肉のささげもの、それらがあたかも神を養っているかのように勘違いをしていました。
だが神は何も必要としていません。
神が人間を養ってくださるのであって、人間が神を養うのではありません。

しかし取税人に目をとめてみましょう。
彼が神さまの前に訴えた言葉は、ただ一つです。
「神様。罪人の私をあわれんでください」。
この違いは明白です。
パリサイ人は、いくつもの肩書きを並べ、そして誰かと比べることでしか、自分を言い表すことができません。
しかし取税人にとって、自分自身を誰とも比べる必要はなく、肩書きもたったひとつです。
「罪人の私」。
それを認めることができるか、できないかが私たちの人生を左右します。
取税人は目を天に向けようともしません。
そして自分の胸をたたいて言いました。「こんな罪人の私をあわれんでください」。

 私たちの中にある、どんなよいものでさえ、神さまの前には汚れたものでしかない。
そのような言葉は、現代では決して受け入れられないでしょう。
しかし昔の説教者はこう言いました。
「私たちの悔い改めの涙でさえも、小羊イエスの血で洗われる必要がある」と。
私たちのもっともよいささげものでさえも、神からの好意のひとかけらすら受けるに値しない。
だからこそ人間は、自分では神を満足させることはできない、それが私たちが救い主を必要としている理由です。
しかし神は、イエス・キリストによって私たちを救ってくださいました。
それは、私たちが何一つ神を喜ばせることができないとしても、この世のどんなものよりも神は私たちを愛してくださっている、ということです。
ひとり子イエス・キリストのいのちをひきかえにしてでも、私たちを滅びから助け出そうとされました。
だから私たちは、その愛に身をうずめましょう。
神がもし私たちを必要としているから私たちを愛したとしたら、それは愛に値しません。
愛は無条件なものだからです。
神がなぜ私を愛するのか。そこに理由はありません。
理由がないからこそ、愛なのです。
このパリサイ人がはまってしまった、人と比べての自分の実績を、パウロはちりあくた、より忠実な翻訳では汚物と呼びました。
私たちもまた、自分の実績から目を背けましょう。

 ダイヤモンドは、人間が宝石を磨くことをおぼえる前から、ダイヤモンドでした。
ダイヤモンドの原石を磨くことを見つけたのは人間ですが、それがなくてもダイヤモンドはダイヤモンドだったのです。
この意味がわかるでしょうか。
だれかがあなたを必要としているから、あなたの人生は価値があるということではありません。
あなたがこの地上に神によって作られ、見いだされ、ここに今生きているということ、そのものの中に価値があります。
これからの一週間、神の無条件の愛をかみしめながら、歩んでいきたいと思います。